文 / 町田哲也
乾いた汚泥が脛から膝に残り皮膚か地熱かわからぬ残闇の冷気との熱の差で朧燻りを纏い揺らめく地に立ち微動だにしない顎を引きやや左下方を睨んでしきりに呟いている姿がある。
「お前が老いた時には俺と同じような位置からお前の知りようの無いこれまでの降り積もった悉との離別の性分など忘れ再び繰り返されたことも忘れこの俺の目を知らぬうちに真似てやはり淵に半身を浸けた若く白い躯に向かい長く呟くのだよ」
ゆっくりと子に諭すような柔らかさを醸すその声の響きは小さく低いものだったが風もない仄暗い清明の場所に糸を張るように明晰に渡った。ヒトガタのシルエットは動かず襟元から新たな湯気の繊毛が立ち上り汚れ衣の破れ目からのぞく赤い皮膚も幾箇所か裂けているのか体毛を張りつかせて濡れている。やや離れ足下から見上げる角度からの姿では剥き出しの両足と肩がいかにもカタチを率先するが、光景の筋を背後の樹々から見おろせば眼差しの示す下方の黒く横たわる淵に半身を沈め身を折る少年の幼く浮かぶ青白い植物のようなかんばせがあり、その稚拙な脆弱の軀には親を狩られて擁護を喪失しぽつんと遺された無邪気と唐突な世界へのきょとんとした放棄(子鹿)の表情は滑稽哀れだが虚空からの「光景の理解」はこれが原理なのだと印す灰のようなモノが降っていた。災後のようでもあり、森の黎明のようでもあった。
「飯の残りを考えたことはあるか。喰ってしまったその後のことだよ」
立つカタチは老成の果てが示されていたが背は反り返り壮健な力の漲りが関節と気配に現れ膨れた血管も陰影が深く刻まれ姿勢を崩さずにやはり小さな呟きを続けるその僅かな言葉の隙間に呼気を吸い込み上下する肩は深みへ沈み行く鯨の背ともみえた。右手には太い枝が握られ指先から黒く濡れ滴り様々に使われたか彼の四肢の一部となって先端は地の上に浮き、殴り倒す陰茎であって身を支える杖ではないと判る。
「この声がお前に聴こえてしまうことは仕方がない。此所と其処という距離なのだから。お前は陽が昇ると立ち上がってあの憶えのある路を下り最初に出会う女に連れられて世界に住まうがいずれこの暗い朝のことは忘れてしまうだろう」
ヒトガタの背後の林は燃え落ちたような霧を蓄えこのまま燻り続けるのかいっそ凍り付くのか彼岸此岸の間の時にあってヒトガタは動かず呟きを続けたが、徐々に表情が露になる湖面に切り取られた白体の雌蕊顔はゆっくりと頬のあたりを桃色に変えていく。この時(あるいはもっと以前から幾度も)みつめる瞳(理解の言葉)はこの幼い白いものの中にも在って、立って落とし流される声には応じることもなくかの人の魂のまま自らの白い喉で反芻していた。呟かれた反復は即座に時間を捲り立ち上がって路を下り生きのびた挙句(果て)を兆し今に齎して、始まりと終息が逆転し今に萌芽しているのだともいえた。がしかし、彼らの声は視座に定着せず虚ろな反響の光景にぱらぱらと花弁のごとく落ちるだけだった。
同時にまた動かない湯気の弱くたちのぼる軀の呟きの中に、墨汁が半身を染めた羞恥と無防備な諦めをともなって幼く灯る言葉も毀れたようだった。ここには存在をみせない発声者の言葉が互いにみつめるふたり立ち去ってからそよぐだろう風のカタチとなって割れた詩文のように淡く降る白い粉を分け半透明に既に吹き流れてさえいる。灰色に乾いた脛の汚泥を拭う踞った女の手が詩文と似た半透明にヒトガタの足元の叢に潜み、その指のしぼった布が黒い池の水を滴らせ破れ衣の中の太ももにまで拭い上げる手付きの内に夜へ戻る吐息が幽かに聴こえはじめる。白く幼い精は幾度か瞼を閉じてそれに誘われるのだった。
千通り孕みながらも光景としてはひとつの呟くヒトガタが池に沈んだ幼気を見下ろして立ち白い無邪気が木霊を還し、露出の不足した静止画のまま時間が停止し震え、朝がこなければ永続するかの安定があった。辺りは念仏のような呻き呟きの相対で一段と静まり誰のものでもない光景の理解の視座が憑依の速度で散乱の位置へ瞬時に移動する毎に言葉は陽の前の淡い明るさが闇を拭うまでと括弧で括って、夥しい数のヒトの交わりが陰重なった時の刻みとして死後と生前を交ぜる強引さで且つ重力に従い間違いを圧縮する蓄積を瞬時に行う。それは例えば「躊躇」であり「受難」であり「嗚咽」だったが闇から離れ大気に融けた弁えのようでもあった。
鳥獣が時に脇に短く叫ぶ輝く路を女に促され歩きはじめた白い喉元から「名があれば」と声がもれ、振り返れば(頤だけをまわして)森の小高い丘に立つヒトガタは彫像のように凝っとして瞼は閉じられ口もとから白い吐息を丸く幾つも転がし出す蟹陰となった。上気した少年はいつしか眉間に大人びた一筋を刻み膜が剥がれ透き通った瞳の黒い穴を路の先へ戻してから、「何度も聴こえたが忘れてしまった」とはじめて自身の声で発声し路端の枝を手にとった。
老いたヒトガタは半身を一度小さく捩らせたが踵は地に埋まりやがて膝迄夕刻にはこの身骨が全て地の中だと握った枝で叢の葉を撫でた。顎を上げ降り注ぐ陽光を眩しそうに仰ぎ唇を閉じ垂直の喉内で、黒い淵に戻ることはないと筆書きするように文字を呑み込むと至福の味が胃に垂れた。
町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
ブランチング企画責任 トポス統括 バエイカッケイ開発統括 クマサプランニング主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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Thanks for hlpeing me to see things in a different light.