ある日、森の中

文 / 丸山玄太

 雨の落ちる夜の森で男が倒れている。男は倒れたまま、ただ空を見ていた。そうする他に無く、そうしない理由も無かった。獣が時折男の近くの茂みを揺らしたが、透明な檻があるかのように決まったところでピタリと止まり視界には決して入ってはこない。しかし檻の際で獣は己の獣を一瞬放つ。男が反射的に身を固くすると、だが、次の瞬間には気配は消えている。男は自身が闖入者であり捕食対象であることを自覚していたが、生物同士の反射は意思とは無関係で、避けられるものではなかった。
 男は腹を擦った手を顔の前に翳すが、目には露ほども変わらない暗闇が映るだけで、輪郭さえ掴めなかった。だが、手は血に覆われていた。生暖かさと微かに鼻をつく匂いからそれは明らかだった。手に落ちた雨は血を内包しながら指先から顔に落ちる。頬を伝い地に落ちる。唇を伝い薄い鉄の味が舌を過ぎる。こうなることは分かっていた、と男は思った。だから避けることはできたはずだと。だが、分かっていた、などという根拠はどこにある?既に無い過去のどこを探せば見つかるのか男には分からなかった。今、森のなかで腹から血を流し雨を受けながら横たわっている。結局、起こったことしか起こりえない。起こって初めて、分かる。過去は現在の証明でしかなく、現在もまた過去の証明でしかない。未来は過去以上に無いのだから。避けられることなど何一つ無い。
 無造作に枝葉を広げた広葉樹が暗闇を深く塗りつぶす。支える力を失った腕が、肉体から切り離されるように地に落ち、男の目に鈍く仄かな明かりが浮かぶ。それは枝葉の重なりの糸ほどの隙間を縫って届いた漆黒の奥にある夜だった。風雨に揺れながらそれは明滅を繰り返す。所々に現れるそれらを星空でも見るように男は眺めた。それらは四季の空を無秩序に絶え間なく巡った。大凡、人の一生では巡れないだけの季節を巡ったあと、次第に男の視界は閉ざされ、弱い雨の音と虫の声だけが届くだけになった。
 葉先から落ちる雨水を思い浮かべた暫くあとに頬で水滴が砕けた。その余韻が消えた頃に次の水滴が落ちる。それは非常に緩やかな走馬灯だった。男自身の曖昧だが無垢な過去の連なりだった。頬でひとつひとつの過去が千々の言葉となって砕け、地に溶けていく。男の息遣いと同調するように、落ちてくる水滴も疎らになる。森は徐々に色を取り戻しつつあった。男の身体が源泉となった赤い水流が木々の間を奔る。茂みから緩慢に出てきた獣が男の身体に鼻を寄せた。

丸山玄太 1982年長野市生まれ 東京在住 クリエイター
undergarden主催
2013 8.24 sat – 9.9 mon / オブセオルタナティブ
2013年9月アリコ・ルージュトポス高地(丸山玄太展)
TOPOOS Highland Haricoit Rouge 2013
欧風家庭料理店「アリコ・ルージュ」
長野県飯綱町川上 2755 飯綱東高原 飯綱高原ゴルフコース前
phone 026-253-7551
営業時間12時~20時30分
休館・定休日 火曜
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http://toposnet.com
メノオト