存在と偽装—超複製技術時代の芸術作品II

文 / 服部洋介

三石友貴
『わたしとあなたのベッドイン』(2017)
インスタレーション
ノートに写真、マスキングテープ
ホクト文化ホールギャラリー



 ある種の芸術作品が、自らの作品存在を〈空け開く〉ことで、よりいっそう単純に、〈衝撃〉〔Stoß〕的に存在する、と私は言った。もちろん、この言い回しはハイデガーに負っている。そこで出会われるものが、一種の凄みを伴う〈不気味で途方もないもの〉〔un-geheuer〕として、日常的な存在の様態を打ち倒すところの〈本来性〉を空け開く、と言われるとき、その言わんとするところはまったくハイデガー的である。しかし、私はこれらの言い回しからハイデガーの言わんとするところを正確に再現し、描写しようというのではない。ハイデガーがゴッホの『靴』(1886)を前にして、そこにおいて真理が生起すると言ったとき、「このことは、そこで何か目の前にあるものが描写されるということを意味するのではな」(*1)いと述べたように、私の引くハイデガーの言葉においても「真理が活動している〔am Werk sein〕のであり、したがってただ真なるものだけが活動しているのではない」(*2)ということができるように思われる。真理におけるこのアイロニカルな二面性というものは、『存在と偽装』〈Ⅰ〉の主要な命題の一つでもあった。
 ハイデガーにおいて生起する真理とは、あるものの「それが何であるか」という〈問い〉に対して呈示される〈答え〉ではない。あるものが、眼前事物的な画定や、頽落した日常に〈用立て〉〔bestellen〕られる以前の最も固有の在り方へと空け開かれること、それが真理の生起であった。それは、存在の「何であるか」が知的に把握される以前の〈知り方〉、いわば〈「知らない」という知り方〉なのである。
 真理は生起する。しかし、それが生起するためには、存在は自己閉鎖〔das In-sich-Bergen und Verschließen〕によって私たちを欺き、拒絶〔Verweigerung〕し、偽装する〔verstellen〕ものでなくてはならない。もし〈開け〉がもたらされるならば、そのものはかえって〈偽装〉〔Verstellen〕されなくてはならない。あるものの本質が存在するならば、その存在は、まさに〈偽装〉によって示される、といわれなくてはならない。その〈偽装〉(仮象〔Schein〕)の上に、一つの〈衝撃〉が〈輝き〉〔Scheinen〕として現われ出る。くりかえしになるが、作品において活動するのは「ただ真なるものだけ」ではない。〈偽装〉、〈拒絶〉、一種の〈逃走〉(これは現前〔Anwesenheit〕からの逃走である。存在は自らの内に現前にとっての「奇妙な敵対者」〔Gegenerschaft〕をもつ、といわれる(*3)。もっともハイデガーは、将来と既在性を含む時間の全体性から現在性が前面化し、日常に目を奪われる悪い事態をあらわす語として〈脱走〉〔ent-springen〕を用いているが、ここでいう〈逃走〉は〈脱走〉とは反対の意味をもつ)によって示される真理とは、この〈偽装〉と不可分の関係にある。あたかも果実が果肉を蓄えんとして、その果皮を必要とするように(*4)。
 ここにフェミニズムというコトバがある。そうであるならば、フェミニズムという理念や運動も、同様に存在するにちがいない(でなければ、どうしてフェミニズムというコトバが存在するのだろうかという疑問に突き当たるであろう)。ところが、フェミニズムというコトバに関わるあらゆる表象は(フェミニズムを先決条件として成り立つアンチ・フェミニズムも含めて)、いずれも真なるフェミニズムの表象ではない。あらゆるフェミニズムは、真のフェミニズムを記述しない――だとすれば、この「表象する」ということに、原理的な問題があるのではないか、という問いが生ずる。遠藤麻衣のパフォーマンス『アイ・アム・フェミニスト!』(2015)の問題提起がこの点にあるということは、前稿に紹介した通りである。
 いやしくも、フェミニズムが一つの理論であるならば、「女性とは何か」という〈問い〉に〈答える〉ことができるはずである。しかし、その応答可能性こそが、問題を再び規定された〈女らしさ〉に帰着させる危険性を孕んでいる。もしフェミニズムが、新たに〈女らしさ〉を呈示するならば、それは男権の側から押しつけられた〈女らしさ〉ではなく、女性による女性みずからへの押しつけとしての〈女らしさ〉ということになるであろう。ましてや、フェミニズムが「すべての」女性のための運動であるとされるならば、この全称命題の論理的矛盾は、さらに甚だしいものとなる。遠藤は次のように言う。

     フェミニズムとは本来、自律的であろうとする女の自由な心性を指すものではないでしょうか。フェミニストは、すでに表象され規律された「イメージ」から女を解放しようとします。名指しされることを拒絶し、多義的であろうとするのです。しかし、フェミニストは〈単一な観念から逃走する女〉という、結局のところ単一な観念に表象されがちです。そういった表象は、社会(男)からの一方的なまなざしにのみ依るものではありません。皮肉なことにフェミニストが持つ女性性によっても引き起こされるのです。(*5)

遠藤麻衣
『アイ・アム・フェミニスト!』(2015)
パフォーマンス
撮影/松尾宇人



 「女性とは何か」という〈問い〉に〈答える〉こと自体が、一つの差別を含み、女性の存在様態を理論的に〈規定〉し、〈画定〉するものだとすれば、〈真のフェミニズム〉はどこに存在するのであろうか? このような成就不能なものを、デリダは〈到来するもの〉と呼んだ。それは、その到来することを目指しながら、ついに到来することのない、過去にも現在にも未来にも存在することのない〈不在〉である。ゆえに、それが〈知られる〉ことはない。〈知られる〉ことのないものを私たちが〈知っているかのように〉語るとき、私たちはむしろ、その〈知られうる〉もの、表象可能なもののもつ不完全性のうちに、その当のものが表象可能なものとして存在しうるということを知る。それを超えたところの〈不在〉について〈知る〉ということは、要は〈知らない〉ということにほかならない。そして、〈知る〉ということは、その〈知らない〉ということに等しいということを、私たちは知る。
 だとすると〈不在〉としての〈真なるフェミニズム〉とは、いったい何であろうか? それは第一に一つの〈名〉としてあらわれながら、それでいて、自身についての記述のどこにも説明されることがなく、翻訳可能性によって貧困化されることのない多意味的エコノミーの一形式である(*6)。述べられた部分において述べられていないもの、それは確かに何も述べてはいない(ハイデガーの書いたものが、哲学論文ではなく、詩やアートであると揶揄されたゆえんは、このやり方にあった)。しかし、述べてはいないからといって、何もない、ということにはならない。フェミニズムというコトバは確かに存在し、そこからさまざまな段階のフェミニズムが現実に分化し、多様な表象を形成しているからである。その内包の空虚さゆえに無限の外延を形成するという構造は、以前に見た通り〈アート〉とまったく同じものである(*7)。
 この問題を、フェミニズムというコトバ自体を拒絶することによって回避しようとするならば、次のような問題が起こるであろう。フェミニズムの前提にあるのは、男女間の差別問題である。男女は同権でなくてはならない。ラディカルな女性絶対論者でないかぎり、このことは同意されてよいだろう。その曖昧な情態において、男女同権論者は、疑いもなく男女同権という理念を信じている。ところが、ひとたびこの問題を声に出して〈語り〉起こすとき、そもそも男女同権というコトバが、なぜ女男同権ではいけないのか、そして、女男同権ならば、なぜ男女同権ではならないのかという問題に突き当たる。その人物は、ひとたび発話することによって、男女・女男の先後関係をめぐっていずれかの差別に加担せざるを得なくなるのである。これを人間同権などと言い換えるにいたっては、男女(女男)問題そのものが隠蔽されることになるであろう。そうなった時点で、問題は男と女のそれではなくなるのである(*8)。あるいは、男と女というもののが、根源的な形で忘却される時、フェミニズムもまた成就する、ということになるのであろうが、そのような忘却がいかにして成就するのかは、到底語りえないことである。
 なお、そもそもすべてのフェミニズムをただ一つのフェミニズムに帰属させること自体が、カテゴリー・エラーに当たるのではないかという疑問を生ずるのも無理からぬことである。フェミニズムを詳細に分割することによって、そのうちのあるものを記述可能なものとすることはできそうである。そのような場合、フェミニズムに当たらないものについての記述は可能であっても、フェミニズムそのものについては、ほとんど何も記述することはできないだろう。けっきょくフェミニズム全体の統一的な意味を構成することはできないし、フェミニズムを再分割するつどに同じことがミクロに生じてくると思われるのである(遠藤はこの構造を〈入れ子〉〔mise en abyme〕(*9)と呼ぶ)。
 フェミニズムを表象し得るものは、いずれも真にフェミニズムたりえない。フェミニズムが〈女らしさ〉という〈規定〉や〈画定〉から女性自身を解き放つと言明するとき、当のフェミニズム自身が、女性を再度〈規定〉し、〈画定〉するという事態から〈逃走〉することはできない。フェミニズムという自己言及は、常に自らを欺きつつ存在する。それは、〈開け〉ていながら拒み、〈露開〉されていながら〈偽装〉する。フェミニズムは、男女差別とともにある場合においてのみ存在可能であり、そこから差別という要件を欠落させるならば、それはそもそも表象不可能のものになるであろう。真のフェミニズムが認知されることはない。デリダは、〈贈与〉を例にして、この循環について述べている。
 

     贈与があるために必要なことは単に、受贈者が返さない、返済しない、償わない、報いない、契約に入らない、ということにとどまりません。ぎりぎりのところでは、彼〔贈与者〕はその贈与を贈与として認めさえしないのでなければなりません。(*10)

     贈与が贈与として現われてしまったら、その時点から直ちに、それは象徴的、犠牲的、ないしエコノミックな構造のなかにかかわり込んでしまうでしょうし、そしてこの構造が贈与を廃棄して円環の中に組み入れてしまうでしょう。(*11)

 ゆえに、贈与関係にあるもの、贈与を表象するものが、贈与者としての役割を果たすことはできない。それは、その表象の外側にある、まったく無関係の場所からもたらされる、というほかはない。『贈与論』(モース)はあらゆることについて語っているが、しかし贈与についてだけは語っていない。それは、エコノミー、交換、契約、せり上げ、犠牲、贈与、反対-贈与、贈与の廃棄へと導くすべてについて語っている――とデリダは言った(*12)。同じように、フェミニズムは、フェミニズム以外のあらゆることに言及しつつ、ついにフェミニズムについては言及しないのである。
この考察は、果たして何を意味するのだろうか? すべてのフェミニズムとアンチ・フェミニズムの起源となる、フェミニズムの〈開け〉の領域は、同時にわれわれの目にまったく閉ざされているようにも見える。そこは既在的なものと将来的なものとが空け開かれた、現前にとっての敵対領域である。〈偽装〉する存在のもろもろは、〈偽装〉されたものその自体と不可分の形で輝き出る。この輝きは、むしろ存在の中心にある〈開け〉から逆照射されることによって輝き出るのである。反対に、その〈開け〉の中心には、存在のもっとも暗く、見分けることのむずかしい、いわば、知ることによっては知りえない、見分けることによっては見分けることのできないところのモノが屹立している。それは視られるつどに私たちを欺こうとする。『アイ・アム・フェミニスト!』でフェミニストの表象を演じた遠藤は、この〈視られること〉〈見分けられること〉について、次のように言う。

     作中で彼女は、一方的に客体化された女の解放と、女の平和を泣きながら発言し続けます。しかしこのフェミニスト的理想は、鑑賞されることによって、ふたたびイメージへと予定調和的に組み込まれてしまいます。

     その作品のかたわらでは、女の解放と平和を願い演説する「フェミニスト」がいます。しかし、体現することによってやはり、フェミニストは退き続けてしまいます。(*13)

 表象によって後退し、遮られる〈不在〉のフェミニスト――だが、遠藤はアクロバティックな論理的転倒によって、この〈不在〉を開けて立て〔anfstellen〕ようとする。あるものの表象があるものの存在を隠蔽するならば、そのあるものの表象を表象し返すことによって、存在の隠蔽を隠蔽することができるのではないか、と遠藤は考える。

     では一体、フェミニストとはどのようにして可能になるのでしょうか?

     ここで、焦点を俳優にあててみたいと思います。上記の作品は、俳優によって演じられたものでもあるからです。『「フェミニスト」を演じる』というテーゼをもってこれらの作品を捉え直すと、その構造もまた入れ子状に折りたたまれており、アイロニカルな転倒をもたらしていることがわかります。『女性は常にすでに表象され、社会のまなざしに晒されている』と、皮肉にも逆照射するのです。(*14)

 ここでいわれるのは、真なるものが〈偽装〉の形でしか表象されえないとすれば、いっそのことその〈偽装〉を〈偽装〉し尽くすことで〈偽装〉の裏側にあるものを浮かび上がらせることができるのではないか、ということである。フレーゲは「偽なる思想は常に一つの思想でありつづけ、また真なる思想の構成部分として現われうる」(*15)といった。例えば、偽なる文「3は5より大」に「ない」を加えれば、真なる文「3は5より大ではない」が手に入り、主張力を伴った発話となるが、そこにもとの偽なる思想(「3は5より大」)自体の解体は見られない。肯定と否定は、ある主張文の表現する思想〔Gedanke〕に対して自動的に割り当てられる不可分の一体である。肯定と否定はともに同じ対象を扱っており、ゆえに文は〈二極性〉〔bi-polarity〕をもつという考えは、ヴィトゲンシュタインに引き継がれた。ヴィトゲンシュタインにあっては、文Pと¬Pは同じ〈事実〉(現に成立している事態)によって真偽が定まると見なされるが、現に何が事実として成立しているかによってPと¬Pは〈正の事実〉と〈負の事実〉という二つの〈意味〉をもつというのである(*16)。フレーゲにあっては、文の〈意味〉とは、固有名をもつ唯一の、一意的存在条件を満たす対象を指しており、主張文自体も複合的固有名と見なしているため、Pは¬Pによっても存在論的に消し去ることはできず、その逆も同様なのである(*17)。むろん、フェミニズムという語は存在前提を満たさない一つの〈虚構〉〔Dichtung〕であるため、フェミニズムという名辞を含むあらゆる言明は、フレーゲによれば、真理値をもたない〈見かけ上の思想〉〔Scheingedanke〕である。しかし、ハイデガーの真理観において、真理とはそのような論理的画定に拘束されるものではないということは、すでに見た通りである。
 この論法で〈不在〉を指示すること、それは、有の世界を描くことで無の世界に光を当てることにほかならない。「リンゴがない」という言明は「リンゴがある」を先決条件とする。奇妙なことだが、命題において、肯定は否定のうちに含まれ、否定は肯定のうちに含まれている。リンゴは時に存在し、時に存在しない。しかし、リンゴなる名辞はいずれの命題においても含まれており、そもそも、それが存在することをいいあらわしている。
 不伏蔵〔Unverborgenheit〕と伏蔵、〈開け〉と〈偽装〉という二重性、そこからくる無責任さ、不誠実さというアイロニックな〈動態〉〔Bewegnis〕(ハイデガーは、「真理の生起」とは「世界と大地との闘争を闘わせること」であると考える。「この闘わせることの収集された動き〔Bewegnis〕の内に、安らいがその本質を発揮する。ここに作品の〈それ自体に安らうこと〉が基づくのである」(*18))を示したところに、遠藤のアイロニストとしての真面目がある。いささか乱暴な言い方をすれば、この無限否定の運動こそが差延と呼ばれるものである。ゆえに、その全体が概念的に構成、構築されることはない。
 現に眼の前にあるものは、その圧倒的な現前性のゆえに存在を埋没させる。それが現に在るということは、それが何であるかを隠蔽する。あるものが失われたとき、その〈不在〉が、もとの存在を、ある情態のうちに強く指し示すということが、私たちにおいて体験される。それが私にとって何であったか、そのように体験する私とは何者であるか、その当のものが現前しているうちには考えつきもしなかったようなことについて、私たちは深く思いめぐらすようになる。私たちはある〈不安〉〔Angst〕の中で〈不在〉と向き合うことになるのである。
ゆえに、〈不在〉としてのフェミニズムと出会うためには、徹底的にフェミニズムから遠ざからなくてはならない、ということになるのである。偽装を偽装し、演技を演技することによって、フェミニズムを表象すること。そこにフェミニズムはあらわれない。しかし、フェミニズムのあらわれるところに、フェミニズムが予感されることもまたないのである。このようにして、フェミニズムは性起〔Ereignis〕し、また、ついにはそれを経験へともたらすことのない非性起〔Enteignis〕としてあらわれるのである。
 三石友貴のパフォーマンス『わたしとあなたのベッドイン』も同様の構造をもっているといえるだろう。『vol.12 クエスト』の会場に設営された小部屋内のベッドで、来場者と「疑似セックス」する〈ベッドイン・パフォーマンス〉を行なった三石のコンセプトは、次のようなものである。

     今回のパフォーマンスではベッドインは擬似セックスを指します。最も親密なコミュニケーションのひとつと言えるセックスの擬似体験をすることでわたしは新たなわたしを体験できると仮定しています。また参加者にはベッドインという非日常の体験をプレゼントします。なぜセックスというある種タブーなものを持ち出すのか疑問や不快感を持たれる方もあるかと思いますが、わたしにとってセックスは日常に埋没した自己を取り戻したり開放したりできる大切なもののひとつです。(*19)

 〈ベッドイン〉はセックスの表象である。ゆえにそれは、現実にセックスをもたらさない。逆にいえば、このセックスを〈演じる〉という行為が可能なのは、セックスが「ある種〔の〕タブー」(三石)となっているからにほかならない。疑似セックスはタブーとともに可能となり、そして、ついにはセックスを性起させながら、それを性起させることはない。そのような条件において、作品としての『わたしのあなたのベッドイン』は可能になるのである。

三石友貴
『わたしとあなたのベッドイン』(2017)
パフォーマンス
ホクト文化ホールギャラリー




 なお、三石は、この作品が社会問題やジェンダー問題を提起するものではないことを慎重に断っている。これはあくまで彼女自身のために行われるパフォーマンスであって、誰かの意味期待を予定調和的に担うものではない。しかし、自らの表象は、自らを超えて自らを語り出す。表象は自己を超出する(*20)。ゆえに、フェミニストはみずからを「フェミニスト」として表象し、「社会の機能の中に自身を挿入させ、時には能動的にスペクタクルの構成物にさえなりうる」(*21)と遠藤は指摘する。この事情は、三石にもあてはまる。自身を被写体とした作品『わたしのためのアート』シリーズ(facebook上で公開、2017年8月6日~)について、三石は次のように言う。

    見られることについて。
    思いがけないわたしが他者に見られることで現れる。
    あれもわたしだし、これもわたし。(*22)

三石友貴
『わたしのためのアート』(2017)
写真、facebook に掲載




 メッセージはこれだけである。しかし、掲載された写真をめぐって、周囲からは「自身を性的に商品化するもの」「そのいわんとするところは何か?」「自身の社会的立場を考慮すべき作品」といった、批判や憂慮の声が相次いだ。このようにして、自らの複製である〈表象〉〔Représentation〕が、実物を超えて機能することは、表象が実物に回帰することのない〈代補〉〔supplément〕である以上、避けることのできない事態であると私は考える。フェミニズムはフェミニズムを隠蔽する。同じように、作品の表象は、作品の核心となるものを巧妙に不在化するのである。そこでは、最も肝心な内容が、見事に表象から消え去るのである。それは隠され、保持され、守られると同時に、その内部に姿を現わす。ハイデガーはそれを神殿に例える。ギリシアの神殿は、なにものをも模倣することはない。神殿は「神の形態を包み込み、そして隠蔽するという仕方でそれを開けた柱廊空間を通じて聖なる区域へと出で立たせる。神殿によって神は神殿の内に現前する。神がこのように現前することは、それ自体において、この区域を聖なる区域として展開し、〔世俗的な区域に対して〕境界画定することである」(ハイデガー)(*23)。
 事物は、表象となることで人為的な〈組立て〉〔Gestell〕のうちに取り込まれ(遠藤はそれを「スペクタクルの構成物となる」ことという)、一つの〈用象〉〔Bestand〕となる。その規定されることのうちでしか存在し得ないものとしての〈用象〉は、規則にせき立てられ、既存のイメージに帰属させられ、利害の計算に服従させられ、そのことによって知的に〈知られる〉のである。そして、ほかならぬ三石自身の〈自己表象〉〔self-representation〕がそれを自己規定し、自己差別することによって、まさにフェミニズムと同様にパフォーマンスとして現前することを可能にしているのだ。そこに撞着語法的な〈真理の生起〉が見て取れるのである。
フェミニズムもセックスも、このような〈〈不在〉としての〈現前〉〔Anwessen〕〉として、はじめて生き生きと、日常の頽落を突き破って現出すると見るべきではないだろうか。遠藤と三石のパフォーマンスは、その衝撃的で際立った存在様態のうちに、まさに偽装することの内側に、核心となるものを開けて立てるのである。
(〈Ⅲ〉へと続く)

(*1)マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』関口浩訳、平凡社、2002年、78頁。
(*2)ハイデガー、同上。
(*3)ハイデガー、同書、73頁。
(*4)以下を参照せよ。「いわばそれは、ワインを搾り取る際に廃棄される蒲萄の皮や滓のようなものである。それは確かに不要なもの、無用なものである。だが、その外果皮なくしては、蒲萄は果汁を蓄えることはできぬであろう」「ユダヤ教神秘主義では、このような残滓を〈壊れた器〉(shebira)、〈貝殻〉(kelipa)にたとえる。ショーレムによると、後期カバリストのかなりの者が、穀物の種子が芽吹くために殻がはじけなければならないように、世界が生成発展するためには、同じように世界の種子が砕けなくてはならなかったと考えていたとする(ショーレム『ユダヤ教神秘主義』山下肇・石丸昭二・井ノ川清・西脇征嘉訳、法政大学出版局、355頁)」(服部洋介「小林冴子と崩壊する風景〈Ⅲ〉~コンドーム論①」『ブランチング22』、2017年)。
(*5)遠藤麻衣『アイ・アム・フェミニスト!』「解題」より、web。http://maiendo.net/iamfeminist.html
(*6)デリダによれば、翻訳可能性とは「一義性による貧困化」である。その逆方向において「意味の蓄積と重畳」による決定不可能な「死の宣告」の論理が多意味的エコノミーを撒種へと引きずっていき、多意味的エコノミーを撒種へと開くある一点までは続く、といわれる(ジャック・デリダ『境域』若林栄樹訳、書肆心水、2010年、199~200頁)。
(*7)「しかし、アートなどというのは、「それが何であるか万人において自明ではない」概念であって、〈神〉と同じく、語自体は存しても、その内包的定義は空文、外延に連なるものをいくら寄せ集めても、一なる総体について述べることのできないシロモノである。別々のものを都合のよい一語〈アート〉であらわせるのは便利だが、何かインチキくさいよなって話だ」(服部「「芸術学大全」第⑮講 答えていわなければならない。アートに対する理解はすべて誤解である」『ブランチング 16』2016年)
(*8)服部洋介『反則・現代思想10講① テーマ「着席した状態からさらに着席することは可能か――田舎の小学校教諭、脱構築を語る」』facebook、2012年12月15日。
(*9)遠藤、前掲ページ。
(*10)デリダ「時間を――与える」『他者の言語 デリダの日本講演』高橋允昭編訳、法政大学出版局、1989年、74~75頁。
(*11)デリダ、同書、79頁。
(*12)デリダ、同書、79~80頁。
(*13)遠藤、前掲ページ。
(*14)遠藤、同上。
(*15)ゴットローブ・フレーゲ「否定――論理探求〔Ⅱ〕」黒田亘・野本和幸編『フレーゲ著作集4』勁草書房、1999年、244頁。
(*16)ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』2・06、4・0621、5・5151。
(*17)服部『ハイパー・アート・レキシコン』草稿、2016年。
(*18)ハイデガー、前掲書、82頁。
(*19)三石友貴『ご挨拶にかえて 自己紹介とわたしのコンセプトについて』メール、2017年12月13日。
(*20)「〈表象〉は〈私〉を超えて表現する。その逆ではない。声、言葉、文字、そして身体——あらゆるものが〈私〉を表象する。しかし、それは〈私〉の忠実な代理記号ではない。人が関心をもつのは、実のところ、形のあらわれである〈私〉の〈表象〉であって、〈生身の私〉ではない」(服部「存在と偽装—超複製技術時代の芸術作品Ⅱ〈コンドーム論②〉」『ブランチング 23』2017年)。
(*21)遠藤、前掲ページ。
(*22)三石『わたしのためのアート 第3回』、facebook、2017年9月13日。
(*23)ハイデガー、前掲書、52頁。

なお、作品写真の提供、掲載の許可をいただいた遠藤・三石両氏にこの場をかりて御礼を申し上げたい。

服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14