いばるな物語 補遺

文・写真 / 北澤一伯

作品タイトル:いばるな物語 終章 制作年:2013年7月 素材:鉄板1200×900×4.5mm  石膏水 照明ライト  場所:長野県伊那北高等学校薫ヶ丘会館

作品タイトル:いばるな物語 終章
制作年:2013年7月
素材:鉄板1200×900×4.5mm  石膏水 照明ライト 
場所:長野県伊那北高等学校薫ヶ丘会館

 2000(平成12)年10月7日土曜日。
創立80周年記念薫が丘秀作美術展初日の夜。私は、親睦会二次会の酒席で、出品者のひとりから「いばるな」「いい気になるな」と言われた。言った人は、伊那の地では、人望もある人で、私の中学校の時の担任であった人である。そして、美術教員だった人。県展審査員と略歴に付記してある人。
 発端は、搬入時の私の態度に不愉快を感じたということなのだが、その夜、事情はさらに展開した。私の母に会うと言って車で私の家を訪問したその人は、長期にわたり、交流もなく、年賀状さえ返事をよこさない疎遠な関係であったにもかかわらず「師は私だ」と言いきり、私に土下座で非礼を謝罪させて、ついに私の師となった後、おおいに酒を飲み座敷の廊下から庭にむかって多量の立ち小便をして意気揚々と引きあげて行ったのである。
 母が泣いた。

 そして、3年後の2004(平成16)年2月。中学校同級会の解散時、その人は、私の身体を拳で打って、私に対し不敵に笑い、驚く私を尻目に帰宅していった。

 昨年、母は他界してしまい、両者の和解は回避され、すれ違ったまま現在に至っている。それは、大団円の決着が無いリアルな世界に生きているという実感でもある。そうしたことから、すでに、制作において詩人石原吉郎への共感とともに「しずかな敵」という奇妙な観念を持っていた私は、「非正義な味方」という不可解な言葉を考えるようになった。
 私が生家で体験した光景が太宰治「親友交歓」に酷似していることから、しきりに高橋源一郎の文芸時評の内容が思い出されるので、その箇所を引用してみたい。

『太宰治の名作数多くあるなかで、ぼくがもっとも好むものは、「斜陽」でも「おさん」でも「トカトントン」でも「女生徒」でも「お伽草紙」でも「右大臣実朝」でも「桜桃」でもなく「親友交歓」というあまり知られぬ作品である。
「昭和二十一年の九月のはじめに、私は、ある男の訪問を受けた。この事件は、ほとんど全く、ロマンチックではないし、また、いつこうに、ジャアナリスチックでも無いのであるが、しかし、私の胸に於いて、私の死ぬるまで消し難い痕跡を残すのではあるまいか、と思われる、そのような妙に、やりきれない事件なのである。事件。しかし、やっぱり、事件といっては大袈裟かもしれない。私は、或る男と二人で酒を飲み、別段、喧嘩もなく、そうして少なくとも外見に於いては和気藹々裡に別れたというだけの出来事なのである。
それでも、私にはどうしても、ゆるがせに出来ぬ重大事のような気がしてならぬのである」
 戦火で罹災し、津軽の生家に転がりこんでいた太宰の下を訪れたのは、小学校時代の同級生で「親友」と称するひとりの農民であった。確かにその顔に見覚えがなくはないが、印象などほとんどなく、どこが親友なのか太宰にはさっぱりわからない。だが、とにかく男が、「親友」であると主張しているのだから、そうなのだろうと家にあげたらさあたいへん。酒を呑ませろ、お前の嬶(かかあ)に酌をさせろ、配給の毛布をおれによこせ、と無礼のかぎりを尽くし、文学者おまえの作品はつまらねえぞと悪口雑言あびせかけ、酔っぱらったあげく太宰秘蔵のウィスキーを強奪して、男は堂々帰っていく。「けれども、まだまだこれでおしまひでは無かったのである。さらに有終の美一点が孵化された。まことに痛快とも、小気味よいとも言わんかた無い男であった。玄関まで彼を送って行き、いよいよわかれる時に彼は私の耳もとで烈しく、こう囁いた。『威張るな!』」
 この、「威張るな!」のひとことには、太宰という作家が文学に要求していたモラルのすべてが凝縮している。だが、どのようなモラルなのか。いったい、この「威張るな!」はだれかが、なんのために誰に向かっていったことばなのか。太宰が書いたものを素直に読むなら、これは、或る作家の下を訪れた傍若無人な男が調子にのって吐いた暴言である。太宰に悪いところは少しもない。因縁をつけ、ゆすりめいたことをしたあげく、捨てぜりふまで残す。むちゃくちゃだ。だが、太宰がそうは思わなかったことは冒頭の引用にある通り。それどころか、太宰は自分に向かってはきだされた「威張るな!」を甘んじて受けているようにみえる。いや、それが絶対的に正しいと信じてさえいるようにみえる。だが、それは富農出身のインテリたる太宰の貧農への原罪めいた感情の故ではない。
 もの書く人はそれだけで不正義であるーーー作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを書く。恋愛小説を書く。難解な詩を書く。だれそれの作品について壮大な論を書く。政治的社会的主張を書く。記事を書く。エッセーを書く。そして、文芸時評を書く。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを書くことにたずさわるようになって数十年。ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気づかざるをえなかったことはそのことだけである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いやもっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と書くことさえ、そう書く自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの書く人はそのことから決して逃れられぬのだ。
太宰を訪れた「親友」は、もの書かぬ人の代表であった。それは読者ということさえ意味していない。ものを読む人はすでに半ば、もの書く人の共犯であるからだ。もの書かぬ人は、もの書く人によって一方的に書かれるだけである。おまけにそれを読まないものだから、どんな風に書かれているのか知らぬ人である。もの書かぬ人はそのことを本能で知っているものだから、ひどく悲しくて、もの書く人の前に来て悪さをするのである。もの書く人である太宰はもの書かぬ人の全身を使っての抗議に、ただ頭を下げるだけである。もの書く人太宰は、もの書くことの「正義」という名の不正義を知る数少ない作家である。だから、もの書かぬ人の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)にも文句をいわない。文句をいわれないから、もの書かぬ人はいっそう惨めな気持ちになる。「馬鹿帰れ!」とか「お前は親友でもなんでもない!」とか、「ふざけるな!」とかいわれたなら、そのもの書かぬ人は、救われるのである。もの書く人が、単なるカッコつけの、正義面した、インチキくさい野郎であることが暴露され、そのことによってもの書かぬ人は安堵することができるからだ。だが、太宰はもの書かぬ人のいうことに唯唯諾諾と従うばかりである。そして、そのすべてを太宰が書くであろうことをもの書かぬ人も太宰も知っているのである。
 では、なにも書かねばいいのか。それでは、もの書かぬ人を拒んだことになる。では、書けばどうなるのか。それでは、もの書く人がもの書かぬ人に対して作家個人の「正義」をおしつけたことになる。どちらを選んでも、救いはないのか。いや、ひとつだけあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。
もの書く人ともの書かぬ人とは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵同士である。そして普段はそのことに気づかぬふりをしているのである。だが、「親友交歓」の中で、もの書く人ともの書かぬ人はそのことに徹底的に気づくのである。だから、もの書かぬ人は先に「威張るな!」といったのである。それは、「わかった」ということなのだ。「お前の立場を理解した」ということなのだ。「この溝は超えられぬ。だから、お前はいつまでもその不正義を行使するがいい。おれは、死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。そのことをもの書く人にいえるのは、もの書く人の敵だけである。「敵」だけが「親友」になれるのだ。
 ぼくたちは、その「敵」のことを、「他者」ということばで表現している。そして、その敵によせる思いを、「他者への想像力」と呼んでいる。おのれの「正義」しか主張できぬ不遜(ふそん)なもの書きの唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは、「威張るな!」のひとことである。最低のもの書きのひとりとして、ぼくはそのことを烈(はげ)しく願うのである。ーーー後半略。』 (朝日新聞1992年3月26日文芸時評『威張るな!』高橋源一郎)

 もの書く人と彫刻をつくる人の共通項は表現するという一点である。
私は、高橋の文章の「書く」を「造る」に置き換えて読んでみた。
 
『ーーー前半略ーーーもの「造る」人はそれだけで不正義であるーーー作家太宰治のモラルはこのことにつきている。ものを「造る」。恋愛小説を「造る」。難解な詩を「造る」。だれそれの作品について壮大な論を「造る」。政治的社会的主張を「造る」。記事を「造る」。エッセーを「造る」。そして、文芸時評を「造る」。どれもみな、その内実はいっしょである。見よう見まねで、ものを読みものを「造る」ことにたずさわるようになって数十年。ちんぴらのごとき作家のはしくれであるぼくがいやでも気ずかざるをえなかったことはそのことだけである。あったかもしれないしなかったかもしれないようなことを、あったと強弁することである。自分はこんなにいいやつである、もの知りであると喧伝することである。いやもっと正確にいうなら、自分は正しい、自分だけが正しいと主張することである。「私は間違っている」と「造る」ことさえ、そう「造る」自分の「正義」を主張することによって、きれいごとなのである。もの「造る」人はそのことから決して逃れられぬのだ。
ーーー 中略 ーーー
 では、なにも「造らねば」いいのか。それでは、もの「造らぬ」人を拒んだことになる。では、「造れば」どうなるのか。それでは、人がもの「造らぬ」人に対して作家個人の「正義」をおしつけたことになる。どちらを選んでも、救いはないのか。いや、ひとつだけあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。
もの「造る」人ともの「造らぬ」人とは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵同士である。そして普段はそのことに気づかぬふりをしているのである。だが、「親友交歓」の中で、もの「造る」人ともの「造らぬ」人はそのことに徹底的に気づくのである。だから、もの「造らぬ」人は先に「威張るな!」といったのである。それは、「わかった」ということなのだ。「お前の立場を理解した」ということなのだ。「この溝は超えられぬ。だから、お前はいつまでもその不正義を行使するがいい。おれは、死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」といっているのである。そのことをもの「造る」人にいえるのは、もの「造る」人の敵だけである。「敵」だけが「親友」になれるのだ。
 ぼくたちは、その「敵」のことを、「他者」ということばで表現している。そして、その敵によせる思いを、「他者への想像力」と呼んでいる。おのれの「正義」しか主張できぬ不遜(ふそん)なもの「造り」の唯一のモラルは「他者への想像力」である。だが、そのいいかたはすでにきれいごとであろう。必要なのは、「威張るな!」のひとことである。最低のもの「造り」のひとりとして、ぼくはそのことを烈(はげ)しく願うのである。ーーー 後半略。』

 今後、私たちに和解は無いと思われる。けれども、相手の敵として立つという救済はあるのだ。それが、「威張るな!」のひとことである。もの「造る」人はおのれにむかって「威張るな!」と言うのである。それは、やはり「わかった」ということなのだ。「自分の立場を理解した」ということなのだ。
「お前はいつまでもその不正義を行使するがいい。おれは、死ぬまで、お前のやることを見ているぞ」と敵は言う。そのことを、もの「造る」人にいえるのは、もの「造る」人の敵だけである。
 もの「造らぬ」人は、おのれを正義と言う。もの「造る」人は「威張るな!」と「造らぬ」他者に言わない。造る者自身が「不正義」なのだ。おそらく「非正義」でもあるのだろう。対峙が始まるや否や、その一方が自動的に正義ではなくなるような、そのような行動がまったく偶然であるかのような、ある種の日常性ともいうべきものの中に、私は生きている。そして、私を直接に彫刻思考へと駆り立てたものは、このような日常性であったということができる。

北澤一伯(きたざわ かずのり)
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。94年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。韓国、スペイン、ドイツ、スウェ-デン、ポーランド、アメリカ、で開催された展覧会企画に参加。
また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。その他「いばるな物語」連作、戦後の農村行政をモチーフにした「植林空間」など。現在継続しているプロジェクトに「池上晃事件補遺 刺客の風景」と、『くりかえし対立する世界で白い壁はくりかえしあらわれる「固有時と固有地」』(長野市松代大本営地下壕跡)がある。