文 / 備仲臣道
牛蛙の声が聞こえる。低い丘の南に広がる、菖蒲園の隅のほうの池である。枯れた葦がびっしりと生えている辺りの、あちこちにいるらしいが姿は見えない。太い低い声で、水に反響するせいかどうか、嫌にどすの利いた、重く腹にこたえる声である。あちこちでそれぞれに鳴いているのは、縄張りを主張しているのに違いなく、この池の王は俺一人、そう思っていやしないかと、邪推することができる。
前に何回も見ているから知っているけれど、子どもの頭ほどもある暗い褐色の体躯で、前足を曲げて平たくなっているのに、どう見ても土下座しているのではない。態度や面構えは憎たらしいまでにふてぶてしく、ふんぞり返っていなくても実に堂々として見える。
風貌はルイ・アームストロングに似ていて、だから、声が太く低いのにも納得のいくところがある。アームストロングが牛蛙に似ていると言っては、悪いかも知れないけれど、蛙があちらに似ていると言うのならば、納得してもらえるのではないか。その声は太いと言っても、アームストロングよりもスーザホンのほうに近いように思える。スーザホンは、ただ、ぶあっぶあっ、と言っているようにしか聞こえないけれど、ほかになんにもない限りはそうであっても、いろんな楽器の中に混じっていれば、立派に役目を果たしている。演奏者の頭の上に大きな朝顔が開いた、やけに存在感のある威圧的な楽器で、そんなところも牛蛙らしくないことはない。
声とともに水の中にあぶくを吹き出し、その黄色いあぶくが風船のように宙に浮かんで、ぱちんと弾けて破裂するのだろうと思う。そうすると、そこいらに牛蛙の発する妖気が漂い、幻が広がっていくのである。
春が近いころともなれば、池の中ではバンドが組まれる。
ピアノを弾く鯰は、大きな白い腹で鍵盤の上に覆いかぶさり、人間にはとてもできないような和音を、いくつもたたき出す。鍛えた腹筋を巧みに使っているらしい様子である。ピアノの音が彼の腹の中に反響して、さらに水中に広がるのだから、この世のものとは思えないような、妙なる調べが流れるのである。
泥鰌はクラリネットを吹く。歌口をくわえると、おちょぼ口の先に何本か髭があるのが、なんとなく可笑しみを漂わせている。そうは言っても、彼はひょうきんな演奏をするわけではない。けれども、至極まじめにやっているからと言って、泥臭いなどとからかってはいけない。池の底なのだから、どこだって泥の匂いはするのである。
鰻がトロンボーンを選んだのは、なにも長いもの同士だからではなくて、自分の肌にはない金管楽器の輝く美しさを見たとき、己を忘れるほどに取り乱して、一目ぼれをしたからである。身も世もなく恋いこがれて、身をこがすまでに思い慕ったが、それは胸の中のこと。まさか、人間の手にかかって串に刺され焼かれる定めなど知らないことではあり、考えても見ない。マウスピースに唇を当てるたびに、おぼえず上気するが、ふくらませてはいけないと言われたり、赤くなるほどの頬っぺたは彼女にはない。
トロンボーンと親戚関係にあったトランペットは、こうしたバンドではどこへいっても花形であって、ここでは鯉が担当している。ほかの者たちから較べたら、金色の鱗を光らせた鯉の姿は、立派で貫禄があるから、おのずとバンド・マスターということに決まったようである。自分だけが目立つのは、チームの均衡を保つためによろしくないと、鯉は知っていながら、ボーカルも兼ねて渋いのどを聞かせるので、時々は無言のひび割れが生じるらしい。
ドラムは蛸にお似合いだが、ここは淡水なので無理な注文である。代わりにザリガニが受け持つのは、蛸ほどではないにしても、足が何本もあるからだろう。とりわけ、後ろへ跳ねる彼の妙技は、ちょっとまねができないもので、女の子にはこれがたまらないという話である。
メンバーの中で牛蛙は態度ばかりはでかくても、鳴らす音がぶあっぶあっばかりの、芸のないスーザホンで、いま一つ照り映えのするものがない。
バンドの十八番はディキシーランド・ジャズで、「錨を上げて」や「聖者の行進」の、軽快な明るいリズムに乗せられて、池のほとりや周囲の野山では、冬芽がふくらみ、花が咲いて、やがては葉が開く。
花菖蒲が開花する六月になると、白やピンクや紫、黄などの花が咲き競って、たくさんの人がやってくるから、茶店もこのときだけは賑わう。花菖蒲というのは、江戸時代の中ごろに園芸品種として流行って、だから五千種類もあるという話である。
さて、風がそよぎ葉裏を返して光を散らかすと、そのうちに夏の日差しがぎらぎらと水辺に踊って、演奏は佳境に入り、秋に静かな曲をゆっくりと奏でたあと、夕日の落ちるとともに水の中も静寂に帰るのである。もっとも、せっかく演奏されるこのバンドのジャズではあるが、すべては牛蛙の妖気の中でのことであり、人間の耳にはとても聞こえないようである。
冬の間は土中に深くもぐって英気を養い、春が近づくのを肌で感じると、また、ぶあっぶあっというやつを繰り返す牛蛙であるが、そうやって幾春秋を過ごして、背中に鱗が生じるようになっても、児雷也の蝦蟇に変身するということは、予定に入っていない。
備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp
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