文 / 備仲臣道
中天にかかった月が、満開の桜を照らしている。きのう一日雨が降りしきって、いまは少し風があるから、花びらが二つ三つと枝をはなれて散りはじめていた。透き通った淡い紅の花びらが、月光をいっぱいに浴びて白い地面に落ちるところは、近くの山から舞ってきた雪のようである。
この桜は、なんという種類かは知らないけれど、この辺りでは春に先がけて一番早く花をつける、小粒の一重である。駅のホームの外側になる斜面から、境の金網のフェンスを乗り越すように、道へ向かっていくつにも分かれた枝を投げ、ほどよく広がっていた。黒くごつごつした幹が、がっしと土をつかんで根を張っているようである。樹齢の古さを語る、根元の縦に割れたような洞から、白髪白髭の桜の精が、いまにも煙とともに出てきそうであった。
* *
桜の季節に限ったことではなく、花の下の道や駅舎へ登る階段の下から、駅前ロータリーのタクシー乗り場の辺りまで、塵取りと箒を持って、一日に何回も掃除をしているおじさんがいた。年齢のことはよく判らないけれど、若くはないにしても、まだ、爺さんという年ではない。小柄な体に間のびのした寝ぼけ色のズボンとジャンバーをいつも着ていて、汚いとは言わないけれど、どこかすすけた感じがするのは、このおじさんがホームレスだからである。しかし、大阪・釜ヶ崎の、仕事にあぶれたルンペンプロレタリアートのように、日焼けと垢とでぴかぴかした肌をしていないのは、間遠にではあっても、どこかに風呂かシャワーを使わせてくれる人があるのではないかと思われた。それに頭だって、寒山拾得のような蓬髪には違いないが、むやみに長いのではなくて、肩より少し上で刈りそろえられているのである。
朝夕、この駅で乗り降りする女子高校生や女性たち、それにサラリーマンからも親しまれているらしいのが、おじさんの掃除好きのためであるのは、ご苦労様と声をかけて通り過ぎる人があることからも、想像することができる。タクシー乗り場の前にあるベンチに腰を下ろして、客待ちする運転手たちから、たばこをもらって吸っていたり、缶コーヒーをご馳走になる姿を見たのも一度や二度ではない。
実は、おじさんは佐藤則清という名前らしいのだが、そんなことは誰も知らないのだろうと思う。佐藤というのは、この辺りに多い姓のようであるが、近くに縁につながる人が住んでいるということは、ちょっと考えることが難しい。それに佐藤姓は日本中どこへいってもありふれているのだから、どうにもならない。
そのおじさんが、ときどき空の一ヵ所をにらみすえるようにして、右手の指を折ったり伸ばしたり、なにか考え込んでいる風なのは、これも知る者は少ないけれど、和歌を詠んでいるのである。
花咲けば見上げて転ぶ人のあり これを桜の罪と言うのか
これがおじさんの一首で、誰に教わったというのでもなく、思ったままを自由に作るから、うまいかどうかは別のこととして、楽しいところだけを拾えばいいのだろう。ここに不思議なことが一つあるのは、おじさんの和歌を女子高校生たちが知っていて、口ずさんだりもしているという事実である。邪気のない女子高校生たちの目と、おじさんの目が合った刹那、おじさんが心の手帳に記しておいた和歌が、少女の胸に伝わるのではないか。そうとでも思わない限り、女の子がおじさんの歌を知っているということの説明がつかない。もっとも、俵万智みたあい──という彼女たちの評が当たっているかどうか、それはまた別のお話である。
おじさんは、かつては京の都に住み、鳥羽院の北面の武士であったと、いつか聞いたようにも思うけれど、どうなのだろう。とんでもなく昔のことではあるし、夢にでも見たのか、それとも、おじさんと目が合ったときに、おのずと伝わったのであったか、それもよくは判らない。
夜になるとおじさんは、ここからすぐ近くにある天満宮の梅林へいって、東南の隅にある東屋に寝ているのを、いつだったかの散歩のときに、たまたま知った。その日は午後も遅い時分であったが、この辺では「はけ」と呼んでいる崖下の湧水を見て歩いていて、変なところから道が藪になっているから、蜘蛛の巣をよけながら入っていったら、にわかに前が開けて、そこが梅林であった。すぐ左にある東屋に人の気配がするので目をやると、木のテーブルに薄い毛布を敷いて寝ていた人に、険しい目つきでにらまれた。それが、あのおじさんであった。
たくさんの梅の木や周辺には建物もいくつかあるから、風除けにだってなるし、むろん東屋には屋根があるのが、おじさんにとっては一番大事なことだったかも知れない。それに梅林の反対側へゆけば、訪れる人のための水呑み場やトイレだってある。
東屋は夜ごとに梅の匂いして私を包むやさしい住まい
おじさんはどこで生まれたのか、むろん自分では判っていても、誰にも言わないのは、すべてを捨てたいまの境涯が、清々しいとさえ思えるし、昔にもどろうとは、露ほども思わないからである。おじさんは、もとはちゃんとした会社のサラリーマンであったが、人の世間というものは、三人寄ればもうそこに争いが生じる。政治が生まれる。どちらかもう一人を抱き込んで、自分が主導権を握ろうとし、三人が三人ともあくせくとする。そんな社会が嫌になったのである。それに加えて、おじさんは妻子がありながら、別の女性に恋をした。苦しい片恋で、挙げ句には相手の女性に想う男があると知ったときの、切なさと言ったらなかった。
それですべてを捨てる気になった。家を出ると宣言したとき、まつわりつく妻子を蹴倒して玄関のドアを押したのは、しかし、自分の未練を断ち切るためでもあったのを、おそらく誰も知らないだろう。とりあえずの間は、妻子が路頭に迷わないほどの貯えを、家の中のすぐに気づくだろう場所に置いてきていた。
それからは急ぐ旅ではなし、和歌山、香川を歩き、愛知、静岡から東北へも回って、やがて富士の裏側へ歩を進め、一時は桂川べりの洞穴に住んだのは、すぐ下流に葛野川も流れ込んでいて、京が懐かしく思えたからでもあっただろうか。そこからは富士の山も見えて、しばらくはここにと考えたころ、ある日、町を歩いてもどってみると、洞穴の住まいがすっかり水没していたので、安心して住める所ではないと知ったのである。
風に吹かれ富士の雲さえ消えてゆく どうなるものやら私のあした
その日のうちに川沿いに道をとって峠を越え、いつしか武蔵野の西からいまの地に入ったのは、なんとなく忘れがたくなった富士の山が、晴れた日には遠く南西の山の向こうに、くっきりと白く見えるからである。そうして、なによりもこの地に愛着を抱いたのは、早咲きの桜が二本並んであったからに違いなかった。なんとはなしに、満月の夜、桜の花の下で死にたいと思うようになっていた。用のある身ではなし、食べ物さえあったりなかったりで、あまり健康とは言えない、このごろの体のことを考えたからでもあっただろう。
春近い桜の下はなんとなく花はなくとも心は楽し
こんな世に影も変わらず澄む月よ 誰も知らない私の辛さ
捨てた妻子や片恋に終わった女性のことを、思い出さないと言えば嘘で、じっとしているのは辛いから、そんなときは体を動かそうと思った。掃除をするようになったのはそのためである。それがいつか自然と日課になって、行き交う人たちからも、掃除のおじさんとして認知されるようになった。
ときには、そっとお金をくれる人もあり、食べ物を持ってくる人もできたのは、掃除というものの功徳であったのだろう。同時にそれが、おじさんのたった一つの処世でもあった。だから、こうして食いつないで今日まではきた。しかし、あしたがどうなるのか。それはなにもわが身ばかりではない、家を持ち、職もあって、せわしない日々を暮らす人たちであってさえ、同じことではないかと、おじさんはいつでもそう思った。そうと決まったことならば、この身のほうがいっそ気楽である。
* *
さて、満月の夜である。中天にかかった月が、明るく白く満開の桜を照らしている。はらはらと散りはじめている花は、あと何日の間、枝にとどまっているのだろうかと思ったら、寝ぐらにもどるのが惜しく思われてきた。
月の夜の白い大地に雪のよに散ってとけゆく桜花びら
おじさんは心の中の手帳にその歌を記して、そうして、今夜は満月と桜の花の見える、ここで寝ようと思った。駅の階段下のベンチに、いつも持っている袋からすり切れた毛布を出して、目を閉じるのはもったいないと思いながら、ゆっくりと体を横たえた。
降りそそぐ月の光は、辺り一面を乳白色に彩って、そこいらの建物や街路樹は、影というものがないかのように、鈍い銀色に縁取りされていた。もはや駅前の広場を歩く人もないのは、みんな静かに眠っているからに違いない。桜の花びらは決まったリズムを刻むように、ひらひらと散っていた。ここで動いているものはそれだけであったが、散って地に落ちると、あと形もなく月光にとけてしまうのである。
おじさんは自分の体が、乳白色のなま暖かい液体の中に、背を丸め手足をちぢめて漂っていると思った。だんだんと穏やかな気持になっていくのが、自分で判った。なぜかは知らないけれど、はじめにきたところへゆっくりもどっていくような気がする。上のほうから、やわらかな温かみのある声が、おじさんを呼んでいた。ああ、お母さん、とおじさんは叫んだつもりだったが、声にはならず、深い眠りに引き込まれていった。
月は冴え渡り、時が経つにつれて気温は下がった。そうして、おじさんはそれっきり目を開けることがなかった。
備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp
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