「自分自身」とは「独り」なのか?

文 / 塩津知広

 一回欠席をさせていただきました。いつも私の活動「ドラムサークル」についてお読みいただいている当欄ですが、今回は内容が少々横道にそれる、もしくは支離滅裂となってしまいそうです。ご容赦下さい。

 私がドラムサークルをやる意義(これをたまに「ミッション=使命」と呼んだりもしていますが)は「(みなさまも私自身も)胸をはって自分自身であるため」であると以前に書きました。

 「自分自身で在る」ことを「努めて(誰にも頼らずに)独りであれ」とはき違えることもまた多いと感じます。そう仕向けてしまうのも”ファシリテーター”の危険な能力です。

 決して、孤独を強要してはなりません。
 「自分自身で在る」ことは「(他者との)つながりを認める(獲得する)こと」と同義だと思います。それこそがドラムサークルの目的の一つであること、これをは違えてはいけません。

 ドラムサークルでは、今まで書いてきた文脈にならうなら「自然であれ。自主的にであれ。自らの欲求に素直であれ。」と求められます。どこから?誰から?”ファシリテーター”です。
 ”ファシリテーター”がそう促している、「促す」よりも「求める」のかも、「強いる」と言い換えられなくもないです。

 考えてみましょう。

 向かいあって座らされた集団、それぞれが大小さまざまなタイコと鳴りモノを手にしています。「さぁ!自由に!思うがままに!感じるままに!」と言われても・・・目は泳ぎ、周りを伺い、恐る恐る未知の物体にさわる・・・

 なにをしていいか(なにをしたらいけないのか)がわからない。みんなもわからなそう。なんか先生っぽい”ファシリテーター”って人は何にも教えてくれずに、ただただ笑顔で・・・

 『人』は本質的に「(誰かに)導いてもらいたいモノ」なんでしょうか?「寄り添っていたいモノ」なんでしょうか?
 導いてもらう?ドコへ?寄り添っていたい?ナニに?
 ドコ?ナニ?・・・

 ココデボク(ワタシ)ハ、ナニヲシタライイノ?

 ”ファシリテーター”は、参加者を迷わせないように、孤独を感じさせないように、上の問いに対する答えを(いくつか)提示します。その人に最もふさわしいと思われる答えを。

 すでに音を出せている人には、
 「それでいいんだよ・・・」
 「そのまま続けて・・・」
 「(叩きっぷりを)みんなに見せてあげよう・・・」

 困っている人には、
 「(やって見せて)こう叩いてみよう・・・」
 「あの人のマネをしてごらん・・・」
 「手を止めて耳をすましてみよう・・・」
 
 
 実は、書きたかったことは「ファシリテートされたドラムサークルとドラムレッスンの違い〜その実例」として、長野市と上越市でそれぞれ展開されている「ドラムサークル」という名の似て非なる活動を紹介したかったのですが、結果的に前々回のつづきとなる内容になりました。そのお話はまたいずれ。

 拙文、駄文、お読みいただきありがとうございました。

塩津知広 TOMOHIRO SHIOTSU 1965年福岡県北九州市門司区生まれ 長野県長野市在住 音楽講師 
1990~音楽教室講師として活動開始
2006年~「ドラムサークルながの」発足
drumcirclenagano@gmail.com
ドラムサークルながの