あなたが透明を生きる時

文 / 町田哲也

反図画工作 21/01/2015

  表現及び鑑賞の活動を通して,つくりだす喜びを味わうように  するとともに造形的な創造活動の基礎的な能力を育て,豊かな  情操を養う。
  日本の初等教育における教科の1つ。中学校・高等学校の美術・  工芸(高校)・技術に相当する。略して図工(ずこう)ともいう。
                 wikipedia「図画工作」

 三島由紀夫が割腹自殺を行い断頭スクープが新聞に掲載された年、図画工作の時間に、同級生が茶碗などをこしらえていた片隅で私は、さらし首の楊枝差しを焼いた。大きく上に向かって開けた口が楊枝を差す穴となっていて、手のひらに乗る程度の小さなものだったが、これがタイムリーだからか受けたようで、職員室で欲しいと手を挙げた他の教諭のためにいくつか追加注文制作をおこなった。首と判断できる程度の凹凸の、造形的な工夫などひとつもない、ありあわせの釉薬が垂れて、幼い残酷がその無表情に露呈した気味の悪いモノのひとつが、父親の机上にも長い間置かれていたが、何処に仕舞われたのだろう。十二歳の頭に、女、子供には気味悪がられたと記憶された。
 工作のようだが決定的に「図工」ではない手触りの作業(氷の張った湖の音を聴くかの)を、雪降る冷え込む日々継続させつつ、ものづくりをしているようだがこれは徹底的に違うのだという弁えを、その作業過程の途中で必ず呟くように忍ばせるようでもあった。
 構築する過程を愉しむ「ものづくり」は、完成に向かい、終着点でその作業は終わる。完成という執着のない、むしろ未完の併置が、「問い」と「彼方」に展かれるニュアンスを探っておこなう作業は、工作ではなく、選択に対する決定を清潔に下すことであって、幼い心で三島の頭を、年老いても、丁寧にそっくりにこしらえるような沙汰には決して関わらないだろうと思った頃と何も変わっていない。私にとっては、情操(センチメント)とはかけ離れた世界へ「放下」(ハイデガー)する手触りだけでよい。

斥力14/06/1992

 「斥力」という概念が面白いのは、単純な力の関係であるからで、その裏側に引力という逆説を隠し持っているからいるからでもないし、反発する力を象徴構築する短絡的な言葉のもつ意味に惹かれるからでもない。斥力という性質ー(物体間において、互いに遠ざけようとする力)が、人間に作用するように、置く仕草を試みる時、併置に潜在する斥力の可能性を考える時、存在の孤立、排他的な存在の定着に陥ることなく、眺めが切り開かれてはじまる気配に満ちるからだ。存在に悪意があるとしたら、それはむしろこの斥力の欠如を示すのではないかと思う。
 斥力場という眺め自体、我々に宿る感想の類いであるにしろそれはそれでかまわない。そのものの、あのものへの遠ざけようと意欲する「形状」をつくること。自然は、単に断片の性質が投げ出されているにすぎない。過剰な仕草を与えると現実は嘘臭くなって、人間の肉の香りを漂わせる。モノがモノである空虚さを、誇るのではなく、我々がモノの性格、性質にやきもきして、焦れるように、「かたち」と「位置」と「表情」をみつけていく作業が、ぼくの立体制作である。人の仕草の象徴としての抽象能力の斥力場というもの。
 因に、引力、惹かれあう構造は、斥力を裏側に隠すけれど、そういった出来事はありふれている。所謂、「愛」は引力で語るべきではないということだ。
 整いの隙間から滲み出す乱れで、端的な立方空間をつくれないものか。乱雑なゲームにしないで、単純にとした挙げ句が、箱型であった。立方体は非常に便利な形態だ。
 睨み合いを睨む。消耗したビデオデッキを再生一時停止させ、画面がエネルギーの停滞に犯されて、ぴりぴり歪んでいる様子をそのまま数日眺める感触。ハードさえ壊れなければ果てがない。
 風景を現実としていかに捉えるかは、その方法よりも現実感という意識を回復させないとだめらしいが、ともかくこちらで、風景へ直接働きかけることで、余計で稚拙なイメジを払って、単純な現実をつくろうとする制作は、念力を開発して変幻自在に操ろうとする企みのようなものだ。時に観念も感想も朽ちて、輪郭のメリハリも消えて、どうしようもなくなる。だが痙攣するように身体は動く。そしてわけのわからない感覚で、イメジの残り滓を遠ざけようと、物理的な光景へ関わっていく。その反復が、ぼくの現実感になるのだからおかしなものだ。

暴虐から礼節の次 05/02/2015

 時の進行がわからなくなるので映画や気象情報を垂れ流した横で作業をしている。乱暴から入ったとも云えるが、作業自体が礼節となって洗練するのは、詭弁と感じられることもある。だがいずれにしろ、入りも過程も問題ではない。作業自体が通過儀礼と固まった時から、別の入口が生成する。
 そもそも限定的に世界を把握しようとしていないので、併置する「言葉」は、短歌やら俳句といった自立律のあるものでは併置のバランスが崩れ、まるで臍に埋めたダイヤモンドのような不相応な形となる。韻とかたちも拘ると同様に言葉の力が暴走する。世界素材の遊離状況自体を示すことが、こちらの測るやり方であり、その状況自体が刻々と機能する魂振れとしたいわけだ。
 とはいうものの実際のところ研磨や組み立ての作業自体に「思考持続」を救われていることは確かであり、あるいはそこからぴょんと離れるような一刀(一投)の隙をうかがってはいる。

 無論形そのものによって気づかされ促されることはある。それは重要なことではないけれども、その確認の踏痕は併置のための楔のような働きとなる。つまり作業行為的にはこの楔が重ねられているだけにすぎない。斥力という興味深い併置が及ぼすものがあり、これは明快であればあるほどその効果は大きい。陥り易い「関係」といった接続的完結は、これを目的とせず、併置構造の合理性の為のみに使われるべきであって、故に「非関係」「無関係」という体を示すことになる。よって時には併置の統合構造が関係性の帰結を導き易いと見受けられた場合、一度ばらばらにしてはじめに戻る。

点と線と量の経路から 27/01/ 2015

 設計(完了)がまずあるわけではない。作業は当面の目的のために実行され、その中途で暫定目的の実際を体感と知覚で確認する点において、次の作業が策定される。似た作業進行を経て再び確認する点を得るわけだが、この時は最初の点へ立ち戻る筋が加わった見通しを促される。作業過程が継続すれば点へ戻る線的なみつめと予知的な目的が量的なものへ変わっていくが、策定の手法のレヴェルは変わらない。実際に作業化しない仮定(予知)の筋も加わって、その虚構を幾度も往復する経路も量として嵩み、錯綜混乱の手前で、目の前に選別の果てのような現実に救われるという具合だ。

 こうした仕方の一体何処に、こちらの自己同一的表象化が在るのかと自らを問うと、おそらく振舞いに救われる瞬間であろうかと思われた。少年野球をしていた頃の、投手となって捕手のミットに球がばすんと音を出して収まった時の、あの心地とよく似ている。今ならば、パカンとバットで思い切り後方遠方へ打たれたとしても、同じような充足がありそうだ。

反芻  05/03/1992

 このところ寒さが失せたと思っていたら三月で、記憶のなかの季節の匂いが突然鼻先について、あの時は、、、、と憶いだそうとする。 眠れずにいる時間を、苛立ってすごしている。「マリジナリア」を読んでいる。時間の流れがはやい。ながされて、時々渦巻いて、禍。「眉雨」「斧の子」「叫ぶ女」と辿ったところで瞼がおりていた。古井由吉の作品は、読む度に、時間と空間に添って変容し新しい。
 夢をみる。起きて、わけもなく夢を弁解がましく反芻する。夢など捨てるように生きてきたような気がした。現実感の喪失の証拠とみてとっても、身体には凶の兆しをそれと示すものがみつからない。だから尚のこと困ってしまう。

枝舟幻視 12/02/2014

 おそらく最も古い人間の移動の道具は舟だ。と後付けで独り言ちた。そもそも受け取った美術作品の舟形を日々目にしていたことが幻視へ誘ったにちがいない。ボート、カヌー、カヤックと並べ調べそれらの美麗な形態にうっとりしてから、手作りの過程を重ねて眺め、シーカヤックで波をかき分けて大海に躍り出た人を目を細めて想った。
 舟を真上から見る釣り鐘を上下に合わせた形は、構造的に自然の中でも普遍に位置する形態である上、人間の動きの先に置かれたプレゼントのようなニュアンスもある。過去両手を合わせて発想したかもしれない。などと繰り返しふと顎をあげて窓の外の樹々の中に枝が絡まって出来上がった舟が浮かび、最初はオープンデッキのカナディアンカヌーでもつくろうかと呑気に考えたものが行成り変容して、水に浮く事ができないかもしれない舟を枝で工作してみたいとまですすむ。
 水面に浮かべて人間が乗りそれなりに沈み込む舟は、水を切って進む美しい流線型のほとんどが水面下に隠れて見えない。逆さまにすれば雨露を凌ぐ屋根になり、寝転んで息が絶えれば流される棺桶になる。ノアの箱船とは如何様だったろう。人間は長い時間舟をさまざまに使ってきた筈だと、実際は舟なんて日常使う謂れの無い生活をしているこちらの儚い妄想の範囲を越えるわけではないが、妙に粘り着くように船ではなく舟が脳裏に残るのだった。
 山人が海を幻視する彼方という行方を考えていたこともあり、この森の中で舟をと想う心は悪くないし、あの湖面をと。

ETHICAL GAZER 22/10/1994

 ありもしないことを捏造することに夢中になると、折角の時間を失ってしまう。馬鹿馬鹿しいことから手をひいて、新しくて瑞々しい現実感を実感したいからと、闇雲に外をぶらぶら歩きはじめていた。自身の在り方を探るような駆け引きが、この歩行で試されると、当初は背を曲げ、眉間を刻ませて、慎重に構えたかもしれない。やがて、どうでもよいような気持ちに乗って、カメラの重さも忘れた。 撮影で取り立てて何かを大袈裟に示したいわけでもない。脇道をよたよたと入り込んで、ある時は記憶を捲り、ある時は不審な男の仕草で、路や軒先へとシャッターを押していた。時には雨の日に書斎に座り込んで、窓ばかりにレンズを向けていた。シャッターなんて、あれこれ複雑に考えて格好つけて自覚的に押すとつまらないと、意固地な気持ちが、また逆転して、逆様に手首を縛ったりした。出鱈目に遊びながら、日々の制作の記録も生まれた。娘たちのあどけなさも、そのまま残る気がしたものだ。ささやかな旅で、見慣れぬ街にいて、カメラを持つ特別の意味合いが失せているのに気付き、言い様のない切り取り方で、咳をするようにシャターをゆっくり押すような自身に、怠い呪縛感を抱くこともあった。
 勿論、カメラは時々放られて、埃もかぶった。
 そうやって、5ー6年の歩行の記録となったコンタクトプリントを捲りながら、選びだし、並べながら、「あの時」という、あの時ですら関係の取りようのなかった時間を、現在の気分にミックスして飲み干すような気分で並べて、小さなユニットをこしらえはじめた。

色繊維 27/04/2016

 発芽のこの時節森を歩き眺めると、繊毛の細さの色帯が空間の余白を埋めようとするかに上下左右に発生し、まさかこの身もと掌や腕をまくって何か立ち上がるのかと見つめてしまうほどだ。街の計画配置された群生の色の塊ではなく、一斉に緩んで綻ぶ空間は、一年の中でも、特別な一時であると感じさせる。色彩の感得も表出に関わることも苦手であると身をひとつ退いてきたようなわたしが陳ねた風なモノトーンで撮影した画像を撮影しても、繊毛の生成の呻きは確かに記録されている。内側へ硬化し零下の凍結に耐えた地も樹肌も大気に呼気を吹き出し交えて生命の道筋を幾重にも伸ばす中を行けば、こちらもその影響下にあると判る。いつだったか描写訓練の時期友人が観察対象の輪郭にさまざまな色彩の光線がみえるとそれを再現していたが、当時わたしにはそこまでみつめる観察の能力は無く観念で手元を照らしてばかりだった。いずれがよろしいという態度の善し悪しではなく、大きく時空を跨いで織りなすように世界を感じるのだと、今となっては振り返ることができる。

特異な境界 21/06/2007

 1960年にカラーテレビが発売されたから、TVが家庭に均等に配置されたのが、1960年代後半と考えてよろしいとすると、それまでとそれ以後で、人間の精神形成の決定的な変化があったと考えられる。一方的な情報の提供を無意識的に享受する「テレビ以降」の人間は、日々共有する情報で生存域を拡張し、立場の差異(出自・系譜)を解消したとも云える。高度成長がこれに率直にリンクする。
 「テレビ以前」の人間には、玉音放送で知られるラジオという情報デバイスがあったが、情報量として充分なものではなかったし、均一に拡張されたメディアではなかった。つまり、情報は奪取する意志において獲得するものであり、その立場にある者は限られており、無関心であり続けることも可能だった。社会も戦後の混沌期であり、均一ではなく、出鱈目も横行しただろうし、この「テレビ黎明期」は、世界的にみても、言語学的にみても、戦争よりも著しい変化の境界となって、それ以前とその後の社会を決定的に異なるものにしたと考えていい。
ーフランス語のTelevision(テレヴィジョン)、TVに由来し、teleは「遠く離れた」visionが「視界」の意味である。ーwiki
 「テレビ以降」の高度成長期を、「テレビの出現」の驚きを持って過ごした世代と、私を含めた「テレビのある家庭」が当たり前の世代が、ほんの数年の出生範囲で居て、所謂昨今社会離脱の件でもてはやされる団塊の世代には、どちらかというと、そうした驚きの残滓があったように思われる。つまり彼らは、「テレビ以前」の差異に満ちた、闇が横にある世界を舐めた記憶のある最後の世代であり、以降の楽天的な安易な共有感覚と共に、彼らにははなにか秘密めいて孤立するしかない差異世界を覗いた感覚をも抱き続けていた節がある。
 こちらにしてみれば、団塊の世代が学生運動に走る姿自体滑稽であったし、アメリカに翻弄されるサブカルチャーそのものも、テレビ番組の中にインストールされたコンテンツとして薄っぺらに眺めていた。ただし、当時の大人社会はまだ黒々とたっぷりとした闇をたたえていた。

家族 16/06/2020

 半年ぶりに長女が息子と娘をつれて遊びにくるので、少々長い滞在になっても構わないように片付けをすることが、実は日常のある種の没頭に任せて鬱積していた澱みのようなものを払拭する機会になる。長女の遊びという軽さの遠出には、感染事案で身動きがとれなくなった海外勤務中の夫の数ヶ月に渡る家庭内不在が色濃くあって、産まれて一年に満たない孫娘と保育園に行けずに妹との付き合いを模索するまだ幼い三歳児の孫息子と三人でやりくりする新米母親として生活疲弊もある長女が、山に来れば多少は癒されることもあるだろうと、丁度感染の自粛ムードが緩和された時だったから、即座に来なさいと応えていた。
 日頃離れて過ごしている家族だが、昨今の便利なデバイスを使って気軽なやり取りは必要に応じてあり、流石に首都直下型地震などへの不安には眉をひそめて、避難経路を確認しろよと、普段の明るい口上の影に必ず訝しさの残滓はある。嫁にいった娘であるからいちいち都度老人がしゃしゃり出ることは控えていることを、おそらく娘自体も好ましく思っていてくれている。

 個々が点在して距離を置く私の家族の配置には、そもそも昭和三十年代に横行した、長女と末っ子両親のポスト大家族ー核家族化の時点で、構造的に示唆されていたように思われる。父親の家を継ぐ話もあったと話す母親は、農家を継ぐことを望んでいなかったと聞けば今でも話してくれる。父親の上に並ぶ姉たちが姑となって家の外から「継ぐべき家」の仕立てを抑圧するのは、それまでの三世代同居の家族にて嫁という外部因子を飼いならす系譜から当然のことであり、またそれを突っぱねた母親の意固地さも時代の意識として特異なものではなかった。但し、同時期のアメリカンニューファミリーのヴィジョンへ、そのまま心までを投影できなかったことは、彼らの倹しいせいぜい3〜5人家族をこしらえた新興住宅地だった場所が現在は過疎化して、空き家ばかりとなっていることが顕著にこれを示している。事実、母親は息子家族との同居など端から考えていなかった。

 家族という寄り添いが互いを見つめて理解し信頼を継続するという幻想は、つまり、核家族化という時点で破綻していながら、家族の形式(フォーマット)の類型が数多重ねられた大きな理由は、公務と民間というふたつの軸のみの似たような就労の仕組みにある。最近は余程の予定調和に乗らない限り、父母の共稼ぎが主流であるというのも頷ける。余計なしがらみを嫌った単身貴族の家族構築の放棄も然り。けだし分散核家族の系譜に則れば、家長が男親である理由もない。育てた子供が自立すればその時点で、いずれかが占有する財布に片方が従う理由もない。感染による自宅待機によって家族が近寄りすぎたのか、DVが発生したというニュースを眺めて、反射的に遊動民の生活記録を探り、ホーミーの唸りや三味線の波動に、彼らの家族を群生植物のような静かさで感じていた。

 少子化という大きな潮流の中で、どういうわけかわたしの感知幅には、二人、三人、四人と、多産の若い家族があって、子供が多いだけ生活は大変だろうが、幸せの重さ、生活の価値(大げさにいうと高貴さ)が、なんとか生存する労苦への報酬のように与えられているように感じられる。中には当然時には互いの世話を合理等価依存する三世代同居が、近代の形式とは異なった必然で成立していることは、昭和、平成、令和の曲折から導いた、退行再生ではない新たな家族の距離の構築の仕方と眺められる。

獣の気配 / 01/12/2011

 差異だとか違和感だとか他者だとかジレンマを弄んできたがヒトの世界の領域内での頓着にすぎなかったようだ。
 ヘッドライトの前を幾度も野生の獣が横切り、人気の無い森を走ると獣の気配が背後から脇へ流れ並走する物音に立ち止まる。
 これにも慣れてきてようやく、他者とはこちらとは全く別の生きる存在ともいえると、その相剋によって自らが顕著になることを知る。UFOも獣も同じようなものだ。植生すら他者であり、この土もか。と幾度も座り込み手のひらに乗せていた。

 マッカーシーの長大重厚な寓話というより予知神話のような時間を肩あたりに残したまま、土の文明史 / David Montgomery を捲り始めて、この繋がりはいかにも理にかなっていると思いながら、体感を含めた言葉、観念自体が、既に大きく様変わりし、これは変容といっていい視界の晴れ方であり、間際になって、30年前の手つきを取り戻し、リビングでインスタレーションの仮設を繰り返し、どこか獣との遭遇を期待するかの衝動で、ふいに立ち上がって日に二度も走り始めるのだった。

 折しも雪で白くなる日が繰り返され、窓からの眺めがドリームキャッチャーと瓜二つで、あとは通り過ぎる獣らを待つだけの格好で、長い時間窓の外へ気持を吸い取られていたこともある。この国の猟友会というものもざっと調べ、猟銃の取得の仕方まで目をとおしたけれども、散弾とかライフルという獣への距離は、どこかヒトの領域内での諦めと映ったので、猪を倒せなくとも叩き追い払う棒をまた握り、膝辺りに向かって素振りをする。
 白鯨とかならば別だが、職業的に猟をするヒトも、異物との出会いの他者性はいつか猟の目的の構造化によってヒトの都合の一方的なものとなり、異形への距離在る愛は凍り付くようだ。

 こうした意識を見えるかたちにしてみようかというわけで、もうこれは生活であり、共感を得る為の表現とかではないので、勝手自在ににやらせていただくことにする。獣への愛のはじめの形は、こちらの存在を示す、脅すか。いずれ寄り添う事はないにしろ。
 逃げてもいいのだがなどと。

 種を明かせば繰り返すことも無い手品のような浅薄の現れのどこがわたしにとって大切なのか。たかが知れたこと、あるいはそちらのこと。と線を引いて放りやり、抱きしめるものは血縁の他は何なのか。普遍の小さな物語のディティールに於いて、変わらず流れる川面を眺める不遜の浅はかを加えて、その不足を選ぶ理由はある。

町田哲也 Tetsuya Machida
1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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