文 / 丸山玄太
伸ばした腕の先さえ霞むような霧の中を、足下に伸びるレールを確かめながら歩いていた。時折、僅かな振動が足に伝わる。屈んでみるとレールは酷く錆びており廃線かとも思われたが、耳を当てると鼓動のような緩やかな音が響いている。しかし近づいてくる気配は一向になかった。再び歩き出したが、どこへ向かっているのかも、線路を外れた場所に何があるのかも、歩いている理由さえわからなかった。そのうち列車が現れることのみを求めだす。線路から外れることもなく、レールに沿って歩きながら。目の前に列車を認めると同時に轢かれるだろう、と思いながら。
見慣れた天井に知らぬ間に出来たシミを暫く見ていた。隣で寝ている妻の顔が前世の記憶の底を辿るほどに遠い。他人の生活を見ているような感覚の中、いつもと変わらぬ朝を過ごした。思惟も行為も失われていた。習慣に連れられるように家を出て、電車を乗り継ぎ、勤務先へと続くなだらかだが長い坂を前にして足が竦む。確かめていたはずのレールはいつの間にか消えていた。波間に浮かぶビニール袋のように人波の中で同じ場所を漂いながら、斜面にアイゼンを打ち込むかのように地面に黒いヒールが打ち込まれる様子を目が追う。あのような歩き方もあるか、と思ってみても足は動かない。もしくは医者のメスか。患者の身体に迷いなくメスを差し込むように、地面へ差し込まれるヒール。その度の漏れる患者の呻き。その迷いの無い行為。経験による行為。波が速さを増す。歩行者用信号が点滅していた。携帯電話に目を落としながら小走りに彼岸へと渡ったビジネスマンが、週刊誌に目を落としていた作業着を着た男とぶつかり、よろけた作業着の男の脇から紙袋が滑り落ちた。それは走馬灯を思うような速度で落ち、落ち、落ち、最後にガンと大きな音を立てて崩れた。紙袋から金属製の弁当箱が飛び出し歩道に口を開ける。ビジネスマンは一瞥しただけでそのまま坂を登っていった。作業着の男は広がった弁当を素早く拾い上げて紙袋に詰め、立ち上がると再び週刊誌に目を落とす。一分と経たぬうちに元の光景に戻る。ただひとつ、プチトマトだけが時を進めていた。弁当箱から飛び出たプチトマトは往来するタイヤを避け、横断歩道のちょうど中央まで転がり白線の上で静止した。車列はなかなか途切れなかったが、轢かれることなく留まり続けた。殆ど永遠とも思われた時間の中にダンプカーが飛び込んできてプチトマトを潰す。信号が変わり横断を始めた歩行者の靴の裏で、プチトマトはすり潰され、拡散し、消えていった。それが酷く恐ろしいことのように、私には思われた。
丸山玄太 1982年長野市生まれ 東京在住 クリエイター
undergarden主催
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