私、運動したかったんですけど

文 / 北島由美

私は中学でほんとはテニス部に入りたかった。
高校でもテニス部に入りたかった。
大学のサークルこそテニスか、運動系にしようと思っていた。
結局テニスを始めたのは、自分の子どもに手がかからなくなってからだった。

中学でテニス部にはいっていたら、私はどうだったんだろうと思う時がある。
それと、今だから思うのは、なぜずっとやりたい運動をちゃんとやらずにきたのだろうということ。

小学校のときは、6年生で139センチしか身長がなかった私だが、運動神経はなかなかのものだった。
体力テストでも好記録だったし、なによりからだを動かすことが大好きだった。

ピアノは習っていたけれど、レッスンで楽しいと思ったことはほとんどない。
楽しかったのは中学で合唱の伴奏した時や高校で室内楽のチェンバロを弾いてたときくらい。

いつも自分のしたいこととは違うことを、折り合いをつけてやってきた気がする。

娘たちがテニスを始めたころ、「まだまだね」と軽くあしらいながら相手をしていたときいわれたことがある。
「なんで中学のとき部活テニスやらなかったの?最強になってたんじゃない」
「そうねえ。」

そういえばスキー。中学の赴任地が大町、戸隠とスキー場に近い学校だったから、
半端なくスキーをした。スキーの級も受けたいと思っていた。
スキーをやりたい放題やり始めたのは、就職してからのこと。

最近スキーに行ってないなあ。必ず毎年行ってたのに。戸隠スキー場はどれほどいったかわからない。
スキー場で遭難経験のある人って少ないと思う。仲間と奇跡の生還をした。
猛吹雪が収まって山をおりていったら。救助隊が出る寸前だったこと、これほんとの話。
私が高校生のとき。引率していた父は、蒼白だった。

私が運動をやらなかったのは、まあ簡単にいえば母の視線を感じていたからである。
小さい時は、ピアノの練習をサボルと鬼のような形相で叱責された。
勉強もこつこつやるものだと教えられた。
その母の目に見えぬ圧力が「運動部はだめ。勉強もピアノもできなくなるから」と
いっているかのようだった。
だから、最終的にいつも運動部を避けていた。

いま母を恨んでいるわけではもちろんない。
ただ、幼児教育に深く携わっていると親子関係(特に母子関係)がその人の人間形成に
大きく影響を及ぼすという事実に否応無しに向き合う。
いわなくても子どもには伝わることがある。
「そんなことないよ」という裏のことばが子どもには聴こえてしまう。
それを墓場まで引きずる母子関係もある。
私もまた母の影響を色濃くうけていたという事実。

社会を動かしたいとおもうなら、母になるための教育に力を入れればよいのだと思う。
母の気持ち一つで、母の発言一つで家庭はどうにでもなる。
母が健やかであれば社会は平和になる。

大切な入園までの時期、母が働かずに子育てを楽しめる環境と保証があったらいいのだ。
世の中の母と母予備軍の皆さんが、一人でも多く天才を育ててほしいと思う今日この頃。

北島由美 yumi kitajima 1961年長野市生まれ
リトミック講師
中学音楽教師6年勤務後退職 専業主婦業10年後リトミックを学ぶ
養成校卒業後リトミック研究センター長野第一支局をたちあげ
現在同支局チーフ指導スタッフ
pata24@mx2.avis.ne.jp
こどものためのリトミックながの