文 / 町田哲也
日が暮れはじめ臑まで田に差し泥の滑りをようやく艶やかに感じ取って腰を伸ばした女は額に解れた髪を中指で耳の裏へ寄せ赤く膨れた輪郭の定かでない夕陽を細めた瞼の奥でわたしの魂に似ていると見やって弛緩を許し田植えの夢中で漏らしたかもしれなかった股に手を差し込んでやや濡れた陰部に嘗めて泥を落とした指先で深く触れ樹々の影が重長い闇を含み始めるのをみつめて吐息を漏らす。怠い迷いのような胸の内の塊を捻り潰すように赤ん坊の泣き声のする背後に半身をねじって振り返り股から抜いた指先をちゅっと音をだして嘗め泥から足を抜き、はりついた蛭を三つ同じ指先に泥を絡めてから剥ぎとった。
みつめるだけでなく触れても聴こえても余計を感じすぎるから拾ってしまうと膨張する意識を閉じるために瞼を伏せる俯きを爪先の石ころへ投じる工夫をはじめた二十歳前から、生まれつき肉親であっても人とは遠い呪われた鎧のようなカラダをしていると恨めしく思い悩む表情の幼子であったなと、屡々言葉にして振り返る癖が女にはある。罵倒や蔑みや陵辱に似た一方的な強要の様々な最中を生きるしかないようになってからも一過的な優しい言葉で包まれてもそれらを等しく受け止める投げ出したカラダを遠いところから俯瞰する魂の位置は変わらなかったから、血が流れても骨が折れても愛されても撫でられても次の朝には鉈で切断するかに平然ときっぱりと瞼を大きく見開いて過ぎ去ってしまったと目醒める自らの哀しいようなぽつねんとした心地というより白い砂の中のひとつきりの決して黒が滲み出ない炭片のような孤立の眺めが静かに広がるに任せることに慣れている。殊更に拒絶やら許諾やらをいちいち申し述べる以前に全て一度受け入れてしまう。カラダの隅々にそれらはただ単に広がってから燃え尽きるように果てて白い空白のようなものになる。なにものかに骨まで蝕まれたとしても魂は深い淵の底の籠に在るのよ。根拠はないが決然とした確信が空白の中にも消えずにあって、これはきっと共稼ぎの親に頼まれて、幼少から女の髪やら頬やら腕やら腹やら足やら指やらつまりカラダのすべてを終日撫でて孫を愛でた亡き祖母が、どうやったか密やかになにかを用意してカラダの中に入れてくれたのだと幾度か血脈を調べたが得心に至らなかった。
わたしたちは見合いだったから仲がいいのよと娘に対して他人の風情を隠さない家のことよりも仕事に感ける衒気の母に諭されて写真を受け取り、二十五の歳に地味で大人しい子供の匂いの残っているような寡黙な男と街で食事を一度しただけで男の住む隣村へと嫁ぎ、拙い初夜で子を孕み、産んで育てる時間、享受のカラダは貝殻のような利便なカタチとなり伏目の工夫をせずとも感応を閉じるように制御できたが、乳から子の唇が離れるとやはりまた再び朝の驟雨の肌を転がる水滴や濡れた草を踏み込んだ足裏やどうでもいい筈の物音などを吸い込む官能のカラダにすっかり戻り、そんな女の享楽を怖がるような夫は遠くへ幾日も家を空けて仕事にでかけるようになった。排出する言葉と排泄と身振りや代謝の激しい野良仕事であってもあらゆる事々を吸い込む敏感は相殺されない。感度の範囲と速度も拡張していく。女は祖母の皺だらけだがつくづく柔らかく温かい手のひらを浮かべつつ溜息を潰し、チッと老女のような崩し方でまだ瑞々しい唇を噛みながら鳴らすのだった。
子を置いて村の共同浴場を使ってカラダを温め洗う時、伏目の工夫の下弦の目つきが気に入らないと他の女たちは膨れた軀を遠ざけ寄り添って囁き合って余所者へ気軽な呑気な声もかけなくなり、もともと両親を早く亡くし出稼ぎに行ったきり戻らない夫はきっとあの目で殺めてどこかに埋めたに違いないと根拠のない出鱈目が簡単に風に乗った。女は庭の株の上に置かれた夫が使ったまま放置された鎌を眺めそうかもしれないわねと毎朝毎晩独り言ちる。排他の目の矢に射抜かれても女は平然と共同浴場を使う。カラダばかりしなやかに動く成熟を刻々と得て朝から夕まで子を育てよく働き倹しく食した。子と自分のふたりが喰うに困らない田畑があり、実家の両親の元へ駆け戻るつもりも女にはなかった。夜中に目が醒めると他人の所作が女のカラダの至る所に吹き出物のように顕われ、時に半身が戻らない夫となりあるいは知らぬ強靭な獣になり身悶える夜を過ごした。あるいはまた女の寝床に夜這する下卑た男らもいたが顔も名前も朝の女にはすっかり失せており、そんな小心な男ばかりの寄り合いの酒の席で戒めの言葉を低く耳元で交わしてあれはやめておけなどと二度目を繰り返さなかったし、女はそんなことでは容易く孕まなかった。
女が薪を集めるために山に入った森の高みから手の届く距離で鹿に見下ろされ獣の口元から「カワガキレルゾ」と風鈴のような言葉を聴き、帰り道獣が話したわけではないと繰り返し弁えながらもそのまま川の浅瀬の田に水を引く箇所に歩み寄って頷いた日からひとりでこしらえた土嚢を一ヶ月かかって並べ置いた。子供を含む村の男女から笑われ他愛のなかった季節の梅雨がほら明けたと思われた快晴の翌日の豪雨で老夫婦がふたり土砂に潰されて死んだけれどもこの土嚢が村の田や家を救い、村の長が酒と料理を女の家に持参して頭を下げた。女はこの時にはじめてひとりで酒を呑み意識を失うような深い眠りを得た。失くしものや妻の怠惰や夫の横暴や子の躾から赤子の命名まで最初は夜道を隠れるようにして女の家に人が訪れ相談を持ちかけるようになり、その中には一度湯の片側で揶揄と嫌悪を露にした女もいたが、訪れた者を突き潰すようにみつめる女の目玉と無頓着な短い言葉は適切且つ示唆に充ちていると静かに評判になる。金はいらない商売ではありませんと断っていたから米やら野菜やら酒やらを置いていくので使い回して女の暮らしの冬の寒さに耐えるなどの切迫感は消えた。
喰いモノをこしらえる日々をつづけつつ自分でも首を傾げるほどに享受の感応は日々益々艶やかに成熟し、その恩恵に預かろうとする輩も軒先に並ぶほどではなかったが絶えない。でも祖母のこしらえた籠はまだ蓋がされたまま魂をしっかりと捉えており、外へ広がるような享受の襞、感応の触手自体に自らの魂を乗せて運ぶことはできない。わたしは誰のものにもならない。わたしを理解するものなどいないと愚痴る満月の夜、一頭の馬が家の軒先に顕われる。手綱を持った見知らぬ男が脇に立っていたので内へ招き入れると男はこれに乗って海から来たと切り出し女の返事も聞かずに滔々と自分のことを話すのだった。いきなり男は女を抱きしめておまえと呟き女もあんたと応えて長々といつまでも口を吸い続け、軒先から覗き込むように伸びた馬首の濡れて輝く瞳が昏い闇の中ふたりの悶えの凝視を続けた。翌朝からその男は女の手伝いをはじめる。
「ふたりとなった子はいずれ海で育つことになる」
働く男を朝陽の中に眺めて女はしっかりとした口調で呟いた。
使い古され錆びて朽ちた鎌が草に絡まるように埋まって置かれてある株にヒトの眺めが落ちることはない。数千日も風と雨と雪と霰やらにも刃と枝を差し出すように晒して、時に木株より転が落ちたこともあったかもしれないが、なにものかによって元通りの場所に戻された。長大な時間を経ても累々と草木が纏わり付くことによってむしろヒトは遺される。貝殻の集積に柔らかなヒトの指先の動きが留まり削られた獣の骨に彼方への野心の気概が未だに張り付いている。西と東の交わらない里の縁をひとつの鷹の目が見つめおろしたことがある。
男は地面に踞り折った枝を支え合うように小さく組み立てて昼過ぎから夕方まで並べる。昨日の雨でそれまでのものは倒れて流され散乱し地にまみれていたがその上にその散らかりを「上手く」利用するような手つきで並べるのだったから、男の地面は踞って並べた時間が層になって模様をつくっている。酒に酔った夜には並べ置いた枝の上に小便を垂らし、別段この仕草を凍結させたいというような愛着はなかったので足で潰して働きに行くけれども、やはり時間ができると踞るのだった。枝を折ってできるカタチに添ってただ単に支え合わせて並べるだけだから小さな垣根のように列をつくることもあり小山のように積み重ねることもあり河のような流れにみえることもある。枝をつかった人の行為ではあったが、恣意の喪失した昆虫や動物の習癖痕のようにも眺められる。近親の者が幼少から早々に死に絶え最後の祖父が男の成人の日に息を引き取ったので、誰にも縋らずに飄々と暮らしを続けることができた。近所の者が日払いの仕事を紹介し手伝いを頼む程度と祖父が残した金で喰うものには困らなかった上、幼い頃から話が通じないという理由で爪弾きにされ友人もいなかったので、与えられる風な欲望がそもそも男には存在しない。祖父の山での炭火焼やら野良や畑仕事を亡くなるまで手伝っていたから地面に踞って枝を折ることを誰にも咎まれずに飽きもせずに男はつづけることができた。折られて小さく組み立てられ流され潰された枝の層から雑草が伸び草木の幼木ともなる。時に毟られ刈り取られた。男の家の庭は枝を並べ置く為に余計な樹々を根こそぎ払われていたので、ひたすらに平たく歩めば柔らかい不自然な自然の景となった。
町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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