コーラ講義

文 / 服部洋介

耳のないマウス 『箱の中に入っているのはどちらか?』展 ダイアログ 2016 オープニング・レセプションに付随して 行われた作家との対話 3331 Arts Chiyoda(東京)

耳のないマウス
『箱の中に入っているのはどちらか?』展
ダイアログ
2016
オープニング・レセプションに付随して
行われた作家との対話
3331 Arts Chiyoda(東京)




 今年の5月、東京で開催された「耳のないマウス」の個展『箱の中に入っているのはどちらか?』のオープニング・レセプション(*1)にお呼ばれした。ひとしきりゴチになった後、作品について意見交換するダイアログが開催され、肩書的に解説者ということになっていた手前、いらんことを話してきました。その中で、〈コーラ〉というものについて少しだけ触れる機会があったのだが、コーラっつっても、コカとかペプシではない。中沢新一は『アースダイバー』という連載で、コーラについてこんなことを書いている。

     聖所のことを、古代のギリシャ人は「ヒエラ・コーラ」(神聖なコーラ)と呼んでいた。「コーラ」ということばは、ふつうは「場所」と訳されるが、このことばにはもっと深い意味が隠されている。
    コーラは、この世界のものではないなにかが出現してきたときに、それを保護する受容器なのである。その意味では、母親の子宮とよく似ている。そのためコーラは万物の子宮であるともいわれている。(*2)

 というわけで、何かしら目には見えない生産力の源泉を昔の人はコーラと呼び、生産をもたらす聖なる力が枯渇しないようにコーラ周辺の自然環境を守り育ててきたというのである。このコーラ、耳マウスの作品とどのような関係にあるのか? 何度か述べてきたように、耳マウスのコンセプトに「人間性の棄却」というべきものがある。「人間らしさ」というもっともらしい規定は、人間を何らかの目的に奉仕する便利な道具として記号化し、その内実を剥奪する外的な押しつけである。人間のみならず、あらゆる実在が、恣意的な基準で意味と無意味、価値と無価値に分類され、何者かの観念するところ、思うがままに取り扱われるという暴力的な事態に対する異議申し立てとして、耳マウスの作品は端的に無意味であり、無価値なのである。それが時として鑑賞者に恐怖を与え、ともすれば理解不可能だと文句も出た。耳マウスの『カタツムリ』シリーズは東京につづいて志賀高原ロマン美術館(長野)でも展示されたが、「展示室に入ったとたんに後ずさった」「本当に人が倒れているかと思って心臓に悪かった」「人が死んでいると勘違いされたらどうするのか」(*3)などなど、作品の死体じみた外見(カタツムリの身振りをした人型マネキンが倒れている)が、予備知識のない人たちにかなりのインパクトが与えたことが、これら鑑賞者の証言からもうかがえる。まず自らが思惟し、現実もまた思惟の通りであるならば、世界は観念と同一のものである。しかし、そんな世界は(仮にあるとしても)精神の中にしか存在しない。精神の観念化作用の及ばない外的な実在というものは、こちらの期待に応えて微笑み返してくれなどしない。実在はわれわれの意味期待をたえず無効化するのである。であるからこそ魅力的で、同時におぞましいのだ。
 さて、聖なる子宮としてのコーラは、端的に実在である。そこを人間のために開発しようだとか、その場所を有用に活用しようだのということは許されない。生産の期待できる土地をあえて人間以外のモノのために手つかずのまま放置するという豪奢な蕩尽、それに供される場というものは、不毛と死の体系に属する〈呪われた場所〉でもある。しかし、この聖なる呪いの地をそのままにしておかないと、結局は災い(たたり)がふりかかって、生産の体系が打撃をこうむるので、人はコーラから得られる利得を放棄してでも、そこをそのままの状態で保存しなくてはならない。このように、生産活動が生産外的な聖性によって保証されているという状況は、傍目には奇妙に見える。
さて、ダイアログの記録を読むと、私はこんなことを言っている(なお、ナマだとあまりに言ってる意味がわからんので、ちょっと文章として整理してみた)。
    

     〈たたり〉が起きた時、どういったことをすれば、〈たたり〉が収まるかというのは、経済的な有効性の範囲では測れない部分があります。例えば日本の神社なんかはそうですけれども、禁足地といって、立入禁止の神聖な領域がありますよね。そこは、まさに人間が使えないようにしておく、無用にしておくことによって〈たたり〉が避けられるという非常に奇妙な構造になっています。(*4)

 
 生産を企図する観念が、実在に働きかけて現実に生産を得るという応報関係が成り立つとき、観念と実在との間には正の記号関係が成り立っている。現実は思惟の似像であり、実在は観念の申し分ない代理品である。いわば実在は、俺様の言った通りに何でもやってくれる都合のいい子分である。しかし、子分から搾取しすぎると、そのうち謀反が起こるので、俺様も少しは実在に敬意というものを払わなくてはならない。謀反のうちに成り立つのは、負の記号関係である。俺様の忠実な代理をしてくれない記号など、何の役にも立たないダメ記号である。しかし、俺様と記号は直接にイコールではないので、現実には誤伝が発生する。ある人の思惟を言葉にし、さらに文章にまとめたとしよう。だが、受け手が語り手の真意を理解できるとは限らない。記号は常にオリジナルの意味を代理できるとは限らない。よほど念入りに脅しつけておかないと、いつしか勝手な意味が独り歩きするような事態が惹き起こされかねない。このような記号の反逆を、デリダにならって私は代補〔supplément〕と呼ぶ。(*5)観念にとってかわる実在、それが代補だ。
 科学技術が発達してくると、人間は実在としての自然を意に介することなくこれを道具化し、正の記号化を押し進めるようになった。しまいには、人様まで都合のよい道具にして、「人間とはこれこれである」と外的な規格で画一的に取り扱うようになった。それはそれで昔からあったことだが、近代に入るとその規格の根拠はますますもっともらしくこしらえられるようになり、その効果も目に見えて華々しいものであったため、およそ規格にあてはまらない不合理で無駄なもの、理屈のうまくつけられないもの、生産性や能率に換算できない「それって金になるの?」的なものは弾圧され、外的な規格こそが人間の内容であるかのように、規格と実質の立場が入れ替わってしまったのである。人間の〈自由〉ということが問題となる時、こうした規格は必要最低限であるべきであろうし、そうした規格が適用される時間的・空間的な範囲も最小限であるべきであろう。しかし、規格の適用範囲を拡大することで、実在を効率的に観念化することができるのも事実であるから、「俺様の言うとおりにしてればいいんだ、貴様の意見は関係ない」的な軍隊的ルールの押し付けは、案外、効果絶大なのである。反対しようものなら「じゃあ、それで数字が上がるのか? もうかるのか?」と怒られる。そう言われたら抵抗は不可能だ。あとはキレるしかないね。そうならないように、現在では「もうかるからってパワハラはダメよ?」という新しい超規格を作って、過度の観念化自体を違法化することにしたのだが、それでも「パワハラしないほうがもうかりますよ」として「もうける」こと自体は合法であるとは保証しなくてはならなかった。いずれにしても、もうけるためには実在の怒り、すなわち〈たたり〉をなだめておく必要がある。これはコーラ的な構図である。ある観念が実在を記号化する過程を成就するために、自らの欲望を裏切って実在の側に譲歩する、そのシステムが供犠なのだ。そのために、観念側は自らの支配力と生産力の一部を犠牲にしなくてはならない。耳マウスのコンセプト設計を担当した松田朕佳は、実在に残されたその特権的な場、コーラを足場としてミヒャエル・エンデの言葉「ファンタジーは人間に備わるアナーキーな力である」(*6)を実践に移す。その領域こそが、中沢がいう「いままでこの世界に属していなかったものが(…)この世界に「あらはれる」」場としてのコーラなのだ。(*7)
さて、このコーラ、すでに見たように「万物の子宮」であるといわれている。これを宇宙的な規模に拡大したのが、パラケルススのマトリクス(子宮)という概念だが、これは原物質〔Yliaster〕とかカオスとか呼ばれる無規定のグチャグチャで、可視的な世界に新しい存在者が送り出されるためには、このグチャグチャがなくてはならない、ということになっている。規定されたものはすでに存在するものであって、ゆえに規定可能なのであるから、新しいものは無規定でなくてはならないというのは、まあ、考えてみれば論理的に当然の話ではある。錬金術の聖人にまつりあげられただけあって、パラケルススの宇宙創成理論は、万物照応の考え方のもと、あらゆるレベルに適応され、鉱物から人間、はては天体まで、あらゆるものが同じ生命原理によって互いに対応関係にあることが説かれるのであるが、その影響は、新プラトン主義、クリスチャン・カバラ、ヘルメス哲学、薔薇十字思想などと習合されて世紀末芸術になだれこみ、松田さんにまで及んでいる。彼女が描くのは、無生物どころか言葉にもある種の疑似生命的な機構を見出す言語的錬金術というべき世界観である。松田は、ウィリアム・バロウズの言葉“Language is a Virus from Outer Space.”を引き、次のように言っている。
    

     (バロウズは)言語は(…)、空間外、宇宙からのウイルスだというふうに言ってて、(…)私たちが生きてること自体が、本当は私達が生きていたいわけじゃなくて、こうやって飛び交ってる言語がそれをどっかに連れていきたくて、私たちにしゃべらせたっていうんだけど、じゃあどこに連れていきたいんだっていったら、宇宙に連れていきたいからこんだけ宇宙開発をしてるんじゃないかなっていう。じゃなければ、別にそんなに宇宙に興味を持たなくてもいいはずなのに、これだけお金かけて、「宇宙行きたい、宇宙行きたい」ってやってるというのは、言葉が宇宙に還りたいんじゃないかっていうふうに思ってて。(*8)

 言葉が人間の行動を駆り立て、言葉の使用者であるところの人間を逆に記号化するという事態から導かれるのは、言葉こそが観念の本体であり、人間の意志はそれに対応する単なる模像、代理品にすぎないという転倒した世界像である。パラケルススからすれば、人間とは宇宙そのものの原物質である「塵」(リンブス〔limbus terrae〕)から創造され、神の似像を刻印された存在であるから、いわば神のコピーであり、何がしらの神的な精神が人間の中でも働いており、その意味で人は神というイデアルな実体と対応関係にある。他方、松田の世界では、どうやらわれわれの実体は言葉であり、われわれは言葉や概念に刻印された、言葉の似像というべき存在にすぎないようだ。われわれは言葉によって観念化され、いいように操られているのである。
 さて、ここでちょっと歴史をさかのぼってみよう。宇宙生成論におけるコーラの問題を最初に提起したのは、プラトンの『ティマイオス』だった。どこぞのあの世にイデアルな実体があって、その模像が刻印されることで可視的な感性界にイデアのコピーとしての個物が生み出されるというのが、プラトンの想定した現実世界の仕組みだった。すると、イデアの模像を実際に打刻される側のモノってのは、理屈からいうとナニモノでもないナニかでなくてはならないということになる。『ティマイオス』では、イデアを父、感性界に存在する個物を子にたとえ、イデアと個別の存在者はともあれ似ているとしながらも、イデアの模像が刻まれるナントカというものについては、「何にも似とらんで?」ということで、とりあえずこれを母と名づけている(母差別だな)。これがコーラだ。コーラが何かしら規定された形をしていたら、イデアのイメージを受け入れることはできない。これをプラトンは「いろいろなものに作り替えられる黄金」にたとえて書いている。黄金は、牛にでも馬にでも、あらゆるものに自由に加工できる。だが、生成の過程において、その都度のブツを指して「これは牛です」とか「馬です」と呼ぶのは適切ではなく、とりあえず「黄金です」と答えるのが安全だというのである。この黄金がコーラだ。あらゆる形を受け入れる「受容者」としてのコーラが、父にも子にも似ていないのは、論理的に当然といえば当然である。

     この場合、象られてつくられる像が見た目にありとあらゆる多様性を呈しなければならないことになっているのだとすると、そういう像がその中で象られて成立するところの、その当のもの(受容者)自身は、およそ自分がどこかから受け入れるはずのどんな姿とも無縁だというのでなければ、受け入れるものとしての準備がよく整っていることにはならない、ということです。
    (『ティマイオス―自然について―』50D~E)(*9)

 これを記号問題、つまり、〈実体-観念〉、〈記号〉、〈代補-実在〉という三者問題として考えてみよう。ロゴス中心主義的に、イデアや実体というものを発話者の思惟とすれば、記号や代補というのは、その言葉であるとか文章、そのまた引用文とかパクリとか、そうしたものまで含む、広範な差延体を形成するのであって、そこで何が起こるのかということを考察するためにコーラという比喩を用いるというのは、なかなか面白いことなのである。
さて、このコーラ問題に取り組んだ歴代哲学者を見てみると、ハイデガーが妙に高く買っていたシェリング、ハイデガーに妙な影響を受けちゃったデリダ、あとはクリステヴァなど、〈内部-外部〉問題の関係者が散見される。〈内部-外部〉というのは、ごく端的にいうならば、実体と記号、主観と客観、観念と実在など、優越的な立場を与えられたA(内部)と、劣位にある非AであるところのB(外部)の境界のことで、オリジナルであるところのAに対し、再現性に劣る模像であったり、いうことを聞かない他者であったり、はっきり認識できない存在であったり、無規定でカオスのものであったりするのがBだと考えればよい。その上で、多かれ少なかれAとBにおける境界の決定不可能性に言及してきたのが、上の三人ということになる。ひとまず、紙幅の都合もあるので、時代的に離れたシェリングは割愛します。大体、あまりに天才すぎたのか、シェリングはハイデガーをもってしても難解で、彼の『シェリング講義』を訳した木田元なんかは「ハイデガーも難しすぎてときたま投げている」(*10)みたいなことを言っているし、ロマン主義研究の大家であるバーリンも同意見だった。(*11)そのくせ、今日的には無価値と思われているのか、学生時代、通年講義の「哲学」の前期の試験はヘーゲル、後期はシェーラーとゲーレンだった。やはり、時代遅れの新スピノザ主義がダメだったのか……。
 そうしたわけで、まずはクリステヴァ『恐怖の権力』から彼女のコーラ論を見てみよう。クリステヴァによると、コーラとは、ナルシシズムにおいて主体が自らを外化し、対象と化すことで、他者を排斥する退行的な心理空間のことを指している。(*12)クリステヴァによると、自我と、《いまだ自我でないもの》(対象)を相関させる欲動が「コーラ」と名づける空間を形成する、という。この欲動は自我と非-自我(対象)、すなわち内部と外部を反復し、しまいには〈他者〉(対象)と結びついて、自我自身を別の主体へと追放し、記号化してしまうというのである。自我という内部Aが、自身の固有化のために切り離してきた外部Bへと知らず知らずのうちに失墜し、自己を喪失する境界不明の場がコーラなのだ。他者とは意のままにならない実在であり、観念はそこに働きかけ、認識し、他者を自己に同一化させようとする欲望を抱く。そのようにして、観念は自らが主観化しうる領域を画定し、自我として境域化するのである。子どもなんかは泣き叫べばいつでも大人が言いなりになってくれると勘違いしているが、ンなバカなことはありえない。〈他者〉はいうことなんか聞きゃしない。大人になっても何でも大声で呼び立てれば他人様がすっ飛んでくると思い込んでいる人がいるが、ンなテレパシーやサイコキネシスみたいなことはありえないんで、早く自我領域の限界を悟っていただきたいものである。
 それはそうと、なるほど、世界の中に現れるのは常に〈他者〉であり、自己ではない。欲望と認識の主体である私たち自身が、その対象として世界に現れるとき、それは確かにいわゆるそこらの〈他者〉とは異質のものである。ナルシシズムとは、私たち自身が世界に「あらはれ」(*13)る異常事態なのだ。そこで私は、私自身を欲望の対象として探し求めることになるわけだが、魅惑の対象としての私自身は、一方ではAから転落し、わけのわからん薄汚れたBに変質し、空洞化しているともいえる。この二重化された状態こそが危機なのだ。もはやBはAの制御できない代補として暴走を開始し、代補こそが実体のありようを規定することになるのである。世界に現れた代補は、もはや実体の反映ではない。実体が代補に憧れ、代補のようにふるまおうとするのである。ナルシシズムを反映した芸術のありようについては、目下執筆中の『ハイパー・アート・レクシコン』に詳しく書いているところなので、これくらいにしておこう。ボードリヤールがいうように、とりわけ写真はナルシシズム的な欲望を痕跡化する装置である。これは大変に興味深いことだ。
 一方、デリダは、ティマイオスの存在論に立ち戻ってコーラを考察する。それは、イデア的なものでも感性的なものでもない。すなわち、〈実体〉でも〈記号-代補〉でもない。すなわち〈存在〉ではないものと定式化される。イデアと影は対称性をもっている。平たくいうと、父と子のように「似ている」。子は父の代理記号として、アレゴリー的な規定のもとに置かれている。ところが、母なるコーラは、そのいずれの領界にも属さない、非存在なのである。デリダ曰く、コーラは「存在論的なるものの中に受け容れ可能な存在者の、すなわち叡知的なあるいは感性的な存在者の諸性質をそなえていない」。(*14)
 ところが、実体がコーラに自らを刻印することで生み出される記号というものは、プラトンがいうように所詮は模造品である。しかし、逆にいえば、模造品のあるところ、必ず実物もあるわけである。感性的に存在するものにはすべからく叡知的な実体も存在するのである。観念論的にいえば、われわれの観念が認識しうるものはすべからく実在として存在するわけで、観念が先か実在が先かはともかく、実体と記号というのは不可分の総体であり、さらに記号は実体によるアレゴリー的な規定から逸脱して、代補ともなりうるのであるから、実体と代補はそれぞれを極とする広範な差延体を構成するのである。現に存在するものは、それぞれに個別の〈存在者〉である。ところが、〈存在者〉がそれだけで世界に存在するということはありえない。ヴィトゲンシュタイン風にいえば、個物は名辞である。しかし、世界は名辞の寄せ集めではない。それらが結びついて何事かを構成しているという事態、さらには事態が集まって構成される事実、すなわち命題の集合体なのだ。個別の存在者、地球や宇宙といった巨大な可視的存在も含め、それら存在者が占める場のことをコーラと呼ぶのである。
 この場において、あらゆる存在は差延体として扱われることになる。もし、差延が生じなければ、実体と記号は同格であるし、そもそも実体が記号を展開するような事態にもならなかったであろう。実体のイマージュはコーラにおいて刻まれ、反射され、記号へと写し取られる。この過程で記号は実体の劣化した影として規定され、ズレ方によっては代補として独自の強度をもつことにもなる。これはほとんど自動的な過程であって、どのようにズレるかは可能性の問題だが、コーラを介し実体と記号の間にズレが生じること自体は、記号関係における必然的な形式なのだ。記号とはまさに実体の影であるとの定式から、これは論理的に当然の帰結である。記号とはズレるものなのである。そのズレのプロセス、その総体のすべてをデリダはコーラと呼んでいる。実のところ、実体と記号というプラトン的な階層的二項対立の図式を用いつつも、実体と記号がともに存在であるということを認めるという一点において、両者はともに「固有のもの」として、コーラにおける非固有性から区別され、同等の地位を与えられていることに、私たちは注目すべきであろう。「アンチ・アートという言葉にはいささか悩まされる。というのは、あなたは反対(アンチ)か賛成(フォア)かという時、それは同じものの二つの面であるからだ」(*15)とするデュシャンの苦境は、フレーゲないしヴィトゲンシュタインから示唆を得たものかも知れないが、実体に対する記号、ないしニセモノ、アンチという対極は、ともに固有の場を占める存在であって、結局は固有性に対し絶対的な非固有性を有しないのである。反アートなるものは、アートの存在を先決的に肯定しているにすぎない。当然、アートは〈反・反アート〉なる二重否定であるから、反アートの存在を前提にしている、ということになる。
 今や問題の核心は、イデアルな固有世界からマテリアルな固有世界を媒介的に引き出す(あるいはその逆)コーラの性質にある。そこには、実体なり主体なりが自らを知るようにして実在なり対象なりを知りえないこと(観念論的不可能性)、そして、対象を知るようしては自身を知りえないという(唯物論的不可能性)、決して外部化されえない意識体験の全過程が横たわっている。『Touch with Skin 内在する触感』展において『カタツムリ』シリーズを取り上げた志賀高原ロマン美術館のキュレーター・鈴木幸野氏の企画意図もこの問題圏内にあった。その「科学的に解明しえない」「説明困難な」「主観的な体験」を彼女は〈内在する触感〉と表現している。(*16)科学ってのは素朴実在論なので、外部化できない事象は取り扱わないのである。近い将来、われわれが意識している何かしらの観念を外部からモニタリングする装置が開発されることは想像に難くないが、これじゃまったく解決にならんのである。私が私の思惟をモニタリングしているという体験自体をさらに外側からモニタリングできないと、意識を外的対象と同じく経験的に観測したことにはならないのである。この超意識、超認識にしたところで、それをさらに外部から観測するハイパーな意識によってしか意味づけられないため、ヴィトゲンシュタイン的な独我論の可能性を論じ始めたら無限後退に陥るわけである。物理的触感によってわれわれは他者との連続性を認識する一方、精神においては不連続な隔たりを確認する。この分裂した、しかし分離不可能な自他関係を、それぞれの角度から少し詳しく見ていこうというのが、哲学だったりアートだったりするわけだ。
 われわれが意識において体験する世界の非連続的性質は、差異や多様性といった見かけをとってあらわれるが、複数の個我における個別の体験を一つの絶対的知識に統一することは、普通に考えて困難である。形式化された学問である物理や数学が得意な〈東ロボくん〉が、文系科目では壊滅しちゃうのもそこに原因がある。開発代表の国立情報学研究所の新井紀子博士は「東ロボくんは、雨が降ったら困るから傘を差さなくっちゃ、みたいな人間なら当たり前の思考ができないのよ」と困っていたが、人間だって傘なんか差さない奴はいるからね。どのレベルから傘を差せばいいかについては、ファジィ論理を適用すればある程度は解決できるが、そもそもの問題は、東ロボくんが雨だの傘だのの名辞、あるいは文章全体の意味を理解せずに発話する形式的語法〔formal mode of speech〕に頼っているところにある。新井教授がゲロったところでは「実は中坊どもが国語の問題に答える時もそうなのよ」……いや、私だって意味も知らずに〈アート〉という言葉を使っているという意味では、まったくの形式主義者である。〈アート〉という語と結びついて使われる他の語やイメージを、前例にならって組み合わせることによって文章を書いているわけである。まったくチョムスキー的な事態である。文法性は意味には関わらない。文法が正しければ文章は書ける。文章というのは意味がなくても書けるが、文法を欠いては成り立たないのである。よって、国語の試験によくある「登場人物の気持ちとして正しいものはどれか」的な設問には答えようがない。『カタツムリ』もまた各人の個別的体験から引き出される意味のバラつきを利用した作品であり、ヤニス・クネーリスのコーヒー豆作品『無題』(1969年)と同じ構造をもっている。これを形式主義で解読することは不可能だ。カタツムリのジェスチャーに対応する数億通りのイメージを登録しても、直接体験においてなぜそのうちからいくつかの特定のイメージが喚起されるのか、今のところその必然的な説明ができないのである。東ロボくんのコンピュータビジョンを進化させて『カタツムリ』を特徴量抽出によって形式的に認識させれば「これはカタツムリの身振りをした人の形をしたモノが倒れているところです」ということがわかる。で、これが芸術作品かどうかをどう判断させればよいのか。じゃないと、ビビって逃げちゃうかもしれない。同じ理屈で、デュシャンの『泉』(1917年)と同型の男性用小便器の見分けも不可能だ。だが、忘れてはいけないが、キャプションでもついてない限り、人間にもそれは不可能なのである。不可解なことに、この唯名論的な事態のうちにも、人間は芸術鑑賞の愉悦を見出すことが可能なのであるが、そうしたハイブロウ・アートの規格を支える特別な根拠というものを、東ロボくんは理解できないのである。大衆もまた、アートなる階級制度によって記号化されたアーティストたちとは異なり、この規格がピンとこないのである。だが、こうした規格はあちこちに潜んでいて、話はアートにとどまらない。現実世界でも、識者の甘い予想を裏切ってトランプが次期大統領になっちゃったりと、これまでエリートからいいように記号化されてきた大衆が反逆に走るという、かなりホラーな事態が出来してしまった。これってのもグローバル資本主義や普遍主義といった見かけ上形式化された統一規格の押しつけについていけない人たちがブチ切れちゃった結果といわれている。この問題については「絵を描くことはイキまくること」(『branching-08』2014年)の中ですでに書いた。そして、そういう人たちが何でか排外的で閉鎖的な境域に回帰したがる危険性についても書いた。そうした集団心理が新たな規格を作り出し、周縁としての実在から意味同化の中心である観念の地位へと代補的に返り咲くのである。
 そんなわけで、東ロボくんには、まずマネキンと人間を見極める装置をつけてもらうことから始めてほしいですね。なんだろう、非接触型の赤外分光法とかのやつでしょうか。そんな夢のAIロボットですが、そこはわれらが信州大学工学部の山崎研究室に期待しようではありませんか。画像認識技術をはじめ、〈アルファ碁〉に搭載されて威力を発揮したディープラーニング等に興味のある人は、さっそく願書を書こう。なお、研究室の主である山崎浩博士(数学数理形態学)は、呼べばたまにアートな催しにも来てくれるので、ぜひお呼び立てして話を聞いてみよう。

耳のないマウス 『移動する主体』(『カタツムリ』シリーズ) 2016 志賀高原ロマン美術館(長野) 撮影=松田朕佳 なお、右の二人は作品ではなくてただの人間

耳のないマウス
『移動する主体』(『カタツムリ』シリーズ)
2016 志賀高原ロマン美術館(長野)
撮影=松田朕佳
なお、右の二人は作品ではなくてただの人間



(*1)3331 Arts Chiyoda(東京)、2016年5月19日。
(*2)中沢新一「アースダイバー 神社編 第二回 聖所の原型」(『週刊現代』第五十六巻 第二十六号、2014年)76頁。
(*3)志賀高原ロマン美術館『Touch with Skin 内在する触感』展(2016年)における来場者の声より。
(*4)3331 Arts Chiyoda(東京)、ダイアログ、2016年5月19日。
(*5)服部洋介「貞子講義」『branching-18』、2016年。
(*6)松田朕佳、Facebook、2015年9月15日。詳しくは、服部『存在の恐怖~人間を棄却する快楽』「第二版によせる序文」(2016)ⅶ頁。
(*7)中沢、前掲書、76頁。
(*8)3331 Arts Chiyoda(東京)、ダイアログ、2016年5月19日。
(*9)プラトン『プラトン全集12 ティマイオス クリティアス』種山恭子・田之頭安彦訳、岩波書店、1975年、80頁。
(*10)マルティン・ハイデガー『シェリング講義』木田元・迫田健一訳、新書館、1999年、394頁。
(*11)アイザイア・バーリン『バーリン ロマン主義講義』田中治男訳、岩波書店、2010年、149頁。
(*12)ジュリア・クリステヴァ『恐怖の権力〈アブジェクシオン〉試論』枝川昌雄訳、法政大学出版局、1984年、21頁。
(*13)「あらはれ」は世界に新しい何かが生起することをあらわす中沢の概念。中沢、前掲書、76頁。
(*14)ジャック・デリダ『ポイエーシス叢書52 コーラ――プラトンの場』守中高明訳、未來社、2004年、26頁。
(*15)ジョン・ゴールディング『アート・イン・コンテクスト8 彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』東野芳明訳、みすず書房、1981年59頁。
(*16)鈴木幸野「はじめに」志賀高原ロマン美術館編『Touch with Skin 内在する触感』、2016年、2~3頁。

服部 洋介 Yosuke Hattori 
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14