写真1
文・写真 / 備仲臣道
拙著『高句麗残照』の初版が出た2002年ころ、この古墳は土に埋もれていて熊野神社背後の小山とされており、まだ古墳であると認知されていなかった。古墳だと判明したのはその翌年以後の発掘によってであったから、再版においてはこの古墳の武蔵国分寺における重要性を触れておかねばならない。
この古墳は「武蔵府中熊野神社古墳」と呼ばれている。一見して積石塚に見えるけれど、土で築いた上に葺石や貼り石を施した上円下方墳である。底辺の一段目が一辺32メートル、高さ0・5メートルで二段目は23メートル、高さ2・2メートル、円墳の直径は16メートルあって、現存の高さは2・1メートルであるが、完成時には5メートルあったと推定され、一辺が90メートルの周濠があったと言われている(この部分は府中市文化振興課文化財係のパンフレットから)。
JR南武線を西府駅で降りて、北へ歩くとすぐに甲州街道へ出るから、そこから西に向かって歩けば、ほどなく右側に異様な迫力で迫ってくるのがこの古墳である。一見して積石塚に見えると書いたけれど、こうした構造の古墳は、明らかに積石塚を念頭に置いて作られたものと言わねばならない。同志社大学教授であった森浩一氏が「古墳文化における日本と朝鮮」(『日本のなかの朝鮮文化』第二十七号 朝鮮文化社)の中で「葺石の古墳は外観上なんら積石塚と異なるところがない。従ってそれは、積石塚を作る意思の働いた古墳か、その伝統の下に作られたものであった」と書いておられるとおりである。
写真2
この辺りの土には石が少ないのではないかと思うのは、角の丸い川原石ばかりを使っているからであるが、前述のように、石の少ないところで墓制にこだわりがあれば、遠くの川から石を運んできてでも、こういう形になるはずである。川原石は墓制へのこだわりの強さを表現しているのであり、すなわち、この古墳は高句麗の古い墓制である積石塚を念頭に置いた人々の築造であると言っていい。
こうした古墳が武蔵国分寺の南西二・四キロ、国府の西方にあること、武蔵国分寺の軒丸瓦に高句麗系の文様のものがたくさんあることを考えれば、きわめて威圧的なこの古墳に眠るこの辺りの支配者と、武蔵国分寺を経済的に支えた者たちこそは、高句麗系渡来氏族であったと言っていいのである。
写真1は武蔵府中熊野神社古墳。写真2はJR中央線国分寺駅通路にある、武蔵国分寺を葺いていた軒丸瓦の高句麗様式の文様。いずれも筆者撮影。
備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp
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