文 / 丸山玄太
熱にうなされた細切れの眠りの中で、男は重ねた転居を遡るように幾つもの天井を見ていた。目覚める度に闇の中に朧気に浮かぶ天井を見つめて、これではなかった、と首を傾げて再び眠りに落ちる。何処ともつかない数日だけいたタコ部屋の二段ベッドの底板すら見たような気がした。これほど緩慢な走馬灯もあるのかと思ったが、安物のカーテンが乱暴に朝を告げると、ようやく今の部屋へと引き返し、何度目かも分からぬ眠りへと落ちた。
それからは昼まで昏々と眠っていた。室内は熱気が篭もって蒸しており、窓を開けようと男は布団に横になったまま腕を伸ばしたが、手は空を切るばかりだった。まだどこか別の部屋の間取りを思っていたらしかった。一旦腕を落とし溜息をひとつついてから、ようやく布団を這い出て窓を開けると春を惜しむような風が皮膚の上を走り、全身を覆った汗を冷やす。ドラムバッグと薄い布団があるだけの部屋だった。失うことに慣れ、得ることを拒否し続けてきた。ちょうど知らぬ死について恐れるように。ドラムバッグの底から煙草を取り出し火をつける。吐き出される紫煙は部屋を満たすことなく消え、残った灰も台所の排水溝に流れた。
公園の時計は午後一時を少し過ぎたあたりを指していた。男は一度公園を抜けたが、自動販売機で缶コーヒーを買うと踵を返して、噴水を囲むように置かれたベンチに座った。隣のベンチではサラリーマンが週刊誌をかぶって寝ており、噴水では歩き始めたばかりの赤児の手を母親が引き、木々の中に置かれた東屋からは学生の声が響く。男は刻々と変化する地面に描かれた斑模様をぼんやりと眺めていた。暫くして老人が隣に腰を下ろしたが、ベンチに座る権利は誰にでもある、というように男は気に止めなかった。
ここは長閑すぎるな、と斑模様に浮かんだ姿に向けて話しているかのように老人は言った。男は反応を示さなかったが、老人は継ぐ。妻とよくここを散歩したものだが、どうも苦手でね。目のやりばに困るんだ。仕事柄、と言うのか映るもの全てをまず疑うことが習慣のようになっていてね。疑うべきものが無ければそれに越したことは無いんだが、何も無いということこそ疑うべきだと、目が鋭さを増してしまう。ただの散歩だ、平穏な公園だ、と思って視線を解すのだが、また知らぬ間に殺気立った目で辺りを伺っている。妻は、獣みたい、と笑って見ていたよ。当時の私にはその脳天気さに、だがらお前は騙される、なんて説教をしたものだが、それにも、疑うよりは余程疲れないわ、と妻は笑っていたよ。まぁ犯罪者にすら良心を見るほどだったから、こんな私にも最後まで連れ添ってくれたんだろうな。木々の影が少しずつ伸び始めていた。男は立ち上がり、一度も口を付けなかった缶コーヒーを残して歩き去ったが、公園を出るときに一度だけ振り向いてベンチの老人を見た。
狭い路地を抜けて、男は古びた喫茶店に入った。錆と脂で覆われたドアベルが鈍く鳴る。小窓から斜めに陽が差し込む半地下の店内の暗さに瞳孔がゆっくりと開き、それに合わせるように店内を見回してからボックス席の一つに腰を下ろした。店主にコーヒーと告げると、目を閉じて大きく息をひとつ吸う。やがてコーヒーが運ばれその湯気が消える頃、男はポツリと、十五年経った、と言い、向かいに座っていた女が小さく頷いた。
丸山玄太 1982年長野市生まれ 東京在住 クリエイター
undergarden主催
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