代表作

文 / 備仲臣道

 わが師に当たる貘先生・須藤良清は、東京美術学校(現・東京藝術大学)の日本画科を川端賞をもらって卒業した、英才中の英才であった。卒業制作「浴後」は天井に届くような大作で、湯上がりの女性が描かれた画面から、さわやかな色香が匂いたつばかりの美しさであったが、学校のお買い上げとなって収蔵庫に入ることとなった。川端賞というのは最優秀ということであって、すでに将来の日本画壇に輝かしい足跡を残すだろうことが、半ば約束されたようなものであった。
 けれども、貘先生が七十四歳で急逝されたときに、「貘の会」の事務局長であった私は、先生の略歴を新聞各社に流さなければならない立場にあったから、代表作をどれにするのか迷って、弟さんの良徳先生に相談した。良徳先生は即座に「浴後」とおっしゃった。すなわち、輝かしい将来を約束されながらも、それ以後の貘先生は、画家としては鳴かず飛ばずの存在で生涯を終えたのである。
 大学の卒業制作が代表作ということは、しかし、弟子の誰もが冷静に認めていることであった。処女作がすでに完成されていて、それ以後の作品はみなヴァリエーションであるということは、あり得ないことではない。あり得ることではあるが、貘先生の場合はそれとは違った。
 わが師は美校卒業以来、中央画壇とはまったくの無縁で、高校の美術教師が下らないとは言わないけれど、山梨県の甲府という田舎町で、一介の美術教師として生涯を閉じた。素封家として知られる家の長男であったから、卒業後は帰って一家を背負わねばならないというしがらみもあったし、その間に戦争もあって、戦車に乗った彼はオルドス高原へもいったには違いない。だが、それらは多少の違いはあっても誰にだってあることだろうに、どうして、彼の才能が大きな光りを放つものとならなかったのか。才能を蝕んでしまったものはなんであったのか、私にははっきりと判っていながら、断定するための勇気というものがない。
 せめて、師の肩を持って弁明するならば、貘先生の才能は自身の作品の上で輝くことはなかったけれど、多くの英才を育てて美術界へ送り出したことにおいて群を抜いていたと言うべきであるか。かつての生徒たちが、いま日本中のあちこちで、画家として、あるいはデザイナーや設計者として、また、大学や高校の教師として活躍している数は百を下らない。東京藝大の教授や助教授や、愛知県立芸大、京都市立芸大の教授に上りつめた者もあれば、イタリアのヴィエンナーレで大賞を得たイラストレーターもあり、その作品の多くは、師を尻目にあちこちの美術館に収蔵されている。
 それらが、先生の生前、一月二日の誕生日には呼ばれなくてもどこからともなくやってきて、座敷を二つぶち抜いた部屋で、夜っぴて酒を酌み交わすのが毎年の習いになっていたことを見れば、貘先生がかつて彼らの青春時代に与えた教えと、影響の大きさを思い知るに違いない。
 しかしながら、東大へ何人入った、早稲田や慶応にはこんなに合格と、受験の成果のみに血道を上げている同僚たちは、毎年決まって東京藝大やいろんな美術学校へ教え子を送り込んでいる貘先生に対し、いささかの評価も敬意も与えはしなかった。伝え聞くところによると、学校という世界では、主要科目の担当でない教師は軽く見られるところがあって、冷遇された側としては面白くもない日々を、はすに構えて過ごすということもあるのだという。
 貘先生には別に世をすねてということはなかったけれど、言ってみれば持って生まれたものが放って置いてはくれなかったのである。ほどほどに気障で男前の先生は、良く女性におもてになったから、どこかの人妻やバーの女性と割りない仲になって、口さがない人たちに艶やかな噂の種を投げ与えたこともあったし、本来は教師が教えるべきではないことを手ほどきしたから、向こう岸へ踏み越してしまった美貌の女生徒もあったらしかった。これはあくまでも噂であるが、本人が流したのだと穿って言う弟子もあるような、そういう種類の話としておこう。したがって、世間一般が教師須藤良清に貼りつけたレッテルが、晴れがましいものであるわけがない。
 三十代の後半から四十歳になるころ、先生がしきりに悩んだらしかったことは、一年分の給料を前借してフランスへ渡ったことからも明らかであった。パリのアカデミー・グラン・ショミエールという研究所で、たちまちのうちにさらさらと描きあげてしまうムッシュ・バク・スドーのデッサンを見て、かの地の画学生たちは例外なく舌を巻いた。けれども、いつ見てさえも同じ所をがさごそしていると先生が見た画学生たちの絵が、いったん仕上がってみると、画面が発する力というものは、自分には及びもつかないものがあって、胸を突き上げてくるものは、俺はいままでなにをしてきたのだろうかという一点であった。心中穏やかではなかったはずである。
 帰国した貘先生は、もうこれからは日本画は古い──と口走るように言って、キャンバスに油絵具を塗りたくった。目は異様に鋭くなっていたけれど、半ばは抜け、残りは白髪となってしまった先生の頭こそは、彼のあせりを正直に表現していると見えた。
 そうやって、油絵に親しんだ時期を過ぎて、東京・銀座で開いた個展によっても中央からの評価芳しくなかった先生は、晩年に至って日本画に回帰した。しかし、その画面には、大学を出たころの作品に見られる、暖かい春の気のような色彩や、伸びやかな線の美しさは微塵もなく、いたずらにぎすぎすと油光りしているだけであった。
 夏の夜、いっとき暑気をなだめた雨のあとの暗い路上で、車にはねられた先生が、そのまま帰らぬ人となったとき、かつての生徒をはじめとする二千の人々が彼の死を悼んだ。
 それからほど経て、先生の遺作展が開かれることになって、代表作「浴後」の所在が問われた。東京藝大の収蔵庫にあるべきだったのに、そこを出た大作は、あるときを境にして所在がはっきりとしなくなっていた。
 一九四五年の日本の敗戦で、首都は占領軍の兵に満ちあふれていた。復員して久々に母校を訪れた貘先生に、東京美術学校の収蔵庫の管理人が、耳打ちしてこう言った。
「アメリカさんがしょっちゅう出入りしているから、この中の作品もどうなることやら判ったもんじゃあない。あんたのがあるなら、悪いこたあ言わない、いまのうちに持っていってしまいなさい」
 自分の作とはいえ、いったんは国庫のものとなった「浴後」ではあったが、貘先生はためらわなかった。作品は額から外され、筒に丸められて中央線に乗り、甲府の西の貘先生の生家に帰った。
 やがて、世の中が少しは落ち着いてから、その絵を額装してみたけれど、大き過ぎて家に置くことができない。少しばかり文芸の道に手を染めた友人がいて、甲府では名のある温泉旅館の支配人をしている。その人に預けられた「浴後」は、広い玄関の中央にある階段の踊り場で客を迎えることになって、やっと本来の光りを放ちはじめた。そのころ高校生だった私も、何度かそこで「浴後」を見ている。
 支配人が死んでのち、世の移り変わりの波に抗えず、旅館は大手の資本に身売りすることになり、たまには皇太子も泊まるような大ホテルに姿を変えた。それ以後「浴後」を見た者はいない。
 曲折の末、ホテルにあることまでは判りながらも、所有の関係が曖昧で、二の足を踏んでいるという話であった。オーナーの代理人という尊大無礼な男にやっとのことで話を通して、遺作展のために「浴後」を借りにいった私は、ホテルの隅の薄暗い倉庫の中で、往年の名作と久々の対面をした。「浴後」は、ぼろぼろの布にくるまれ、プラスチック製の銘々膳がびっしりと積み重ねられた奥の壁際に、埃をかぶって寝かされていた。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
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