月夜

文 / 備仲臣道

 月が出ていた。大きな白い満月が空の中心にあって、道ばかりか辺りの景色までもみんな白かった。右には電車の線路がまっすぐに走っていて、道との境は柵で仕切られている。もともと白く塗ってあるのか、月の光のためなのか、それは知らないけれど、まっ白な墓標の列がどこまでも続いているように思われた。反対側には家並みがひしめいて、どの窓にも明るい灯が見えずに寝静まっているのは、もうかなり遅い時刻だからである。李朝白磁の白さにいろんな表情があるように、かすかに青かったり暖かく淡い朱色だったりして、月下の家々はひっそりと息をしていた。
 月の光は小さな粒になって舞い落ちてくるようで、視界のすべてがきらきらとしている。じっと道ばかりを見つめて歩いていると、いつの間にか自分の足音さえ聞こえない、深いところへ降りていくかのようにも思えた。最後の夜に見る風景としては、おあつらえ向きと言っていい美しさである。
 白い道を踏みしめながら歩いてゆく、この先のかすかに青黒い森の辺りに、今夜の目標がある。右の手をコートの下に入れて、胸の上を押さえてみると、確かに硬いものがあった。しかし、この匕首は武器ではなく、失敗したときの用心のためである。
 目標は現政権の中枢にいる要人で、今夜は女と二人で隠れ家にいるのだと聞いてきた。いつもは何人もの屈強な護衛に囲まれているのだが、ここへやってくるときは決まって一人である。隠れ家の周囲のどこにも監視の目が光っていないということは、そこを受け持つ新聞販売店に潜入した若者の、時間をかけた入念な調査によって明らかになっていた。
 彼の寝所に忍び込むが早いか、たちまち決着をつけなければならないのは言うまでもないが、目標のほかに誰がいようとも、殺すのはもとより、傷つけてさえもいけない。それがこの世界の正統な掟であって、無差別に人を殺すのは邪道である。人間の解放という崇高な目的のために、最も非人間的な殺人を手段とするからには、自分もまた死ぬのだということを受け入れたうえでのことであるが、その前に、こんなにも、がんじがらめに独裁的強権に押さえつけられていては、こういう手段のほかには道が残されていない、そこまで追い込まれているという、明確な認識があった。
 目標の彼に喰らわせるのは匕首ではなく鉛の弾丸であって、それは腰の後ろの革のケースに納めた拳銃に装填されている。愛用のベレッタ二二口径は、もとは金持ちの護身用だったらしく、銃身を覆う遊底はもちろん、弾倉を包むにぎりの部分も、銀塊をくり抜いて作られ、手の平に入るほどに可愛い。木の葉や唐草によく似た細かい、いかにもイタリアらしい執拗な毛彫りの文様で飾られていた。
 腰のケースからベレッタを抜いてみると、月の光を跳ね返して、銀色の小さな粒が辺り一面へ無数に散らかった。やがて、道も家並も線路の柵も、そうして、月さえも銀色に染まって、すべてはベレッタに彫られた風景に見えた。雪が降りこめたような一面の銀世界は白く美しく輝き、右も左も上下さえもない明るさの中に、わが身は浮いていると思った。目標に向かってまた歩き出すと、足が白い地を踏まないうちに沈み込み、どこまでもいつまでも、銀色の闇の中を沈んでいくのであった。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp

備仲臣道・著『艶本ラプソディー』皓星社・刊、1400円+税。2016年6月29日発売。
江戸軟文学に魅せられ、艶本を刊行して50年、坂本篤の発売禁止、罰金、逃亡、入獄に彩られた70余年の生涯を描く初の評伝。
*書店にない場合は出版社にお申し付けください。
皓星社 東京都千代田区神田神保町3-10 03-6272-9330