アートと思考⑧ I am not a sex worker, much less an artist.

文・写真 / 服部洋介

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『I am not a sex worker, much less an artist.』より 2013

 2012年の冬、母校の図書館から機関誌への寄稿を依頼された。そこで私は、長野高校図書委員会にかつて存在していた図書館独立闘争なる地下活動や、『反応援練習新聞』への関与について書かせていただいたのですが(1)、おそらく、歴史的意義のなさと、原稿のナメた文体が顰蹙を買って、真剣に研究しようという人は、今後も出ないものと思はれる。唯一、まともなのは、GHQ長野軍政部教育課長W・A・ケリーによる焚書を糾弾した箇所なのだが、よく考えると、旧制長野中学の不要図書焼却(1946年2月23日)を命じたのがケリーだったのかどうか、ちょっといい加減なことを書いてしまいました、ごめんなさい。どういうことか?
 『長野高等学校八十年史』は、ケリーの突然の図書室視察があり、ヒトラーの『我が闘争』が見つかったのを契機に、大量の図書焼却に至ったと、林部幾多郎『文化班始末記』を引用して書いているが(2)、私自身、高校1年の時に機関誌の編集長として『図書館通史』を執筆した際、理研のおぼ氏みたいにこの記述をそのままパクってしまい(さらにケリーを軍政部長と誤っている)、また、誰から聞いたのか、皇国史観の書、神道書、古くなった図書なども焼却せられたと書いている(3)。なお、図書館は畏くも奉安殿をブッ潰して建造されたが、今ではそれも破却されて弓道場になっている。ともあれ、学校視察(School Inspection)といえばケリー、ケリーといえば横暴というイメージが、当時はあった。大日方悦夫『占領期における学校視察と長野軍政部』は、「長野市の県立高等学校では、軍国主義的内容の本が図書館で発見された」(4)としているが、情報源は『第78軍政中隊占領報告史』の46年2月21日条であるから、当該県立高校というのは、当時の長野中学かと思われる。当時の教育課長・コリンズ大尉は、熱心に軍国主義教育を進めていた後町小学校を視察して、かなり高圧的に焚書や教員粛清をやったらしいことが、後町の言い分として記録に残っている。こりゃ、長野中学もコリンズの仕業だな。ケリーには悪いことを書いてしまいました。彼が民間情報教育課長に着任したのは46年の9月。2月時点の課長はコリンズだった。日本全体で言えば、48年にGHQの民間検閲支隊が、禁止図書の「没収」(Confiscation)を文部省教育局に命じ、文部次官通達をもって全国の都道府県知事に実行させたわけだが、学校図書は対象外とされていた。すでにコリンズみたいな輩が焼き払ってるからね。笑えることに、当時は、GHQの検閲を受けた箇所をそのまま空白にして発行した新聞もあって、検閲局に「検閲してるってバレるだろ!」と怒られ、一筆を書かされた例もあった。
 ところで、『反応援練習新聞』とは何か。わが県民ならご存知の通り、「応援練習」ないし「応援歌練習」なる伝統行事ってのは、早い話が新入生に課される通過儀礼、つまりはしごきだね。その廃止を叫んだのが、『反応援練習新聞』なわけだ。当時の本校では、まだ教職員不介入の伝統が守られていて、生徒会顧問も立ち入りを禁じられ、救護班と一緒に北校舎一階で待機していた。失神者を保健室に搬送するためにですね。必ずいるわけだ、そういう人が。だが、問題とされたのは、むしろそこじゃなくて、たかが一應援團の私事を、どうして生徒会挙げて行なわなアカンのかという癒着構造であって、これは生徒大会でも糾弾された。応援歌の習得を目的とするなら、もっと民主的な方法があるだろうと指摘され、授業を何時間も潰しまくって生徒会執行部と反対派がやりあった。傍らで僕たちはトランプとカード麻雀に興じていたわけだけどもね。
 で、生徒会としては、「応援練習とはこういうもの」という、「形式すなわち目的かつ本質」というような答弁をしていた。この形式でないと「応援練習が伝えるべき何か」は伝わらないというわけだ。当然、この「何か」とは「何か?」というもっともな疑問があって、当時も議論されたのだが、執行部はあくまで陳述不能な「何か」で押し通した。そして、多くの生徒もそれを支持し、応援練習は命脈を保ったという次第である。当時の級友で、自称・社会主義者かつ夏休みの現代社会のレポートのテーマが北朝鮮研究だったヤノ氏でさえ、この「何か」説を支持、およそ唯物論者にふさわしからぬ形而上学に陥っていた(勿論、私も)。もっとも、クラス別練習で一番評価されたのは、数ある応援歌を一発で暗記できた霜やんだった。ブッシュのエネルギー政策下で潤沢な研究費を使えていた米国での研究員時代を経て、今はミネソタで保健省の役人をしているお方である。
 本校の応援練習は海軍兵学校の点呼形式で、とにかく一方的に、長期かつ大々的に挙行されることで有名で、よくテレビでも報道されていたから、ご存知の方も多いだろう。なんだかわからない「何か」のために、膨大なエネルギーが投じられた祝祭で、これを通じて、新入生は長高生としての帰属意識を強烈に植えつけられる、というわけだ。確かに、生徒会幹部になった人に動機を聞くと、「応援練習の時の常任幹事の姿に憧れて」という人が少なからずいた。かくして、共同体結束のためのバタイユ的「蕩尽」として機能していた応援練習だが、かつて図書館を拠点に刊行されていたと噂される『反応援練習』によると、「応援練習の際に、かわいい女子に手心を加えて、後に肉体関係をもった不埒な常任幹事がいた」云々という旨の告発記事もあった。「いや、それはただの他人の恋愛関係でしょ?」って気もするが、そんなことも槍玉に挙げて、生徒会を攻撃する過激派の新聞だったのである。読みたいでしょう? ちなみに、私の頃、校舎改築に際会し、全ての資料を新校舎へと移転させたわけだが、『反応援練習新聞』はどうしたのか、責任者のくせに記憶がない。その他、司書室のあたりからぞろぞろと「文化班」なる謎の団体の機関誌のようなものが出土し、これもどこへやったやら。調べてみると、文化班というのは、戦時体制に即して校友会を改組した長野中学報国団時代の文芸班の残党に起源する集まりで、「ケリー〔ママ〕の突然の視察」を受けて、生徒図書の整理と焼却に当たったことから、図書班をも兼ね、後に80名を擁した巨大組織だということがわかった。報国団時代の図書班は、学年の正副級長から構成されるエリートによる委員会のようなものだったから、彼らとは押し問答になったと林部が書いている。機関誌は『いづみ』といったが、新制高校発足後の文芸班は、『いづみ』の起源については知らず、文化班との関わりについても、全く関知していなかったようだ。その後も様々な機関誌を出しているが、1978年に『屋根がわら』が班誌として定着した。
 そののち、丸山書記長ことマルさんが班長となり、文芸班の源流である文化班が吹奏楽班にも匹敵する大所帯だったことを知り、以後、文化班再興を掲げ、日夜、書きものに邁進していたわけだが、文芸班は班員不足で同好会に格下げ、さらにクラブ委員会との折衝に失敗して、ついに廃部となり、班室立ち退きを迫られるに至ったのである。籠城、徹底抗戦を叫ぶ丸山書記長だったが、生徒会に不意を突かれ、同意もへったくれもないままに、ガサを打たれ、テレビ、数学の問題集まで押収され、完全滅亡に追い込まれた。いや、そこまでやるとは、わが後輩ながら、おっかないな、クラブ委員会。そういうわけで、文芸班残党により、生徒会転覆計画というのが練られていた。ほとんど後南朝政権である。
 さて、そのマル氏だが、仏文専攻だけあって、本稿にも出てくるバタイユなんかも得意で、『眼球譚』だの『エロティシズム』だのを論じていた。のちに、氏は「白虎社」出身の今貂子の舞踏ワークショップに入門、SMチックな衣装を着た今さんの上着を脱がせるだけの役として公演にも出ていたが、あれは傑作だった。その後、今度は長野で霜田誠司氏のニパフに入信、何もしない全裸パフォーマンスで異彩を放っていたらしい。彼が失踪した今となってみれば貴重すぎる公演である。保健省の霜やんは、帰国のたびにマル氏の実家を訪ねるのが習慣で、いつも一緒に行ってはみるのだが、一度も会えたことはない。引っ越したのか? それとも警戒して出てこないのか? 「ニパフの人によく聞いといてくれ」と、霜やんからは言われているのだが、ニパフの方も辞めちゃったらしい。
 彼の公演について記した貴重なwebサイトが「ニパフ05体験記」だ。誰が書いたか知らんが、やたら面白い。曰く「マルシン〔マル氏のこと〕は舞台に上がって、観客席に近寄ってきたかと思ったら、口パクで何かを訴えており。素人の読唇術では解読できない程度のことをパクパク(謎)しており。(…)気が付いたら、マルシン、やっぱり全裸に。(…)今年あたり、そろそろ勃起させやがるんじゃないかと勘ぐっていましたが、今回はまだ辛うじて下向きでした。(…)マルシン、後半ははぁはぁと変な息遣いをしたりして、でもちんぼうは下向き。何か声を出していたような気もしますが、忘却。聞いた話では、何かを持ち上げるようなひねるような動作があったそうな」(5)。このマルシンの行為の核心にある「何か」は、ちょっとよくわからない。こんなんで『現代アート事典』に載ったり、ベッシー賞(2000年)をもらっちゃって大丈夫なのか、霜田(敬称略)!!
 マルシンはその後、同じくパフォーマンス系のイベント「小東亜共栄軒’08」に出演、参加者の中には、マリーナ・アブラモヴィッチに師事した段英梅もいた。やっぱり裸になって、乳とか揉ませていた(さすが弟子)。「I am not an artist. I am a sex worker」で有名な川端希満子も出ていた(『IN「毛」サラサラ』でマル氏と共演)。肝心のマル氏は、『野をゆく子供』ほか自作詩4篇をスーツ姿で朗読、コンセプトは「自分と対話する時間をもつために詩が必要だ」(6)。あれ、裸は? 脱ぐのはやめたのか? そのへんは未確認だが、確かに彼は、高校時代からマラルメに傾倒し、象徴詩をものしていたから、別段おどろくことではない。ニパフの頃には、チベット仏教を研究しているというような言説がパンフに載っていたこともある。いずれにしても、本人に話を聞かないとサッパリわからん。氏の文学的宇宙観というのは、自分の理想とする世界を、知りうるあらゆるものを組み合わせて創作しようというもので、曰く「だから実際に知識がないとどうしようもない」(7)。高校時代、彼は「詩人があるものを見て感動したとして、それにいかに感動したかということを歌い上げてもつまらない。人を感動させたいなら、自分が感動したものを描写してやらないといけない」という趣旨のことを言っている(8)。「オリジナリティってのは別になくてもいいんだ」「自分でなんか書きたいというよりさ、いいものを作りたいとしか思ってない」「自分の書きたいものを書き散らしてというよりは、作品の方を重要視する」(9)とも言っている。先行する似たような作品があれば、それに近づけて自身の完成度を高める――そのへんは、かなり徹底していた。となると、一時の全裸衝動も、チベットも、今貂子と中沢新一(愛読していたらしい)をトレースしていたにすぎない(そこにちょっとだけYOSHIKI「NUDE」の影響)、ということなのだろうか。この意図的な反復をまさに意図的に実行したのが、アブラモヴィッチの『Seven Easy Pieces』(2005)だ。その中にはアコンチの『seedbed』(苗床)も含まれている。さぞかし面白かったろうと思われるので、誰かやってみるといいでしょう。
 すでにあるものを反復、複製するとはどういうことか。それは自ずから差異を生じるとはいえ、人からすれば「つまりはパクリでしょ?」という話になる。もっとも、80年代以降の現代アートってのは、シミュラクルに特化しているので、パクリのくせにネタ元とはおよそ無関係な「オリジナルのないコピー」を作り出すことに執念を燃やしていた。アートの文法としてのこの「無意味さ」について、越ちひろはこんなことを言っている。「以前は、響きのよい言葉から絵を発想していました。言葉を物語化して、自分の中でストーリーを作っていた。『Birthday』以後も日記から絵を描いてきた。作品をいかに日常化するかを考えていた。今思うと、絵が他人と交わらなくなった。独りよがりになっていた。ある程度、感情を抜く。もっと意味がないもの。モチーフに対して感情移入しなくなったところはある。形の面白さ、視覚的なもの――そのもの本来の意味は必要とせず、形の面白さだけを追う。大学1~2年から、今に続く「意味のなさ」」「モノの意味をそのまま表現するのを捨てて、それを人がどう捉えるか? たくさんの意味を絵に持たせる。そのことで逆に絵の中にいろんなものを閉じ込められるのではないか」「(他人の絵や写真を写す時)それを私がどう捉えて提出するか。正確に捉えたものではなく、「変わる」。新しいものになる。私らしく追う」「視界に入ってくるものを全て形として捉えている。すでに誰かが描いたもの、自然の物の間に区別はない」(10)。というわけで、パクリだインチキだと非難されてこそ「無意味」だったものが、しっかりと芸術上の作法として定着しているのである。しかし、パクリだとわかってもらえないとアートたりえないところに注意が必要だ。むしろ贋作というのは「意味」であり「価値」を志向するので、パクリとわからないほど精巧にできているという次第である。
 「新化された形」に傾斜して「オリジナルの内容」を捨てる越さんの「無意味化」(形而上学化)による秘儀の源流を辿ると、ユダヤ思想に革命を起こしたカバラの師家アブラハム・ベン・サムエル・アブラフィア(1240~after 1291)という人物がいる。ヘブライ文字を置換するツェルフと呼ばれる観想法の達人として知られる彼の流儀はこうだ。まず聖書の一句に集中し、論理的な意味を喪失するまで朗誦する。すると、失見当のさなか、突如「意味を超えた意味」が稲妻のように閃くというのである(11)。文字の配列の変換、新しい語句の創出、特殊な姿勢、呼吸、言霊の組み合わせにより、彼は「無なる神」(AYIN SOF)と合一する。彼は観照に先立つ知的な作業を一切禁じ、トーラーの知的理解すら否定した。書かれたものの内容から隔絶し、そこには書かれていない秘義や預言を引き出す――脱構築もいいとこである。
 さて、この文字置換法のカリスマは、ついにはローマ教皇を改宗させるべく決起、カトリック権力により火刑台送りと定められながらも、教皇の頓死によって生還するという離れ業を演じ、その著作によってキリスト教世界にも絶大な影響を与えた。彼はカバラの冥想技術を世に公開、つまりは民主化してしまったわけだが、後世の者どもはそれを再び隠蔽しようとする。「無意味化」され、水平化されたはずの〈神の御名〉は、再び一部の者たちの特権として秘匿されるようになった。隠すも何も、トーラーさえ知的に読まない人たちのしたことに、もともと論理的な意味なんかないわけです。すべて直観なんだから。そうしたものを抑圧して、公式見解じみた定式に差異を回収させようとする権力的な試みがある一方で、無意味なものを意味ありげなものに仕立てるもう一つの作用が、受け手の「思い込み」だ。今日のアートは、これを利用して成り立っているとボードリヤールあたりは指摘している。すると、宮台真司がいう村上隆作品の「社会的文脈の無関連化機能」(12)というやつも、今となっては無意味の上塗りで、村上流のマーケティングは、この「無関連性」自体がニーズ化していることを察知し、結果、村上作品はアートのルールにおけるハイコンテクストな「無意味さ」に則って作られているというわけだ。もちろん、何度も書いているように、無意味は成就不能な理念であり、誰かに見出された瞬間に、それは意味へと変わる。避けられないことを云々しても仕方がない。要は、それがわれわれにとって損か得か、好都合か不都合かというのが現実の問題だ。無論、それは人の立場ごとに違うわけで、自分が損を被ってるとも知らずに、感情にまかせてアートだのなんだのを崇め奉っていてはしょうもないので、研究が必要だ。
 アートはわからん人にはサッパリわからない。芸術家に聞いても「見る人が見ればわかる」で終わる。しかし、いろんな人が見て、最終的にマネーという結果がついて、収まるモノが収まるところ(美術館)に収まるんだから、この過程は民主的だというのが村上隆の主張である。現代アートの価値は、選好の充足により、純粋に経済学的基準から決定されているというわけである。意外なことに、この主張はかのデュシャンも認めるところで、アートが画商などを介して流通の過程に乗ることは、彼にとってまったく民主的な事態なのである。ここで、「民主的」なる語イコール「カネ」という図式が浮上する。戦国期に来日したザビエルの書簡を読むと、「日本では、貧乏な侍が富豪と同様に敬われている」と驚いているが、これも家柄や門地という神秘的な価値がモノをいう時代だからこそだ。が、デュシャンは言っている。「残念ながら、ことアートに関しては民主的たりえず、秘教的たるべし」と。彼にとっては、アートってのは商業じゃないんだね。王侯とか教会とか、一部の特権階級が無意味なもの、つまり形而上学に蕩尽するのが芸術なわけで、単にインパクトがあって売れて利殖にも好適ならいいってもんじゃないわけだ。一方で、彼は形而上学に言及することを極度に嫌っていた。なので、「自分のしてることがサッパリわからん」とアート自体の理解不能性を強調していた(マル氏もニパフでそう言っていた)。ンなモンに金なんか払って大丈夫なのか? ただの実用物(便器)の値打ちはたかが知れているが、便器のシミュラクル(『泉』)となればレプリカでも時価4億円。日本人のほとんどからすれば、そもそも『泉』に関する知識など皆無。なんで価値があるのかも謎。一部の人の選好(悪意ある選好、偽装された選好である可能性もある)が大多数の人の了解を圧倒するシステムがあるわけだ。彼もそのへんを弁えていて、アートに法外な大金が動くことを警戒していた節がある。あくまでも、余剰をもって個人の秘教を庇護すること――無意味なものに金を払えるのは金持ちだけだからである! なわけで、これってのは、ほとんど芸術しかできない人たちの雇用対策なのである。なので、庶民がこの無意味さを理解するために金を払わなイカンなんてことはあってはならない。
 結局、デュシャンは〈沈黙〉を選んだ。なぜか? この形而上学的「何か」を現に語ること、つまり意味や価値に置き換えることの危険性を察知していたからだ。アブラフィアのような扇動的預言者があらわれ、大規模な蕩尽を始めたらえらいことになる。「人はパンのみに生くるにあらず」というが、「じゃあ、何だ!?」といった時、イエスの言葉は「神より出る全ての言葉による」と続いている。この「神意」に代表されるような目には見えない「何か」が、まさに道徳的実践のうちに顕現しているのがわが国体であるという超ユニークな主張が戦前にはあった。また次回。

(*1)『ソフィア 50号』,ソフィア編集委員会〔編〕,長野高校図書委員会,2013,p.10
(*2)『長野高校八十年史』,長野高校八十年史刊行会〔編〕,長野高等学校同窓会,1980,p.521
(*3)おそらく、本校OBの長谷川元氏の証言による。『ソフィア 30号』,ソフィア編集委員会〔編〕,長野高校図書委員会,1993,p.10
(*4)『長野県短期大学紀要 第54号』所収、大日方悦夫「占領期における学校視察と長野軍政部」 ,1999,p.86
(*5) web,http://www23.big.or.jp/~pepsi/nipaf/nipaf050307.shtml
(*6)web,http://aetta.blog62.fc2.com/blog-entry-62.html#丸山真/記録vol.1
(*7)(*9)『FF NEWS芸術対論2』所収「二つの個性」,服部洋介〔編〕,1997,p.2-3
(*8)『FF NEWS芸術対論』所収「踏まれて強くなる麦」,服部洋介〔編〕,1997,p.5
(*10) 2012年12月4日。筆者との対話。モスバーガー長野SBC前店にて。
(*11) 『カバラーの世界』,Perle Epstein〔著〕,松田和也〔訳〕,青土社,1995,p.115-116
(*12) 『空想 皇居美術館』,彦坂尚嘉,五十嵐太郎,新堀学〔編〕,朝日新聞出版,2010,p.188-189

服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14