稗史(はいし)の眼差し

文 / 北澤一伯

池上晃事件補遺No6 刺客の風景「七歩詩 曹植を読む」

 ある出来事が、私に疎外感を意識させ、「知」からの糸が切られたまま無明の山間を徘徊しているような気分を感じさせた。
 四方を山岳で囲まれている。長野県南部。諏訪湖を水源とする天竜川水系の<場所>で美術をする時、「知」にたいして独特なメンタリティが立ちあがると思う。

 長野県上伊那誌(上伊那誌・刊行会・発行)第二巻歴史編第五章は、天正10年(1582)2月、織田信長の子、信忠の軍が高遠城を攻撃する際の戦況について「信長公記」(織田家の祐筆太田牛一の著作)より長く引用し高遠城落城の経過をを記録している。
そして、「次のような一説がある」と前置きし、『「高遠城史考」その他』を紹介している。
 『森勝蔵は信忠の命によって、上伊那北部の諸村を奪いとり、有賀峠から諏訪に入ったが、高遠城攻撃に加わるため、杖突峠から尾根伝いに青柳峠に出て、三義荊口に下り、弘妙寺に兵食を命じたが、住持は、「我が主君を攻める敵軍へは助力致しかねる」と断ったので、勝蔵はおこって寺に火を放ち、山室に下って遠照寺に焚出しを命じた。住持は弘妙寺の焼けるのを見て、怖れをなし、早速その求めに応じた。勝蔵は、月蔵山に上って高遠城の形勢を見、信忠と連絡して、高遠城攻撃に加わった(「高遠城史考」その他)。』
 ここに書かれている森勝蔵とは織田信忠の家臣であり、高遠城は当時武田信玄の子、仁科五郎盛信が城主として構えており、城主への忠義を守り兵食の焚き出しを拒否したために寺に火を放たれるという災難に会う弘妙寺(ぐみょうじ)とは、現在の伊那市高遠町荊口本学山弘妙寺のことである。
 「弘妙寺のあゆみ(弘妙寺住職第三十五世龍華院日顕著 1990)」によれば、弘妙寺は元久2年(1205)平家の浪士経験者、開阿弥と杢阿弥という二人が、この地に庵を結び、その後中道山旭泉寺として真言の修法をおこなったのがはじまりとされ、239年後の文安元年(1444)身延山九世成就院日学上人により日蓮宗に改宗、本学山と改称し開山、今日まで560年以上の長期間法灯連綿と続いてきた。
 現在もこの寺が、高遠町の他の古寺とその存在の評価において明確に一線を画するのは、主君への忠義を守り、織田軍の要求を潔癖に拒絶し、その結果、寺の建造物を焼き打ちされるという劇的な歴史の一点にある。戦国時代という背景があったとはいえ、日蓮宗を受容した後、どのような経過で忠義という儒教的概念を時の弘妙寺住職九世日藤上人が実践するにいたったかということについては、資料が乏しく言及することはできない。
 だが『「高遠城史考」その他』の記述からは、高遠城陥落によって戦いは確かに敗北したにもかかわらず、敗北とは逆のベクトルに事態が変容したことも語られていると読みとることができるのではないだろうか。弘妙寺の焼けるのを見て、焚出しの求めに応じた山室の遠照寺の生きのこり方と、弘妙寺との間に、おおきな差があると思われる。

 つまり、弘妙寺の存在性は、大きな権力の攻撃によって犠牲者の側に立たされた劣勢の者が、受容した思想を変化させない非転向の姿勢で存在することで、勝利者側のこころの領域で優位に立ち、さらに勝者を精神性において超越してしまう物語に触れていると思わせるものである。

昔、中国で政治の参考に、下級の役人に書かせた民情報告書を稗史(はいし)という。小説体の歴史と記載する国語辞典もある。

 90年代初頭より、私の心が受けたボディー・ブローの痛点を快癒する物語である。

 強い発信源からの、「知」としての政治経済の情報や最近の美術史観の理論は、時には大きな破壊力をもった外圧の様相をとり、知的な優位性を語ってくれる。
しかし、山岳で囲まれている場所の内部に蓄積されている時間の積み上げかたに視線を向けて美術を築きあげ組み立てることと、山間に住む方法までは、示唆はしてはいない。3・11以前からわかっていたことだ。

おそらく<地方>とは、日本の中の微差異な<異文化>の在り方なのだ。 
 

*稗史(はいし):[昔、中国で政治の参考に、下級の役人に書かせた民情報告書の意] 小説体の歴史。(新明解国語辞典 三省堂)

北澤一伯 Kazunori KITAZAWA
1949年長野県伊那市生れ。
 
発表歴:
1971年から作品発表。74年〈台座を失なった後、台座のかわりを、何が、するのか〉彫刻制作。80年より農村地形と〈場所〉論をテーマにインスタレーション「囲繞地(いにょうち)」制作。94年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。韓国、スペイン、ドイツ、スウェ-デン、ポーランド、アメリカ、で開催された展覧会企画に参加。
また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。その他「いばるな物語」連作、戦後の農村行政をモチーフにした「植林空間」がある。