一
温突の上は気持ちがいい。ぴかぴか光った床に寝ころぶと、夏の昼寝には冷たくってとても涼しかった。前の家に温突はなかったし、ここへきたのはついこの春だから、ぼくは暖かい温突を知らないけれど、冬は火をたいた煙が床の下を通って部屋中がほかほかしているらしい。
もうすぐお昼だな、と思った。ご飯はなんだろう。卵かけご飯もあきたから、ライスカレーが食べたいと思ったけれど、あれはご馳走なんだから、だめだろうな。ついこの間、お隣りのおばあさんのお葬式があったとき、近所中の子どもたちだけ一部屋に集めてライスカレーを食べさせてもらった。お葬式はなんだか気味が悪くていやだったが、ライスカレーはおいしかった。
お母さんがお昼を呼びにこないのはどうしたのか知ら。しかたがないからもう少し横になっていようと思う。
きれいに塗った土に油紙が貼ってあって、鈍く茶色に光る床の上に、籐の枕をして寝ているぼくが、あれが六十数年前の四歳の私である。朝鮮忠清南道大田の中心部をはずれてやや高くなった、当時は春日町三丁目と呼ばれていた一帯の、丘を背にした家に住んでいた。この日は一九四五年八月十五日で、隣りの部屋のラジオの前に、母の静子が弟の征二を膝に抱いて座っていた。祖母のトヨはどこかへ出かけていていなかった。することがないから、ほとんど毎日を出歩いては遊び暮らしている。
遠くで聞く波の音のような雑音の向こうから、甲高い間延びした節回しの男の声がとぎれとぎれに聞えていた。前もって言われていた重大放送であったが、こう聞き取りにくくてはなんのことか判らない。それでも、あらかたの予想がつかなかったわけではないので、静子はあれこれと頭をめぐらせて見て、やっと一つの結論に達した。日本はどうも戦争に負けたらしいから、南方のどこか知らない所へいかされている夫は、十中八九帰ってこないのに違いない。
「しげ坊」
静子は急に叫んで、温突にいる息子を呼んだ。すでに涙声である。
呼ばれたから、ぼくははっとしてお母さんの所へいった。お母さんはしょぼしょぼした目をして、おいで―─と言った。そうして、ぼくのくりくりの頭を抱き寄せ、征二と二人を膝に乗せたまま泣き出した。こんな風にお母さんに抱いてもらうのははじめてだと思う。いつもは征二しか膝に乗せなかった。
「お父さんはねえ」と言ってお母さんはしゃくり上げた。「お父さんはもう帰っていらっしゃらないかも知れないのよ」
「どうして」
「生きているかどうか…」
静子は黙り込んだ。長い沈黙のときが、暑い部屋のやり場のない空気をなおさらに重くしていた。開け放った縁側の向こうの右半分に大田の市街が見え、左の湖南線の線路近くにある並木で、あるかなしかの風に葉裏を返したポプラがぴかっと光った。
しばらくのときがたってから、静子のぼんやりとした頭の中に、もうここに住んでいられないのではないかという危惧が浮かんできた。自分たちは余所者で、ここが他人の国であるということに思い至ると、思わず水を浴びたような気になったらしい。二人の子を抱きしめている手に力を入れ、あとは呆けたように遠くを見ているしかなかった。こちらへきてから生まれた静子には、帰るべき故郷というものが思い浮かばない。
夕方近くなって、かたかたとせわしない下駄の音をさせてトヨが帰ってきた。
「聞いてのとおりじゃ。薄々は誰でも感じとったかも知れんが、えらいことになってしもうた。ついこの間までは、南北の両側から敵にはさまれても十二月まで持ちこたえればなんとか血路が開けて、日本が盛り返すじゃろうと言うとったのじゃが、とうとう神風も吹かんじゃった。こう早く負けようとはのう。どげんしたもんじゃろか。玉太郎は戦地にいっておって留守じゃというに。なんまいだぶ、なんまいだぶ」
「お母さん」静子がきっとなった顔で言った。「父がいますから、これから冨士さんへいって相談してきます。そのうえで身の振り方を決めましょ。確か、お国の大阪には、なんにもないんでしたね」
「こげなときになって、きつかこと言わんでもよか。もうせん言うてあるとおりじゃ。備仲の家は泰次郎さん代で無一物になってしもうたと。それで、一人身になった玉太郎をわしが引き取って…」
「その先は何度も伺いました。もうたくさん」
「それに、わしの出は博多じゃが、向こうにも頼りにできるような者なおらんと」
トヨはふんっと言った顔で言って、口をへの字に曲げた。
静子の父・山本数太郎は、すぐ近くの冨士家にいた。数太郎・シズノ、それに弟の吉和の一家は丸抱えのように冨士家に寄食している。玉太郎が出征する際、社長の冨士平との間に、そういう約束があったらしい。静子たちがいまの家に移ったのもそのためだったが、細かい所までは知らされていない。ただ、男同士の友情とだけ思って今日まできた。
冨士家から帰ってくると、静子は人が違ったように振る舞って、姑のトヨに君臨するような口の利き方をした。
「尾道に家が買ってあるそうですから、私たちはそちらへいって、玉太郎さんの帰りを待つことにします。お母さんはどうなさいますの」
「まあ、いますぐということでもなかじゃろう。ゆっくり考えることにするたい」
トヨは苦いものでもかんだような顔をしたけれど、それきり黙り込んだ。
その夜中、トヨはがばと寝床に跳ね起きた。うめき声を上げたようでしばらくは天井を見上げていたが、太い息をついて部屋を見回した。八畳の部屋のトヨの左に私が寝て、征二を抱いた静子が背を向けて横になっていた。
「鳥が…」トヨはつぶやいた。「大きな鳥じゃった。屋根棟をくわえて、この家ごと持っていかれるとこじゃった。気色の悪か夢を見たもんじゃ。こりゃあ、お迎えが近いとかも知れんたい。でもまあ、こっちへきてから、ずい分と良か思いばさせてもらったとじゃ。この辺でお仕舞いになっても、元は無一文じゃったもん、なんの惜しかこともなか。わしの一生はこんなもんじゃろう」
体を長くしてしばらくはもぞもぞとしていたが、それきり静かになった。すでに夜明けに近いらしかったけれど、じいんという地虫の鳴くような音のほかになにも聞えなかった。
二
きょうは朝からお母さんのご機嫌が悪かった。なんにもしないで、外の景色をぼおっと見ている。おばあさんは、朝ご飯がすむと、いつものようにどこかへ出かけていったきり帰らない。つまらないから、隣りのむっちゃんと裏の丘へ遊びにいくことにした。いつだったか、大きな穴に水が溜まった所へ征二が落ちて溺れそうになってから、いってはいけないと言われていたけれど、ぼくとむっちゃんはいつものように、鉄条網の破れた所をくぐって入り込んだ。この小さな山は誰かの持ち物だからときどきは山番がいて、お母さんと毘麻を取りにきた日、見つかって怒られたことがあった。草笛をならったこともあったけれど、あれは、そのときではなくて、むっちゃんのお兄さんが京城の大学から帰っていた春だったような気がする。
少し登った所に小さな木があって、涼しい日陰を作っているから座って遊ぶ場所にしていた。先にむっちゃんが気がついてぼくの手を引っぱった。
「しげちゃん、変だよ。見て、刀だよ、あれ」
言われてそっちを見たら、木の下の草むらの中に刀が一本突き立っていて、ぴかぴかと光っていた。丘の下の小さな土橋を渡った所に森田さんという軍医さんのおうちがあって、森田さんは大きな体から下げた重そうな軍刀を、いつもゆらゆらさせながら歩いていた。抜いて見せてくれたのを、こわごわと見たのと同じように光っている。
蝿かなにか黒い虫が周りをぶんぶんと飛んでいるらしかった。鳥肌が立つようで、なにか判らないけれど怖い。むっちゃんも、泣きべそをかいて帰ろうと言い出したから、おうちへもどった。お母さんにそのことを話したら、少しの間、眉を寄せていたけれど、急にはっきりした声で言った。
「あっちへいっちゃいけないって言ったでしょ」
「だって、つまんないんだもん。ねえねえ、あれはなんなの」
「いいの。子どもはそんなもの見なくっても」言いかけて急に笑顔に変わり「誰かがなにか見つけて目印に立てておいたの。きっとそうよ」
それっきり黙って、いっそう暗い顔になった。
お昼を過ぎてから、お父さんの新聞社からお使いの人がきた。いつもなら上がって話していくのに玄関に立ったままで、ぼそぼそと話している。
「朝鮮人が大勢で社長室へ押しかけてきましてね、新聞社を譲れ、この誓約書に判をつけ、と言って迫りました」
「それで社長さんはどうしましたの」
「しかたないから判をつきましたよ。あの騒ぎで断ったら殺されていたかも知れません。倉庫や社屋の鍵もみんな取られてしまいました。あしたからは、あの郭哲朱が社長だそうで、独立運動で処刑された男の息子かなんか知りませんが、英雄気取りでしてね。鼻持ちならないったらありゃあしません」
そんな話をお母さんの隣りでぼくも聞いた。どういうことなのかは判らないけれど、大変なことになっているらしい。大人たちはみんなこわごわと小さくなっているように見える。
「社長さんはご無事だったのね」
こそこそ帰っていくお使いの人を追っかけるようにお母さんが聞いた。
それから、お母さんは部屋へ帰ってへなへなと座り込んで、またぼんやりとしたままなにもしない。
部屋から見下ろした京釜線の線路にも、その向こうを左へ走っている湖南線にも、ついこの間までは屋根の上にいっぱいの朝鮮人が乗っていたのに、きょうはそうではなくて、ちゃんと中に乗っているらしい。窓からあふれるようなたくさんの人たちの白衣が日を跳ね返して、そこいらが明るく見えた。風に乗って、わあわあと騒ぐ声が聞えてくるのは、その人たちなのか、それとも街のほうからくるのか知ら。でも、日本人ばかりのぼくのおうちの辺りは、真昼だというのにしいんとしている。
夕方早くおばあさんが帰ってきて、なんだかぶりぶりしていた。
「街は大変じゃそうな。駅前も本町の辺りも朝鮮人があふれ出して、行列を作って歩き回わっとる。独立じゃ、独立じゃ言うて。監獄所から出てきたばかりの政治犯を先頭に押し立ててからに、いままで小さくなっとった者が大きな顔をしくさって…」
「さっき新聞社から人がきて、社も朝鮮人の手に渡ったそうです」
「なんとしたことじゃ。それで社長さんは無事じゃったろうな」
そうかそうか、お母さんから話を聞いたおばあさんは、自分の部屋へ入っていって、なにか片づけはじめたらしかった。こっちへ見せた背中が小さくて、お母さんほどではないにしても、やっぱり元気がない。
三
日本のおうちへ帰ると言われたって、どういうことなのか判らない。それではいまいるここはなんなのだろう。お母さんに聞いても、おばあちゃんもうるさそうに首を振るばかりで教えてくれない。
春の終わりころ、少し離れた所へ遊びにいって雨に降られた。お母さんが迎えにきてくれて帰る途中、濡れながら歩いている子がいた。
「お母さん、あの子にこの傘貸して上げようよ。ぼくはお母さんと一緒でいいじゃない」
「お友だちなの」
「うん、時々遊んだことがあるよ。金本君さ」
「金本?」お母さんは顔をしかめて、そうして言った。「半島人ね。放っておきなさい」
見上げた顔が怖かった。半島人ってなんだろう。言葉つきは少しおかしいけれど、顔だって僕と同じような顔をしているのに、どうして違うのか知ら。それに金本君が半島人なら、なんで濡れていてもかまわないのだろうか。お母さんの言うことが判らない。ぼくたちはいったいなんなのだろう。
それから間もなくアメリカ占領軍は十月までの日を限って、日本人は一人も残さず帰国するように布告を出した。はじめ、荷物として一人当たり行李二個という制限が、リュックサック一個に変更されて、日本人をあわてさせた。現金も一人千円までということである。私たち一家の荷造りも忙しくなっていったけれど、二十年の余も暮らしてきたものが、リュックサック一個と千円にまとまるわけがないのは占領軍も先刻承知のはずで、つまりは在朝日本人に財産の放棄を強いるものにほかならなかった。けれども、食い詰め者の日本人が、植民地宗主国の強権を笠に着てやってきて、悪どく蓄財したものがそれらであってみれば、本来、無一物になっても止むを得ない。もっと言えば、奪い取ったものを返し、罪をつぐなってのち帰るのが道理というものでありながら、日本人の一人としてそう考えたものはなかったようである。
八月の末になって、外から帰ってきたトヨが言った。
「大田駅の向こうに理研という工場があるじゃろうが、あの工場で拡張工事をしておった親方の田中角栄というのが、これがまだ三十前の若僧だというが、大変な羽振りだったそうじゃ。日本が負けたのを知ると、あっという間に財産をまとめて、なんとあんた、五万円という大枚を払って船を雇ったそうな。その船に朝鮮での一切合財を積み込んで、さっさと新潟へ帰ってしもうたと言うぞ。なんちゅうた早業じゃろか。このごろは、こんなこすいやつの話ばっかりでいやになるわ」
「京城のお役人連中も、奥さんや子どもにお金や貴金属を持たせて、さっさと国へ帰らせているそうじゃないですか。大田でも同じような噂で持ちきりだって、この前、新聞社からきた人が言ってましたっけ」
静子もいまいましげに言った。
そう言われた官吏たちも、八月十五日までは敗戦のことを知らさられておらず、毎夜毎夜の接待づくしで酒色に溺れていたらしかった。軍もまた同じようではあったけれど、十五日正午の放送以後いち早く行動したのは、軍人家族の営内への収容と、軍用車を使っての物資の隠匿だけであった。
九月になってすぐ、朝鮮総督の阿部信行が一人飛行機に乗って日本へ帰ってしまった。最高責任者の逃亡に象徴される朝鮮総督府の混乱とサボタージュは、本来彼らが指揮すべき在朝日本人の引き揚げにおびただしい遅れをもたらして、日本人社会のパニックに輪をかけることになった。
四
きょう新聞社の人がきて、ぼくに真桑瓜をくれた。さっきまで冷やしてあったそうで、少しあまくって冷たい。このマッカともさよならするのだろうか。ぼくは、あんこが大好きだったのに、中田堂の温突まんじゅうも食べられなくなるのだろう。工場へ入っていくと、おじさんが、敬礼――と号令をかけるから、両足をそろえて右手をおでこの所に当ててじっとしている。
「よし、しげ坊はいい兵隊になるぞ」
いつもそう言っては、あんこをごほうびにくれた。
中田堂や花屋旅館や新聞社の庭で遊んだチョコマンはどうしているか知ら。ぼくを見ると遠くからでも走ってきて、夢中で組みついたあいつとも、もうずっと遊んでいないけれど、きっとこのままお別れするのだろう。新聞社までは大田橋を渡ってからまだ遠くて、ぼく一人ではいかれやしない。お母さんもおばあさんも忙しくってつれていってはくれないのに違いない。
総督府の引き揚げ事業がいっこうにはかどらないのにしびれを切らして、民間では世話会という組織が各地にできていった。在朝日本人が自身では持ち帰れない家財や動産を預かって、日本に運ぶということであった。とは言っても、アメリカ占領軍支配下の厳しい制限の中で、確かな輸送手段があるかどうかは判らない。それは判らないけれど、ほかに方法がないいまとなっては、ただそれにすがる思いであった。大田にも世話会ができたと聞いて静子はすべてを託すことにし、夫の部下に一切を頼んだ。
このところ、トヨは毎日出かけるたびになにかを持ち出しては、大事にしていた三味線や鼓をはじめとするものを売り払って、ほとんど身一つに近いところにまでなっていた。さばさばした顔をしているのは、修羅場をいくつもくぐってきたからに違いない。生まれて間もなく親と離されたらしくもあり、縁者のいる博多にも帰っていけないわけがあるのは、日ごろ口の端からきれぎれにこぼれていたので、周囲の者もおぼろげながらには知っていた。
そんなある日の朝早く、冨士家から使いの者がきて、かつては李何某が曳いていた人力車が差し向けられた。静子は二人の子をトヨに押しつけ、緊張して出ていったけれど、昼近くなってほかほかしたような表情でもどってきた。
「なんの用じゃったと」
「新聞社も人手に渡ったことだし、きりはつけなければと、そういうお話でした」
「それで…」トヨはずるそうに上目を使って言った。「応分のものを下さったというわけじゃな」
言い当てられて静子は思わず懐を押え、しまったと心の中でつぶやいたようである。
「退職金をいただきました。けれど、これはこれからどうなるか判らない暮らしのために取っておかねばなりません。それに、玉太郎さんも帰って見えるやらどうやら…」
「そうじゃな」
トヨが簡単に引き下がったのが、静子にはかえって気味悪いらしかった。
九月になってから何日かたっても、世話会からはなにも言ってこなかった。むろん、行政の方からの連絡などは八月十五日以来あったためしがない。
十月になって世話会の者がきて、荷物を引き取る打ち合わせがあった。そのとき、大田の日本人は十月下旬、地区別に班を編成して大田駅から京釜線に乗り、釜山からは引き揚げ船「雲仙丸」その他に乗船して、博多港へ向かうという説明があった。
十日ほどして二十四日午後四時、大田駅集合という連絡が入った。七十人を一斑として貨物列車に分乗するという話である。うまくいけば、二十六日には日本の土を踏める。
その二十四日午後、備仲家の四人は早めに家を出た。静子は着られるだけの着物を重ねたから丸々と太っていた。退職金の札束は見つからないように弁当箱の底に入れ、上へご飯を詰めた。トヨの入れ知恵である。二人の子はよそゆきの服がだぶだぶで、首のカラーを苦しそうにしている。着物の裾をもんぺに突っ込んで、風呂敷包みを背負ってはいるけれど、ほかの引き揚げ者から見たら、トヨは手ぶら同然のお気楽な姿に見られた。
「よう考えて見い、二十六年前にきたときにゃ、ほとんど無一物じゃった。それがどうじゃ、五歳だった玉太郎は大きゅうなって、なんとか出世したと言ってええじゃろう、中鮮日報の編集長にまでなったとじゃもんな。家も持ったし、嫁もくれば、孫も二人までいる。みんな、この国に儲けさしてもろうたも同然じゃ。しかし、無一文できた身が、また同じような身上で、落ち着くあてのない国へ帰る。わしらはいったいなんじゃったのじゃろう。悪い夢でも見ておったというのじゃろうか」
独り言を言って静子からにらまれた。
人がひしめくプラットホームに、鉄のこすれ合ういやな音をさせて貨物列車が入ってきた。私はトヨに手を取られてホームと貨車のすき間をまたいだ。
ここから旅がはじまったと言っていい。それが多難なものであろうと、四歳は四歳なりに、背に十字架を引き受けなければならないはずだから、それを背負っている。背中のものがなにかを知り、それに身をもって結果を出す日まで、いくら重くてもしようがない。
こうして、ぼくのなれの果てたる私は、自身の原罪のありかを見すえている。ときはまさに八月十五日、加害の終焉の記念日である。