千層遡行

文 / 町田哲也

 引き戸を後ろ手に閉めると、金属質な籠りの中、植物が鼻孔から瞳の奥へ薫り差し瞼が潤んだ。河原の土手をダンボールで滑り落ち、笹の繁みの中で緑色が滲んだ膝小僧を頬にすり寄せた軀の形が皮膚の下に弱く広がる。深く吸い込んでから呼吸を整え、目を凝らしたが、店の中にはそれらしいものは見あたらない。  
 雨の残りが俄に降って、駆け込むほどではない軽いものだったが肩は皮膚まで湿っていた。知らぬうちに身体に染みたかと袖口に鼻を近づけると、手の甲に黒いものがぽたんと垂れた。  
 ほんの数分前、互いが驟雨に慌てたのだろう、歩道のすれ違いざま今時の赤い長髪に隠れた華奢だが固い肩が額に当たり顔を顰め、妙に女性的なコロンの香りが鼻につく白いツナギ姿に身を構えたのだったが、意外に繊細な柔らかい声でスミマセンと腰を曲げて頭を下げられ痛みは和らいだ。背丈のある細い身体の背中に有坂石材店と印刷された文字を読んで、走り去る姿に、石というのは、つまり墓なんだろうなと一瞬印象と認識が揺らぐのを遊ばせるように空を見上げ、細かい雨の落下に暫らく顎を預けると、眉間に焼き栗を乗せたような甘い痺れが丸く残っていた。  
 手提げから出したタオルで手の甲、口元を拭うと、思いのほか汚れ、喉まで血液の名残りがあって、雨露に薄められ余計に広がったかなりの量が胸にまで落ちていた。啜ってから鼻腔を広げる。でもやはり、この濃厚なミドリイロは近くから流れてくる。
 
 西側の壁の天井との境の、子供ならば潜ることが出来そうな小作りの、だが足は届きそうにない高みに、校舎とか病棟の風の震えを思い起す木製の枠の、曇りなく研かれている硝子窓が端から端まで一文字に並び、そのうちの両脇二箇所が下から外に向って斜めに押し開けられ、窓の縁の金属の把手が雲間から差し込んだ雨上りの陽射しを、鉱物に貫入して潜む結晶の瞬きのような煌めきでこちらへ反射している。そういえば建物の隣は放られたような空き地があった。この建物の小さな二つの窓が、間近を通り過ぎても気がつかなかった儚い草叢の水を得た深呼吸を此処へ届けたか。血液で濡れた鼻が敏感になったというのも可笑しいが、補色の斥力が粒子吸入の穴を広げたか。あの若者のコロンも作用したかもしれない。出来事の連鎖が巧妙な仕掛けのような気もした。  
 これまで香りに囚われた記憶はない。匂いに過敏であるような質でもなかったが、錆びた記憶の蓋となったような残り香を、連鎖に促されたのか不器用に手繰っていた。やがてその遠い暗がりから、乳臭い産まれたての存在の、不完全に香ばしい、目を瞑って鼻孔に全身を預け倒錯を誘う体液の絡む兆しを探しあて、まだ幼い頃、牧場で働いていた叔父の投げた石ころが放牧牛の眉間に命中し、乾いた音に怯んだ後、臭い山羊の子を抱き寄せてから突き飛ばしていた一瞬の放棄、放下、ゲラッセンヘイトに取り込まれ、糞尿にまみれた尻の筋肉と泡を吹く家畜の唾液に再び確かに静かに誘われるようだった感覚の凝固を憶い出した。あの時のぽっかりとした中身が無いけれど果てしない広がりはある気分に今となってたっぷりと肯いている。  
 ひとつ間違えば招き寄せた過去の波を浴びて蹲ってしまいそうな身体の撓みを堪えて、爪先に力を込め唇を砥めると、舌のざらつきが現在の肉体を論すように動いた。唾液を拭き取った指先を嗅ぐと、胃液が血液と共に含まれている。

・・・仕草ハ形ヲ超エル・・・・  

 目蓋を指で押さえ、肩を下げるようにして胸の残りを吐き出すと、聞き覚えのない断定が勝手に唇から漏れ、「独り言」というのは呪いでして・・・。噺家の嗄れた声がその呟きに重なる。部屋の中央まで雲間から斜めに差し込む昼下がりの弱い陽が、淡く宙に漂う金属粒子を点描するように際立たせ、透き通った幾何立体をつくりこちらの踵を切断する。 

 自身の半ズボンから曲がってのびた、細い枝のように痩せた太股から脛を憎んで恨めしく眺めた目付きが蘇り、幼い日々の乱暴で些細な約束に芽生えた怯えや、躊躇いや嫌悪が、砕けたまま足元に繊細に砂鉄のように集まって、光の粒子の前に立ち尽くした放心が、現在を溶かすように新たに喉元に滲み、誘われて顔つきも焦れた歪みに覆われ、封印するように棄てた筈の、沼の底の堆積物に隠した皮蛋みたいな自虐を掘り出して頬張れば、この臭みも美味いじゃないかと過去の怯みに開き直る気持ちが頭を撞げた。
 真昼の薄暗がりに独りで立つといういかにもありふれた機会が、数十年の間無かった筈はないが、高みにある窓を見上げる姿勢と、隙間から溢れる光の呟しさなどの、空間の仕立てが丁度重なることはなかったのかもしれない。ここまで辿った軽い疲労と精神の揺らぎなども助長して、眉間の奥が裂け更に状況を整えた。背後速く走り去る車の音が、開けられた窓からステレオの効果で間近に引き戻されるように聞こえると、今は見ることのなくなった、使い込まれていたるところにある凹みや傷に錆の浮いた塗装は簡単に剥がれる、フロントが膨れたデザインの、当時どこにでも使われていたあっけらかんとした青い色のトラックを、蹴飛ばすように運転していた大工見習いの、北の街の方言の残る皹割れた唇の奥の頑強な歯に衝えられビクピク上下するマッチ棒が現れた。二十歳そこそこだった筈の、肉体的には成熟した大工男の瞬間を切り捨てるような仕草と、隆起しよく動く筋肉を目で追っては、存在の差異に打ちのめされていた幼い性の狼狽えが、マッチ棒に火を点し、再びあの時と同じ放心を誘う。
 恥と虚勢で練り上げるしかないのは、お前等も此の身体も全部が間違っているからだと嘯いた日々は、鬱屈しながらも、身近な大人たちがあからさまに下卑ていると指を差す肉体労働者たちのスピードと瞬発力を、模範として眺め観察することで、時には未来を直線的に楽観し、例えば、朝早く起きて走るなどした思いつきで辛うじて肉体に宿った切ないような疲労に馴染むことを、脆弱な自身を棄てる端的な手段と決め、そんなことでも続けることで膨れた胸の肉の変化を、弱く倒錯して滑稽な自覚を促す稚拙な勃起と小便臭い自慰へ結んでから、自分の匂いを指に乗せコレガヒトノタネカと噎せては繰り返したが、いつまでも変わらぬ細い骨と拙い歯が邪魔だと肉体への関心を簡単に捨てていた。躯を横に放置して、煙草を肺に充たし、生の早送りを諦めた夕暮れを昨日のことのように甦らせてはみるが、細胞の入れ替わり果てた目蓋の重いような今が、十二、三の時とどれほど変わったのか。かすれた呟きがもぞもぞと動き、その裏側で、蒙昧な精神は今でもしっかりと此処に根を張って、肉体の重さが一体何かわからないまま、扱いにも慣れていませんよ。テロップが浮かんで融ける。
 垂らしたままの手首に血液が溜り、血管が膨れて重くなった。骨に引っ掛かった腕時計を回し、顎を上げ、再び窓の細長い光の束に瞳を向け、目蓋の奥の香りの残る鈍い眩みのような痺れに今をそのまま預けた。屋外から流れこむ植物のエッセンスと、徐々に立ち籠める金属の匂いが、空間を微分するような光の介入で麻薬めいた効果を持つとは思えないが、沈んでいた記憶の破片に浮力を与え、得体の知れない恣意を操り、脈絡無い映像を運び、不意に停止し、あるいはコマ送りしたヴィデオのようにノイズを含ませ微動して歪み、またあるいは魚眼レンズで膨れ強引に頭に併置されるのだった。全て受けとめてみせるとスクリーンになったつもりの細い思念で、それぞれの絵の成立を見極めようとするのだが、認識は遅延しズレて定まらない。音声と固有名の欠落したイメージは、出自が掴めずに何処かで借りたままの遠い無縁の印象なのではと訝ると、イメージに鈍いが親しげな後ろめたさが寄り添い、活字となって絵をこの身体の経験だと正当化する。開放されても現在に同化ができそうにない光景が、いかにも「記憶」という辛うじて所々に色彩が残った装いで朽ちて壊れながら、何も完結していない面持ちで現在にぶらさがる。

 鼻を畷ると虹矧のようなとらえ所の無い凝固した太い糸が喉に流れ細かい咳がでた。眉間の痺れは鼻血と結びつかない。脳味噌から何かが流れ出たのかもしれないと腹のあたりで茶化した途端に、流れ出るものなどまだあったのかと異様に白けた。不確かな断片の幾つかが一人の少女の肉体を示した。友人たちとのつまらない意地の張り合いが、少女の頬を平手で打つまでエスカレートして、用具室に独り立ち竦んだのはあの日の午後だったのではないか。頬を叩かれたのは初めてだろう、泣きもせず騒ぎもしなかった、その唐突な出来事で物怖じせずこちらへ幼気な魂を捧げた少女の、四十年は口にしていないチフミと云う名前が唇から零れた。
 張られた頬を両手で被い、黙ったままこちらを突き抜く眼差しが浮きあがる。詫びた記憶はない。お前には出来ないだろうと少女との微妙な関係を揶揄されてこちらを試され反射的に手が動いたのだと思う。理不尽に歪んだ自らのココロが正確に反復される。居合わせた友人らの顔も名前も失っている。周囲とのズレを気質と戒めながら、つまらない事に迎合し、油断すると身体が裂けるように痛んだことが他にもたくさんあった。ひとつが突出すると他は一体どこへ押し返されるのだろうか。記憶への文脈はいつまでも顕れない。 

 自転車で、走る笑顔を追いかけた絵がぼんやり透き通って少女の瞳に重なった。新設された学校の学区にこちらは吸収され、少女とは離れた筈だ。然し放課後、以前の校庭で何度か自転車を走らせた。懐かしいような気持ちで追いかけた笑顔を彼女のものと思っているのは、いつかどこかで許されたと勝手に捏造した我儘かもしれない。少女の赤く腫れた頬は右だったと記憶にあるのも、右利きの自分が左で張ったと後で付け加えた言い逃れのような気がする。またあの笑顔に逢えると都合良く短絡して、幾度か放課後の校庭に通ったが一度きりで叶わなかった。然しこの記憶も、赤い夕暮のベットの上の拙い臆病が形づくったセルロイドのような幻とも考えられる。いずれにしても、彼女はこちらの存在を真っすぐにみつめた初めての他者だった。無いものを在るような素振りで隠す仕草は、他者をみつめる意気地の喪失を煽り、類型こそ人間なのだと開き直るのは固有の問題ではない。今でもモンスーンのこの澱みがその錯覚を促している。判りながら弛緩から逃れられない。
 頬を張って破壊されたのはこちらだった。少女の恨めしさと怒りを背負えば苦笑で済んだかもしれない。出来事が大きくなった憶えはない。年齢を超え普遍を湛えるひとつの視線がこちらのあまりに貧弱な「人間」であることを貫いた。みつめることは同時に見つめられることであり、感じることは同時に感じられることであるという、存在の揺らぎを直覚したこの対峙の瞬間が凍り付いたままくっきりと括弧で括られ、こんなところで顕れた。

 ・・・・・サウザンド、ステップス・・・

 窓を掠めた鳥の羽だろうか物音にいきなり怯んで、遡行がぼたっと床に落ちた。真横に十センチずれていた魂が重怠い身体に戻って、辺りのモノがよく見えはじめ、漢方臭い植物の匂いも失せ、昼下がりの眩暈だったなと醒めたけれども、唇には少女の名前が形で残り、血液を舌の先に確かめている。鼓膜の奥の首筋へ辿るあたりから、好んで聞いていた詩人のきっぱりとそして激しく繰り返す朗読の声が、幾度も連想したフォンタナの切り裂く手首の運動を伴って無慈悲にザクッ、ザクッと胸元へ送られ、その声が幼い少女の名に重なる今更の切迫を緩く消えない塊の刺青のごとく腹の底へ怖れの結晶と確かめるように揺り戻し、あらためて刻印するのだった。
 
 高さが4メートルはあるだろう、平らな波型の屋根の下に離れて、蛍光灯がふたつ下がって消えていた。入り口のサッシの引き戸の他に、ノブのあるドアが隅にひとつあるだけで窓は他には無い。壁はコンパネが無造作に張られ、床から天井まで寸法の同じ棚が取り付けられ、入り口の引き戸の上の壁も天井まで左右から棚が延長され、鉄のL字材と網を溶接して組み立てられている。中央にはこれも床から天井までを垂直に固定された棚が三列並び、棚板の間隔が壁と同じであったので、ジャングルジムの中に立って、水平と垂直とに身体の線を戒められる不安に似た眩暈と、奇妙な整合性を空間に与えている。コンクリートの床には小さい孔が円形に掘られ、それぞれの棚足を差し込みセメントで固定してある。奥には障子がみえた。向こう側は住まいに接続されているのだろう、薄赤くオレンジ色にぼんやり発光して、人の暮らしのあることが、不思議な気がするほどに静まり返っている。同じ面積をそのまま位相できる広く空いた障子の上の壁の中心に、四角い時計があり、唯一動く自覚を反芻する確かさで、振り子が音もなく揺れている。棚には鋸、紐、ロープ、軍手、青い延長ホース、蛇口、プランター、アルマイトの鍋、作業着、湯たんぽ、炭鋏、火起し、ビニールシート、釘の箱、油性と水性のカラーペンキ、刷毛、バケツ、三つづつ強化テープで束ねられた煉瓦、束子、針金、石油のポリタンクなど大小様々な形態 の生活雑貨、金物が隙間無く整然と棚に並べられている。壁も中央の棚も床から膝ほどにある棚枚の下には何も置かれていない。そのせいでこの部屋を支える基底を見渡すことができるので、等間隔にぽつぽつと並ぶ丸いセメントの跡が得体の知れない装置となって、モノを支える磁力をはらんでいるかにみえる。
 イヌイットのサングラスのような空間のスリットである細長い窓の下の薄暗い棚には物干し竿やスコップ、柄の長い枝きり鋏と角材が、窓の形を崩さないように棚板に寝かされ、商品の殆どは箱に収納されたまま、値札らしきものも商品名もみあたらない。店舗というより物置、倉庫だった。フラットな簡易トタンの大きな壁面に小さくあった入り口を開けた時、プライベートな空間に立ち入る感覚が降り尚それに誘われていた。生活をコツンと弾かせて細かく分解したようなパーツが置かれているのだから、この店に通えば人体解剖模型のように透明な一軒の家ができる。最初は眺めも月並みに邪推へ動いた。天井まで品物を高く積み上げられた空間は、系統に忠実な博物館に似た執拗な蒐集の趣があったが、その内実を眺める者に対して媚びるような虚飾はない。重ねられた薄い箱のひとつを開け てラジオベンチを手にすると、握りの内側にいつか手にした陶芸作品の裏にあった控えめなものと同じ仕様の、小指の爪ほどの白く丸いシールが貼ってあり、660とボールペンで米粒を並べたように記されている。フライパンの裏にも同じように2200とあった。「灯油はこちら」という文字と矢印が、新聞の公告ページをそのまま切り抜いてセロテープでノブのあるドアに貼って示されていたが、近寄って更に頭をすり寄せなければわからないほど細く小さい。障子の手前には腰の高さのガラス棚が独立してあり、その中の白い布が敷かれた棚に刃物がいくつか並び、度々手入れをしているのだろうか、祀られているような慎重さで、細かい光を逃さぬように鈍く反射する刃は、見たこともない爬虫類の皮膚を思わせた。まさか売り物を研ぐわけではないだろうが、時々取り出して曇りを拭き取るその仕草を自身の指に重ね、こういった種類の店の主人なった心地で腰を曲げ、刃を眺めるだけの非実用的なオブジェとしてみつめると、只管惹き込まれるのだった。
 ガラス棚の手前には一畳程の机があり、厚いガラス板がその表面に敷かれ、カレンダーと商品のリストがプレスされている。骨格は鉄材とコンパネで組まれ足は棚と同様に床の丸い円の中に固定されていた。動かすことのできない「湖面のような机」に歩み寄り、何も置かれていない水平なガラス面に暗いトーンで映り込む空間を眺めると健やかな空虚に充たされる。このガラス板なら、過去もすっきりと曇り無く、後ろめたさが拭われてセンチメンタルに映る気がした。

 一見無愛想な生活雑貨の店だが、みつめると商う人の実務的とは言えない、極めて特異な仕草が控えめにあれやこれやに顕れて意志の形となり、此処にいては彼の生きる姿勢を受け止めるしかない。コンクリートの床のヒビ割れは、幾度か修理され、打水の乾ききらない名残りがうっすら所々にあった。毎朝独りで腰をまげ水をまき顰め面で掃除をする姿が浮かんだ。客は多くはないだろうが、目的を持って訪れる人間に回答を用意して待つことが、このような形になった。この店には必要を売るつもりがみあたらない。生活の修理、リサイクル、整理を促し、補充に答えようとしているにしても、需要の少ない筈のアラジンストーブの丸い石綿や、目盛りのないビーカー、試験管、鉄や鉛のインゴット、今時の暮らしではその用途が思い当らない錯止めの油紙で包まれた鉄の鎖などは、売るためでなく、並べるためだけに置かれているようだ。其々の暗喩のギミックを解きたくなる。日々を淡々と変わらずに繋げる。「必要」でない事を丁寧な仕草で据え置く。紙ヤスリ一枚や鍋の蓋といつたささやかで唐突な事態に答える為に待つ。待つことがシェルターのような空間となり生活をつくる。モノを並べては眺め、眺めてはまた並べることを繰り返すことで、この空間は店舗とは異なった意味を生成する。だから漠然と訪れる者の意識が、変哲のないモノの間を実によく動き動かされる。ふと試験管を手にし花を活けてみようかなどと。目の高さにある重そうに巻かれた鉄の鎖は、この空間の消滅に備えているような逆説的な気配を醸し、箱に詰め込まれたボルトとナットも充分にオイルを含んで準備され、ねじ込まれる瞬間を既に果たしている。終わってしまった形が、遺跡のような佇みで、意味と固有名を消失して新しく顕れる。振り返って窓を眺め、あれが閉じたままであったら、このような時間は立ち現れなかったと領き、この空間の意匠全てを引き受けて了解し、明日からでも働きますと、店を任された錯覚が広がって、箱を開け、ひとつひとつ挨を払い、箱に戻すだけの仕事を考えている。

 閑散とした住宅地を貫通する細い街道添いの弁当屋、電気店、文具店など散漫に並ぶ商店街から少し離れ、森田商店と小さく示された箱型の倉庫のような店の隅の棚に、欅だろうか3センチほどの厚さの一枚板が重く感じられた、折り畳める足の細工は蝶番など使わず、よく眺めると釘ではなく竹釘か何かを丁寧に忍ばせる工夫がある小さな丸い卓袱台をみつけた。即座に越してきたばかりの空っぽの部屋にこの身を繋ぎ止める形だと手にしていた。これであの四角い空間に腰をおろすことができるだろう。塗装も施されずに磨いたままのさっぱりとした木工家具であり、量産できるモノではなかった。値札を探すがどこにも白いシールは貼られていない。黄色の風呂桶と髭剃の束を抱えた卓袱台の上に重ね、それぞれのちぐはぐな形の取り合せを眺めてから首を傾げ、いずれゴミとなる風なモノに依存する生活などするつもりはないと愚痴る。
 あれこれ簡単に触れてはいけない。それでも髭剃は必要か。喉元に妥協を戻すと背後で物音がした。障子が開き、サンダルを履き足場に使う脚立を畳んで脇に立て掛けガラス棚に寄り添って、手首の太い主人がのっそり立った。咄嗟に越してきて日用雑貨が必要となったと彷徨う視線の言訳を小さく呟いた。こちらのこれまでの動きを見透かされた錯覚が唇あたりに翻り声が狼狽えている。壁に触れた主人の指先が蛍光灯を点すと、辺りはそれまでよりコントラストが強くなってモノや空間の性格が変わり、こちらを支配していたような呪縛がふっと霧消し、背が楽になってから抱えた卓袱台と桶と髭剃りを眺め、卓袱台が四角であったら三つの辺に余計を呼ぶだろうか、淡い戯言を指先にぶつぶつ添えてこれくださいと主人の瞳へ顎を向けた。ガラス板の敷かれた机に指を置き目元を伏せて ー いらっしゃい。その卓袱台は売り物ではないのです。ー と手首に似合わない細い聲で主人は呟いた。

ー 「卓袱台」(1999年執筆稿2015年改稿)

町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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