文 / 松本直樹
ジョルジョ・ヴァザーリいわく油彩の祖たるヤン・ファン・エイク。そのあまりにも有名な絵画の構築プロセスといえば、白く明るい平滑な面(白亜地を施した木板[*1])へ薄く透明な絵具を幾層にも重ねていくというものである。
それまでヘゲモニーを握っていたフレスコ画には到底表現することできない艶やかな色と深淵な陰影を携えた画面は、当時の人々をさぞかし驚愕させたに違いない。しかし、媒材の存在しないフレスコ画と違い、樹脂性媒材で練られた油絵具がもたらす表現は、光沢のある画面(濡れ色)と、描かれたものの立体感と存在感を際立たせる繊細な陰影だけにとどまることはなかった。
例えば、明度の高い部分は、おおよそ下地の明るさに由来する。正面から侵入した光が透化性の絵具の層を通過し、下地の白さによって(まるでライトボックスを背にしたかの様に)折かえされ、突き上げる様に再び表面へと現れる。この時、光は画面の最下層から、透明な絵具層の織りなす色彩を一気に圧縮しながら、津波ごとく手前へと押し寄せて来る。
これは、建築の開口部に充てがわれた透明なガラス越しの光がもたらす「ステンドグラス」(先行し既に存在していた技術)的効果である(ただし単なる模倣ではなく、垂直に積層化された色彩の混色方法に加え、文字通り建築物の天井や壁にあらたに開口を穿つことなくそれを再現したことは、あまりにも革新的だ)。こうして得られた色調とコントラストがファン・エイクの絵にフレスコにはない「重厚さ」を与えている。
しかしながら時代を経るとともに、この生産プロセスはティツィアーノ・ヴェチェッリオをはじめとするヴェネツィア派によって覆されることとなった。ファン・エイクの積層構造からなる色彩(それを可能にする下地の段階で綿密に練られた ——ただし硬直した—— 構図も)は拒絶され、暗い赤褐色の有色下地へ、薄い絵具で大胆に、かつ躍動的に粗描され(あるいは画面上で何度も描き直され)る。
さらに、ファン・エイクにおいて繊細に構築された最上部の明るい部分は、不透明な絵具で厚く盛り上げ塗りたくられた(インパストされた)のだった。明るい下地から色彩による描写を進め、最終的に平滑な画面を作り上げたファン・エイクとは、ある意味、真逆のプロセスを踏んでいる。
彼らが、海運国家たるヴェネツィアにおいて身近で日常的な素材である帆布(麻布)を使ったこと、さらには木枠とそれとを組み合わせた、海辺裏の湿度変化にも耐えうる「通気性の良い構造体」(ファン・エイクが多用した木板は湿度で反り上がってしまう、継いだ板であればなおさらであった)を使用したことも記さなければならない。文字通りの外的環境に適したのはもちろん、これにより板という物質感ある支持体から解放され、画面は巨大化を遂げたのだった。
これら破壊的とも言える革命的発想転換により、大画面にも関わらず、彼らが短期的に絵画を仕上げられたことは想像に難くない。生産効率の良い技法がメジャーとなるのは目に見えていた。事実、「カンヴァスに油彩(Oil on Canvas)」という今日まで続くスタンダードの素地を整備したのだった。
ファン・エイクのイメージを支えた技術が「ステンドグラス」であるならば、木枠から画布を外し、まるめるてコンパクトに運ぶことの出来たティツィアーノのそれは、当時、一般的に用いられていた「タペストリー」[*2]であったと言えよう。
「総合芸術」を標榜し、既存の技術体系を統合/折衷する「建築」と同じく、「絵画」や「平面」という自明のごとき一言で言い表わされるものも、実は「ステンドグラス」や「タペストリー」のように「工芸/応用芸術」という他のジャンルへと分別されうる様々な生産プロセスが持ち込まれ、統合/折衷されていた。このように「絵画」のもつ空間は、構造的にも技術的にも多彩なコンテクストが絡み合い、政治的闘争が繰り広げられる場なのである[*3]。
おおよそ「平面」という語感から想起されうる平坦で静寂さえ感じるイメージはそこにはない。具体的な物質が異なる技術によって順序だてられ、あるいは暴力的に接合された空間なのである。前述のようにティツィアーノは、それまで建築の壁面に文字通り一体化していたフレスコ画を、ファン・エイクの体系化した油彩を通過し、「タペストリー」というモデルへ軽やかに接合し得たかに見えた。
しかし、その「タペストリー」へ、なかば力ずくで油彩の技術を捩じ伏せたこれらの作品は、月日の経過とともに油絵具特有の「絵画層の透明化」という事態、いわばインフラの反乱によって、下地の色が突出し無惨にも画面全体を暗変させるざるを得なかった[*4]。 いうまでもなく、各々の技術は技術ごとの、こうした特性を予め ——もちろん有用性だけではなく限定をも—— 宿命づけられている。
ちなみに、絵画技法史において、かつてフレスコ画からヘゲモニーを奪取した油彩画のその内に、再びフレスコ的技法を引きずり込んだのが、19世紀イギリスのミレイらラファエル前派であった。
フレスコ(フレスコの語源はイタリア語で「新鮮な」という意)は、水で解いた顔料を生乾きの漆喰へ塗り、漆喰が乾燥すると顔料と分子結合を起こし定着するという仕組みであり、他方の油彩は、樹脂の媒材で顔料が練られ、それがゆっくりと酸化することで媒材を介し画面に顔料が定着する仕組みである。一度、漆喰の水分が蒸発してしまうと、その上から描画することは出来ない。それだから、乾かないうちに描ける範囲で下地を充填させるという、描かれるイメージの分節とは異なる次元の分割設計 ——リテラルに身体に束縛された限定性—— を強いられる。そうした意味において、油彩と違った高度な構想力と再-組織力が要求されるのだ。これが媒材を介さないフレスコの技術的特性である。
ラファエル前派の採用した生産プロセスは、油彩にも関わらず、これと同様の湿った白い下地が乾かぬうちに絵付けを施すというものだった。
彼らに影響を及ぼし、北欧信仰やドイツ的感情とをイタリアの形式の上で統合しようと試みたルーカス同盟は、ジョットやフラ・アンジェリコを参照しつつ共同で壁画制作をしていた。主題と形式の一致、あるいは統合を目指した ——アカデミズムの指標たるラファエロよりも以前の作品が持つプリミティヴさにそれを見出そうとした—— だけではなく、フレスコと油彩との統合というある種の「混合技法的着想」は、まさしくルーカス同盟を通過し得られたものであった。さらには、七宝(クロワゾネ)の隈取りよろしく、肉厚の輪郭を色面と色面の間に置き、相互の鮮やかな色面が混ざり合い濁らないよう配置もしている[*5]。
極めて繊細に組織化された技法によって獲得された画面は、当時の主流であった褐色の有色下地を施した絵画(その下地に表面の絵具が引きずられ画面が褐色に染まっていた)と一線を画し、まさに七宝の如き、細かな線に縁取られた色面と明瞭なイメージ、何より圧倒的に明るく鮮やかな色彩表現を可能としたのだった(しかし、過剰なまでの緻密さを要求するこれらの技法は、それに巧みなミレイでさえも年に二作ほどしか制作出来なかったし、ロセッティに至っては自らの主題へ重きを置くため、早々にこの技法を放棄したという)。
光輝く画面を作り出したラファエル前派が、殊にファン・エイクをはじめとする初期ルネサンスや15世紀の北方美術を参照していたということは、あらためて言及するまでもないであろう。
*1:白亜と膠を用いて楢の木板の節目を覆い、平滑な面を作るとともに、表面を磨き上る摩擦熱で媒材(バインダー)の膠が表面に現れ光沢を持つ。なお、白亜地が「絶縁体」と呼ばれ、油彩の油脂分から支持体を守り、腐食を防ぐ機能を持っていたことを忘れてはならない。
*2:「タペストリー」は、高価(大勢の職人たちによって長い年月を掛け織上げられ、上質のウールや絹、金銀糸を使い、貴族らのステータス)だったが、何より「壁掛け」として、石造りの城内の暖をとるという具体的な機能を担った生活用品でもあった。教皇レオ十世から依頼され、ティツィアーノの5歳年長のラファエロはタペストリーの設計をしている。それは、システィーナ礼拝堂での儀典の際、既に存在する壁画(ミケランジェロ作)の下へ飾られ、その意味を補完するため ——もっといえば、後からつけ加えられる装飾が、既存の意味作用を組み直し、全キリスト教徒の代表者であるレオ十世を讃える、というもの—— に使用された。なお、そのデザイン画は『ラファエロのカルトン』として知られている(よく語られるミケランジェロとラファエロの軋轢と、グラウンドである壁画を、装飾であるタペストリーが飲み込んでしまうという企みとの関係性は、一考に値するかも知れない)。
*3:「政治的闘争」については、画布を想起させるロープや木枠を模した枝といった「絵画」におけるインフラをリテラルに露呈させた作品、あるいはシンプルな図をひたすら繰り返し、あからさまに、ナイーブで低落な単純労働的作品を製作したクロード・ヴィアラら「シュポール/シュルファス」を想起させるかも知れない。確かにこの運動は、1968年の「五月革命」の気運にリンクしていた。
*4:見事インフラを調停し、ティツィアーノを今一度、ファン・エイクへと接合せし得たのが、17世紀フランドル派のピーテル・パウル・ルーベンスである。ルーベンスは堅牢なグレー(無彩色)の下地と、明部の不透明な厚塗りと暗部の半透明な薄塗りを巧みに使い分け、最後に「グラッシ(透明層)」を重ねることにより、画面全体を融合した。
*5:ラファエル前派には、「アーツ・アンド・クラフツ(美術工芸)運動」の旗手であり、近代デザインの父でもあるウィリアム・モリスがいたことは周知の通りだ。ルーカス同盟が芸術(壁画制作)という共同作業を通じ宗教的共同体の形成を目論んだ(彼らが「ナザレ派」とも呼ばれた所以である)とすれば、モリスは「モリス商会」という営利組織を形成することで、芸術家による共同体とその成果物による社会変革を目指した。こうした思想的な流れは、後のバウハウスへと受け継がれることとなる。
松本直樹 Naoki Matsumoto
1982年 長野県生まれ
2007年 東京芸術大学 第七研究室 修士課程 卒業
2004-2007年 近畿大学 国際人科学研究所 東京コミュニティ・カレッジ 四谷アート・ステュディウム 研究員
https://www.facebook.com/mtsmtnok
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