七月二十八日
あ…どうも。
このままで…、あ、はい…。
はい、4年ほどでしたね、ここにいたのは。
切っ掛け…切っ掛けですか。分かりません。…これですかね。このベンチに座ったから、ということでは駄目ですかね。
そうです。おかしいでしょうけれど、立ち上がろうとしたらもう立てなくなっていたのです。
…どうして…ですか……何と言いますか、立ちあがる意味と言いますか、価値と言いますか、それを失ってしまったようでした。
あ…いや、少し違いますね。あらゆる物事の価値が等しくなってしまった、という感じかもしれません。だから、何か…全てに対する意味を失ってしまった。10なのか5なのか0なのか、どれにしたって同じなのですが、突然全てが等しいものになってしまったようです。立ち上がろうとするまでのどこかで。
全く等しいので比べられないのです。立ちあがることも、座ったままでいることも、その後に続くあらゆることも、どれもが等価なので、現状を受け入れるばかりになる、と言いますか…。
魅力…そうなのでしょうね。自覚しているにしろ、していないにしろ、相対的に物事の価値を比較して行動しているのかもしれません。
考えたことはないですね。でも、それが、歩いている時に訪れていたらそのまま家へ帰っていたのだと思います。家族で食卓を囲んでいる時だったとしたら、知らずにそのままの生活を続けていたのかもしれません。私にはここのベンチで訪れた、という…タイミング…ですね。
あ、はい…妻と娘が。
ここに来てからは会っていません。二ヶ月ほど前でしょうか。当時住んでいたマンションへ行ってはみましたが。
いえ、もう住んではいませんでした。
何度も通ったので覚えていますけどね…煙草吸っても良いでしょうか…どうも。
仕事帰りです。
いいえ。会社は地方にあります。私は産業機械の設計をやっていたのですが、マシニングセンタなどはご存じですか。…そうですか。要は金属加工を行って組み立てる機械なんですが、そういった産業機械の受注先がこの近くで、設計内容の打ち合わせで訪れました。
どうして…なんでしょうね。春と夏の間の夕方か…いやもう夜でしたか。私たちの上に葉を茂らせている、この木が精液のような匂いを出していた頃でしたね。ただ何となく帰り際にここへ足が向いて、何となく、懐かしさのようなものだったでしょうか、何となく座って、そのまま、でしたね。
疲れていたわけではなかったと思います。そうだったのかもしれませんが…覚えていません。久しぶりの大型案件でしたから、それなりのプレッシャーはあったとは思いますが、それよりも嬉しさの方が大きかったように思います。今もだとは思いますが、当時もあの業界は厳しくて。メンテナンスばかりで新規受注もなかったので。
大丈夫です、持ってますから。ここに住んでいましたしね、どこで誰が生活をしているかなんて分からないですから。
あ、すみません。そうです、そのままベンチで寝ました。
はい、ずっと。
あなたと話いて気づいたようなものです。日がな一日ここに座って、まぁこのような場所ですから人通りは少ないですが、それでも一日ですから、目の前を何人もが行き交います。そのことにどんな意味がありますか。過ぎ去る見知らぬ人が家族と等価といえば、重要なことのようにも思えますし、不仁のようにも思えます。どこから見るか、ということですね、きっと。
あなたのような若者がどうして、こんな陽気の日に、私に話を聞きにきているのだろうか、ということから、ですか。
そうですか、それでもまだ十分若いですよ。
他にも選択肢はいくつもあったと思いますが、あなたにとっては、今ここにいることが他のどれよりも価値があると感じたということでしょう。他の選択肢も、選択肢として挙がっている以上、無価値ということもないでしょうから。
この先の糧になるか、という保証は影響しないのでしょうね。
はい、あの日もここに座っていました。
えぇ。最後の日です。
あの日は、皆同じ顔で、同じ速さで過ぎていくのですよ。左から右に、同じ方向へ。帰るのだろうな、とは分かりました。ただいつもでしたら、夕方過ぎくらいに少し増えるだけで、その後はパッタリと誰も通らなくなるのですが、あの日はいつまで経っても途切れることがなくて、夜が更ければ更ける程、人が増えましたね。
あぁ、そうだったのですか。
朝方、まではいっていなかったと思いますが、列の最後に連なって、ここを離れました。
あれはどこだったのでしょうね。
分かりません。何かに少しだけ価値が生まれた、ということですかね。何か、分かりませんが…寂しさ、とかでしょうか。分からないことに価値を見つけるというのは、でも誰にでもあるでしょう。あなたのこの行為も、そこに含まれているように、私には思えますし。
今、ですか。今はまぁこのようなものです。