Monologue VIII

文 / 丸山玄太

二月十八日

 今日はいつだろうか。ベッドの上で一日を過ごす身では、今日も、昨日も、その前もほぼ変わらない。季節を何となく感じるくらいで十分だ。次の季節を迎えることはもうなさそうだが。
 異変の始まりは左手の小指からだった。痙攣というのか硬直というのか、思い通りに動かないことが度々起こるようになり、そのうち殆ど動かせなくなった。医者は首を傾げつつ、疲労かストレスか、という曖昧な診断をしたが、一応、と近隣の総合病院を紹介してくれた。だがそこでも結果は同じだった。今思えば傲慢過ぎるように思うが、治療など受ける気はそもそもなかった。これが死に繋がることなのか早く知りたいだけだった。死に繋がることであって欲しいと願っていた。その後も、大学病院、研究機関とたらい回しにはされたが、長くは生きられないだろう、と告げられたときには、だから安堵してた。これでやっと妻を理解できると。だがそれも一瞬のことだった。症例が数えるほどしかなく、徐々に身体機能が失われていく、ということ以外、治療法すら分からない。余命すら告げられない。理解できぬまま、立ち止まったまま朽ちるのか、と随分とあのときは落ち込んだものだ。
 妻は治療さえ受ければ助かる病だった。この状況で治療を拒む、死を選ぶ人はどれだけいるのだろう。到底理解できる選択ではなかった。生きることが唯一正しい選択だ。妻の最期の時間を私はそう説得し続けたが、妻が首を縦に振ることはなかった。入院してから妻は目に見えて痩せていったが血色はいつまでも良かった。だがあれは病室の壁やカーテンの淡いピンク色が映っていただけだった。腹立たしさと虚しさに埋もれていて、あれほど顔を近づけていたのに、妻の肌の色さえ見えていなかった。自分を救いたかっただけなのだろう。妻が逝ってからもそれは変わらなかった。正しさで救われはしない、と分かろうとしてもそれに縋る他無かった。正しいはずの存在しない今を想像し、間違った現実を呪い、間違えた妻を恨んだ。求めれば求めるほど、妻は遠くなった。だから私は立ち止まった。妻と同じ状況で、同じ選択をすることでしか理解できるとは思えなかったから、今を手放しその時を待つことを選んだ。そのような機会は訪れはしなかったが。
 だが、受け入れてはいる。最後に歩いたあの日から。あの頃には右足は殆ど動かない状態だったから、近いうちに歩けなくなるとは分かっていた。でも最後にあれだけ歩くことになろうとは考えてもいなかった。そんな状態で三〇キロほど歩いたんだ。何故歩いたのか未だに分からない。いつの間にか歩き出していて、それが終わらなかった。雪の舞う寒い日だったが歩いているときは不思議と寒さを感じなかったし、殆ど左足だけで進んでいるにも関わらず疲労さえも無かった。歩く、それだけがただあった。だが郊外のそれほど大きくはない公園に辿り着いた瞬間、それは唐突に消えた。堰き止められていたかのように寒さや疲労が押し寄せて、抗う力も無く薄く積もった雪の上に倒れた。皮膚に触れた雪はとても暖かかった。それだけ身体が冷えていたのか、それとも違う何かを見ていたのか。どれだけ倒れていたのだろう。気づくと空は藍色に染まり、夜が明け始めていた。その中に私の足下まで続く一本の線が浮かんでいた。白く覆われた地に右足が引いてきた線が。
 妻は死を選んではいないのではないか。あの線を見たときに、どうしてだろう、そう思ったんだ。それまでと同じように生きることを望んだだけだったのではないかと。選択することができる、と何故思ってしまうのだろう。あの右足が引いた線は一本だった。過去から今へと続く。大きく曲がっていても、酷く歪んでいても枝分かれなどしてはいない。人はそこに存在しない別の線を引く。あのとき違う選択をしていたら、と枝を接ぎ色を変える。そうやって存在しない可能性に縋り、救われた気になる。だが、幻想をどこまで延ばしてみてもそれは今と繋がりはしないだろう。そうでなければ私はここにはいないのだから。
 立ち止まることを選んだはずだが線は延びていた。選択などとは無関係に。その線の上に妻の死があったのだから、結局、受け入れる他無いことなのだろう。選ばない、ということもまた無いのだから。問題はそれにいつ気づくか、ということかもしれない。生きているうちで良かったと思う。

 失って久しい四肢が俄に疼き始めた。気温が下がってきたのだろう。ここのところは穏やかな天候が続いていたのだが、明日は雨か、もしかすると雪になるかもしれない。

丸山玄太 1982年長野市生まれ 東京在住 クリエイター
undergarden主催