長編叙事詩 異議あり

文 / 備仲臣道

  プロローグ
 私たちはみんな
 青い空が好きだ
 あくまで明るい青い空を
 かつて自由を圧殺した黒い雲が
 隙をうかがって見ている。

 私たちは誰でも
 そよ風が好きだ
 林の中や坂の上で
 髪をからかう風が好きだ
 その風を炎に変えようと
 隙をうかがっているやつがいる。

 私たちは誰でも
 茶の間の暖かい灯が好きだ
 和やかな仲のいい仲間や
 語り合い肩を組む家族がいる
 そこへ統制の暗幕を
 つるそうとしている者がいる。

 私たちが心の中に持つ
 青い空やそよ風や
 茶の間の暖かい灯を
 奪い去って炎に投げ込むたくらみがある。

 ああ、戦争という黒い雲
 だが、しかし
 私たちは黙って殺されたりはしない
 いつか来た道へ
 黙って引きずられはしない。

 かつては小さな力だったけれど
 私たちは抵抗の伝統を持っている
 私たちは黙って殺されたり
 隣国の人々を殺したりはしない。
 殺される悲しみも
 人を殺す悲しみも
 拒否するためにいま
 はっきりと異議を申し立てる。

  第一章
 一八七二・明治五年十一月
 太政官は高らかに宣言した
 明治新政府の驕りに火照った赤い顔で
 〔ナンジラハ スベテ テンノウノ ヘイシデアル〕
「徴兵告諭」は誇らかにこう言った

  我(ワガ)朝(チョウ)上古ノ制海内ヲ舉ゲテ兵ナラザルハナシ
  有事ノ日天子之ガ元帥トナリ
  丁壯兵役ニ堪エルモノヲ募リ以テ不服ヲ征ス
  役ヲ解キ家ニ歸レバ農タリ工タリ又商價タリ

人の血で国に報いる
血税という日本民衆の困苦は
このときにはじまった。
 
ほんとうに上古の制、兵ならざるはなかったのか
民衆は喜んで従っていたのか
 
  今日よりは かへりみなくて 大君の
       醜(しこ)の御楯と 出立つ吾は

 昭和になって政府は盛んに宣伝したけれど
民衆を戦争へ駆り立てるために
 万葉の人びとの歌から
 勇ましい歌だけを聞かせていたのである。
 だが、
 万葉の民衆は泣いていた
 抵抗できない黒い涙を流して。

  防人に 立ちし朝けの 金門出に 
       手放れを惜しみ 泣きし児らはも

  蘆垣の 隈所(くまど)に立ちて 吾(あぎ)妹子(もこ)が
       袖もしほほに 泣きしぞ思はゆ

  筑波嶺の さ百合の花の 夜床にも
       愛(かな)しけ妹ぞ 晝もかなしけ

  韓衣 裾に取りつき 泣く子らを
       置きてぞ來のや 母(おも)なしにして

 子どもはいつまでも手を離さない
 妻は袖が濡れるほどに泣き続け
 夫は妻のいとしさが忘れられるものではない
 母のない子さえも置いてきたのである。

 防人たちは暗い涙を背負って
 藁の沓で痛い足を引きずり
 西へ西へと運んだ
 〔クツハケワガセ〕
民衆のこの悲しみを
 思ってみない権力者の非情は
 それはもう人間のものではない。

  第二章
一八九四・明治二十七年七月
足の速い黒い雲が
東アジアの空に流れて
鶏(とり)の林を暗く覆い
日清戦争ははじまった
 豊島(プンド)沖の清国艦船を奇襲し
 これに次ぐ朝鮮・成歓(ソンファン)の戦いで
 死んでも口からラッパを放さなかったと
 一人のラッパ手がたたえられた。
 その兵士白神源次郎は
 のちに木口小平と訂正された
 白神はラッパ手ではなく溺死していたのである。
 やがて国定教科書から
 白神は消えて木口に代わった
 教師用の修身教科書には
 誰にてもよろし──と記されていた
 国民の戦意をあおるための
 政府と軍のでっち上げのすさまじさ。

 軍歌と錦絵に排外思想を盛り込んで
 権力者の操る情報は
 民衆にどす黒い病を蔓延させた
 
まっまっ満州騎兵を生け捕って
  てってっ帝国万歳大勝利
  りっりっ李鴻章のはげあたま

 いまも変わらない
 権力者のこのやり口
 私たちはいま
 まなざしさえも研ぎ澄まし
 耳さえも鍛えねばならない
 口は拒絶するためにこそある。

  第三章
 一九〇五・明治三十八年
 日露戦争、旅順の死闘が止んだとき
 霧のように立ち込めた静けさを破って
ロシア軍の塹壕から兵たちがはい出し
 みんなで輪になって踊っては
 戦争の終結を喜んだ。
 〔負けたのは俺たちじゃない。ロシア皇帝だ〕
 日本の兵士もそこへ駆け寄り
 手を取り肩を抱き寄せて喜びを分かった。
 「兄弟」と叫んだ者があった
 さっきまでにらみ合っていた両軍の兵は
 労働者や農民の出身で
 戦場へは強いられてきていたのである。
 
いつ止むとも知れない激戦の中で
 彼らは上官や国家への呪詛を繰り返し
 ふっと敵弾の止む間には
 同じ立場の敵兵のことを思ったであろう
 戦場で学ぶものは
 人の殺しかたと限ったものではない
 時に垣間見た憎めない風貌の敵の兵
 なぜ民衆同士が殺し合わねばならないのか
 その仕組みに気づいたことだってあるだろう
 〔俺たちは銃口を向ける先が違うのではないか〕
 
ここに至って両軍の兵士は
 はじめて人間らしい生きかたと出会った
 人間の尊厳が
 日露の兵士を抱擁させた瞬間であった。

 敵対する国家の利害を
 民衆の利害にすり替えて
 権力者は戦争に駆り立てる
 支配される者同士の連帯こそが
 戦争を阻止する力となるだろう。

 こののちロシアの民衆は
 皇帝の背後で火の手を上げた
 労働者はストライキを暴動に発展させ
 農民は貴族の領地を荒らしまくった
 ついに辣腕の侵略国家ロシアも
 東アジアの小僧っ子に膝を屈した。

  第四章
 一九一四・大正三年
 内田百饟二十五歳
 この年、東京帝大を出た彼は
 猶予の期限が切れて徴兵検査を受けた
 家では祖母がお灯明を上げて
 ひたすら孫の不合格を祈った
 心臓に疾患のある彼は不合格で帰ってきた。
 
やがて陸軍士官学校のドイツ語教官となり
軍の食べ残しにあずかる身分を
堂鳩の悲哀と恥じた
神社の堂鳩は
軍馬の糞に混じる未消化の麦をついばんでいた。

文学報国会非加盟
陸軍報道班員をも逃れ
首都東京の終末を見届けて
『東京燒盡』を著(あらわ)した。
権力者が仕組んだものを嫌い
民衆が監視し合う視線を賤しんだ。

お隣の軍需大臣官邸では
防空頭巾をかぶせた芸者を呼んで
暗幕を張った部屋の中で
昼間から高歌放吟の大宴会であった
百饟は好きな麦酒が手に入らない。
〔ホンジツムシュナリ〕

あの日、祖母が上げたお灯明は
日本の民衆のすべてが
心中ひそかに上げていたものであった
その光りで息子や孫の闇路に
生きる道を照らそうとしたに違いない。

  第五章
一九三八・昭和十三年
五月十四日の中国戦線
徐州作戦のさなかに
新潟県柏崎の人北川省吾は
左胸を射抜かれて死んだ
二十三歳。

  〔戦争はいけない事だ。しかしいまかうして
  戦ひ合つている人々の中には、一人もいけな
  い人は居やしない。唯だ戦争だけがいけない
  事なのだ。〕

甥への手紙に、こう書いた北川は
前年の十月に召集された一等兵であった
京都大学で哲学を聴講していた彼は
憎い敵兵を殺して
平和を呼びもどしたい
そう決意してやってきたのに
憎い敵兵は一人もいないと知った。
中国兵の死体もたくさん見た
若い捕虜も敗残兵も見た
徴発に出たときには酒や飴でもてなされ
 代わりに自分のものを置いてきた。
塹壕から顔を出して
中国側の塹壕へ煙草を投げたい
彼らはにこにこして手を出すに違いない
一緒に煙を吐いたらうまいだろう
そんな衝動にもたびたび駆られた
ある日、彼は決意した。
〔敵に向かって一発も打たない〕

しかし
弾丸は彼の決意など知らない
敵を殺すほかに
意思を持たないから
闇雲に飛んできては
ついに彼の胸を貫いた。
彼が死んで五日ののち
徐州は日本の手に落ちた。

宣戦布告なしにはじまったこの戦争は
激しい抵抗に直面して泥沼にはまり
やがて米英の利害と対立して
太平洋戦争
醜い植民地再分割戦争の道へ
破滅の坂を転がっていった。

 第六章
一九四二・昭和十七年
中華民国三十一年六月七日
中支派遣軍報道部員岩井五郎は
敵の兵士をモーゼル自動拳銃で射殺した。
彼は「重慶軍無名兵士に」という詩に
それをつぎのように書いている。

 じっと
  僕は
  君の眼を視た。

 君も濡れて立ち。
  僕も濡れて立ち。

 君と僕の
  距離は
  耳の鳴る
  真空。

 モオゼルは鳴り。

 君の若い血は
  燃え噴いて
  城壁に
  ながれた。

 いま。
  さらに僕は
  君の血を踏み
  新しい道に赴かねばならないが。

 君の血の色を
  たしかに、おぼえていよう。
  何時の日か
  かならず何時の日かに。

 君の出血がきれいな伝説になるような、
  うつくしい中国がもりあがってくる。
  巨きな中国がもりあがってくる。
  その日まで。

 中華民国三一年六月七日。僕は君を仆(たお)した。

人を殺してしまった悲しみ
名も知らない敵兵への悲しみ
忌まわしくいらだたしく 痛ましくいとおしい
詩にして鎮めてしまいたい死であった。
新しい中国へ
湧き上がる泉のような歴史のうねりを
心の中では共感しながらも
戦争という狂気に満ちた空間の
軍隊という理不尽な組織の中で
殺さねばならない状況に立たされてしまった
人の悲しみ
抑制されたいろんな悲しみが
血のように噴き出してここにある。

人間らしさを圧し拉ぐ
鉄の黒い組織が
万力で締め付けたように
人を殺人者の型にはめる
金色(こんじき)に輝く十六菊の紋章を戴いた
黒い鉄の組織が
人を殺させる。

その悲しみは
彼が死んでも
消えない。
一九四七年、彼は死んだ
人を殺した悲しみを
抱いて去った。

 第七章
一九四三・昭和十八年初夏
農民文学の作家山田多賀市三十六歳
彼は戸籍を消して
自分を殺した。
友人の医師をだまして
用紙を手に入れると
死亡診断書を自分で書いたのである。
〔死因肺結核、死亡の場所山梨県立病院〕
郷里の役場へ郵送すると
偽の主治医の印鑑をどぶ川へ捨てた。
〔死亡した人間のところへは、いかに天皇の軍
隊でも召集令状は発せられない。ブタ箱の中で、
ひそかに計画をめぐらせてきたのはこれである。〕

埋葬証明のない書類は保留されたが、
一九四五年七月に
甲府大空襲の日付で受理されて
山田多賀市の戸籍は消えた。
一九九〇年九月
八十二歳で生涯を閉じるまで
死んだ男として
身内に騒ぐ血の命じるままに
正しくたくましく猛々しく
四十余年をよく生きた。

一九〇七年の暮れ
長野県南安曇郡の貧しい農家に生まれて
子守奉公を手はじめに
大工や陶工の見習いにもなった
旅の瓦職人と一緒に歩くうち
山梨県北巨摩郡登美村に流れつき
瓦工場に拾われた。
兼業農家の工場主に代わって
農民組合の集会に出たのが
農民運動との出会いであった。
農民の子の野太い血が野火のようにたぎり
まっすぐな迷いの混じらないまなざしで
一途に意固地なまで命を燃やした
〔虐げられた者のために闘うのだ〕
流れ者の身が重宝されて
過激な闘争の場数を踏み
十八回の留置場ぐらし。

二十五歳のとき肺結核をわずらってから
運動の一線を退き
鶏を飼って暮らした。
〔遠からず死ぬ身なら、短かった自分の一生を書こう〕
字引を引き引き鉛筆をなめては書いた
渾身の一作「耕土」三百枚は同人誌「槐」に載り、
春陽堂から本になった
ついで、「生活の仁義」が芥川賞候補になる。

時代の流れは黒い雲になって
戦争一色に空を塗りこめていた
かつての活動家が召集されて
前線へ送り込まれた話をいくつか聞いた
長男の繁彦はまだよちよち歩きである
〔死ぬのはいましかない〕
迷わず書類を偽造して送った。

戦後は食糧増産の時流に乗って
農業技術雑誌を発行し
その利益で「農民文学」を世に出した
巨利をむさぼって
豪壮な屋敷に住んだのも夢の間で
労働争議が起き
攻撃ばかりしてきた身には
守りの手立てがわからないから
会社を投げ出して人にやった。

身代限りをしてからは
甲府の街中で間口一間の印刷屋を開いて
そこで余生を送ろうとしたのに
若い日からの血の昂りは
彼を放ってはおかない
あちこちの争議に首を突っ込んだ。

一九九〇年に死んだとき
戸籍訂正の裁判で生き返り
そうして、もう一度、
今度はほんとうに死んだ。

 エピローグ
私たちみんなが
風からかばい
雨にも当てずに
大事にしてきた灯を
権力者はいま勇ましげに
消そうとしている。

戦争というものは
敗れたときには学ぶもので
私たち日本人は
一九四五年に学んで
それを大事にしている。

若者の血の上に降った雨や
多くの名もない人たちが
歩きはじめたときを過ぎて
だてに握った拳ではなかったはずだが
風の前に枯葉が軽いように
迷いの曲がり角を間違えて
去ってしまった人たち
日本の民衆は
牙を抜かれ爪を剥がれた。

逆らう者をたたき伏せて
いま、
権力者はどす黒い野望を
ほしいままにしている。

さあ、みんな
花屋に花がある日に
財布が少しふくらんでいたなら
権力者たちに花を贈ろう
血の色をした赤い花にそえて
弔いの黒い花をこそ。

*参考文献
 白野夏雲注釈『徴兵告諭』二葉堂 紀元二千五百三十四年
 武田祐吉校註『萬葉集 上下』角川文庫 昭和三十年
 斎藤茂吉『万葉集 上下』岩波新書 一九三八年
 犬養孝『万葉のいぶき』PHP研究所 一九七五年
 西川宏『ラッパ手の最後』青木書店 一九八四年
 司馬遼太郎『坂の上の雲 五』文春文庫 一九九九年
 G・ヴァルテル著 橘西路訳『レーニン伝』角川文庫 昭和四十一年
 内田百饟「花のない祝宴」(『夜明けの稲妻』所収)三笠書房 一九六九年
 内田百饟『東京燒盡』講談社 一九五五年
 内田百饟『百鬼園戰後日記』小澤書店 一九八二年
 山村基毅『戦争拒否11人の日本人』晶文社 一九八七年
 高崎隆治編『無名兵士の詩集』太平出版社 一九七二年
 山田多賀市『雑草』東邦出版社 昭和四十六年

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp