アートと思考② ~裸にされた花嫁としての松田朕佳、さえも

文 / 服部洋介

“Sonant/濁点”ChikaMatsuda, 2012

 

マルセル・デュシャン
 『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』

 東京大学といえば、本郷にある赤門と安田講堂、そして、中世の修道院を思わせるストイックな威厳を湛えた内田ゴシックの建造物群を人は思い浮かべるであろう。一方で、駒場の教養学部キャンパスに足を運ぶ学外者はそう多くはない。だが、同構内の美術博物館が現代美術の密かな「聖地」であることは、ほとんど知られていない。同館は「20世紀の最も影響力のある芸術家」(*1)マルセル・デュシャンの代表作『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(大ガラス)の世界で三番目の、かつ最も良質とされるレプリカを収蔵する稀有の美術館なのである(*2)。
 ところで『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』とはいかなる文であろうか? これを『花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも』と訳すに至っては、ほとんど意味不明である。最後の「、さえも」について、デュシャンは「いかなる意味もない副詞で、文末の間の悪い時に起こるもの。無意味なわけではない。無意味に属してさえいない。それはある方向を与える。その不気味な方向を発掘したかった」(*3)と言っている。ヴィトゲンシュタインは「論考」の中で「同語反復命題と矛盾命題とは、意味を欠いている」(4.461)、「しかし、同語反復命題と矛盾命題はナンセンスではない」(4.4611)という。「ナンセンス」(無意味、unsinnig)とは文法違反であり、「意味を欠く」(sinnlos)とは命題が実在を規定することができないことを指す。後者については、前稿『越ちひろ、処女にして母』(*4)ですでに見た。この分類でゆくと、「大ガラス」の全体は意味の通らないナンセンス文である。しかし、デュシャンは、言語的には意味をなさない副詞が、「ある方向」を与えるとする。そして「だからこそ、どんな花嫁に、自分の自由になる複数の独身者がいるでしょうか」(*5)と問う。独身者の場合、戸籍簿の配偶者欄は空欄である。これはコッドが関係モデルにおける「失われた情報」として「適用不能」「非存在」(Not Applicable, Inapplicable)に分類したNULLである。ここでは、本来空欄であるべき箇所に置かれた記号を指してNULLと呼ぶことにしよう。未知なるもの、二値の一方に判別できないもの、矛盾、ナンセンス――デュシャンは、空欄に「花嫁」ではありえないところの「花嫁」の名を書き込んだ。前稿に掲げた越のステートメント「女性的であり、男性的」、あるいは「処女にして母」もまた、「花嫁のいる独身者たち」を暗示する「大ガラス」と同じNULL文である。そして、「、さえも」とは、それ自体の意味が不明であるにも関わらず、それを欠いては文の全体が成り立たない「何事か」の存在を示す記号なのである。
 現実には「越ちひろ」を主キーとするリレーションにおいて、Yes/Noによる二者択一のデータ型で越の性別を管理する場合、Null(未入力)を格納することはできない。越は女なのか、そうでないのか、二値のいずれかに確定しなくてはならないよう設計される。Y/N型において値が空欄であるということは、越が女なのか、そうでないのかが、わからなかったことを意味する(コッドによるNULL「未知」Unknown)。あるいは、越が事実「女であり、かつ女ではない」ために、適正な入力ができなかったか、もしくは、入力者が入力し忘れたかのいずれかであろう。いずれにせよ、Y/N型はNullの格納を拒否する仕様となっており、たとえ嘘でも一つの値を入れることが要求される(値要求)。実現した世界においては「成立した事実」に矛盾はなく、そうした事実の成立/不成立については明確に回答することが可能なはずだからである。「表明できない解答に対しては、その問も表明することができない。謎は存在しない。いやしくも問を立てることができるのなら、その問に答えることもできるのである」(6.5)は、この原則を言い表している。Y/N型において矛盾や未知を含むクエリを発することはできない。また、算術演算子を含む式の中にNullを取るならば、式全体がNullとなる。越の性別がわからないということは、同時に世界の全男性と全女性の各総数が不明になるということを意味している。確定したデータはNullによって無効化される。この場合、Nz関数によってNullを0に変換することで、Nullを「ないもの」にすることができる。未知や矛盾、ナンセンスは0ではない。それが含まれることによって、全てが不分明なものとなる「何か」なのである。デュシャンは「大ガラス」について「解答はない、なぜなら問題というものがないからである」と述べているが、これは中原佑介が指摘するように「論考」の裏返しである(*6)。デュシャンは、作品中に意図的にNULLを導入しようと試みた。1920年、彼は女装してRrose Sélavyと名乗った。越の両性具有性と比較してほしい。「私には、男性原理アニムスがいる。けれども女性なのだ」(*7)と彼女はいう。事実はこうだ。越は女であり、そしてデュシャンは男である。これは未知の変項を主語にとる開放文(命題関数)ではなく、主語が定項として確定した閉鎖文である。事実が明らかである以上、越の性別欄にN(女ではない)が入力されることはない。ゆえに、アーティストの試みるところは、自己という定項を変項として扱うこと、人生という命題を命題関数と見なすことに他ならない。命題関数において真偽が定まることはない。それは、あらゆる「意味」の拒絶である。
 ユング派の分析するところ、両性具有は、錬金術における個性化過程の象徴、あるいは未分化な無意識的全体性の象徴である。デュシャンにおける錬金術の影響については、すでに指摘されるところであるが、それを示す直接の証拠はない。ただ、彼がマラルメの芸術的方向を称賛していたことは間接的な徴証となろう。ここでいう錬金術とは、エリファス・レヴィによって流行をみた薔薇十字的ヘルメス哲学とクリスチャン・カバラの19世紀後半における総称である。その著『高等魔術の教理と祭儀』を始めとする秘教文献は、マラルメのほか、デュシャンと終始友好的関係にあったアンドレ・ブルトンにも絶大な影響を与えた。彼が、シャルコーのヒステリー研究を「19世紀最大の詩的発見」と呼び、またサン・ディジエ精神医学センターでフロイトの著作に親しんだことは夙に知られている。錬金術は無意識世界の体系である。「あなたは、無意識的手段による精神の介入を望んでいるのでは」というシャルボニエの質問に対し、デュシャンは「一種の意識形式の中に無意識を誘導するように試みること。何が起きるか知ること。(…)そしてこの無意識から出てくるものを定義するために言葉を課さないで、そうすること」(*8)と答えている。
 言語の規定を超えたもの、在りはしても語りえないもの、未知なるもの、矛盾を言語化しようとする時、そこには記号としてのNULLが生じる。視覚もまた一種の言語であり、われわれは記号表意作用(signification)において、対象の意味を了解することができる。だが、「大ガラス」の外見が何をあらわしているのか、それを既知の概念で代理させることはできない。ただ「花嫁、さえも」というNULL文が添えられているのみである。だが、ある外見が指し示す実在的な意味を、人はなぜ知ることができるのであろうか? それは本来不定のものである。ラカンの指摘するように、それを規定するのは「他者の言説」(discours)である。でなければ、デュシャンに言われるまでもなく、便器とアート(『泉』)の区別などつきはしないだろう。「大ガラス」の図像的意味が不分明だとすれば、それが外的な言語による指示・分節を経ない隔絶したイメージであることを意味する。彼にとってアートとは「問い」に対する「答え」ではなかった。問いに正しく答えられるのは、所与の前提を受け入れる時に限られる。アートではないアートはアートではない――では、誰がアートなる語の意味を支配しているのか?

 松田朕佳
『Sonant/濁点』

 松田朕佳(信濃町在住)は、世界における分節と関係構造をテーマとするアーティストである。『ナガノ新コンセプトゥス』(山ノ内町立志賀高原ロマン美術館)で、ひときわ異彩を放つ衝撃作――若い女性が次から次へと口から異物を吐き出す映像『Sonant/濁点』――は記憶に新しい。彼女は、言語の性質について次のように語っている。

    視覚や体験は常に言語や文化、歴史によって影響され、現代の生活に置いて目前のものを直に経験する機会が少ないように思える。多くの場合が知識や理性というフィルターを通した経験になっているのではないだろうか。(*9)

 構造主義の嚆矢となったソシュールは、言語の非歴史的な構造を抽出する共時的言語学において、従来の言語名称目録論を批判し、恣意的に定められた言語の外延に、言語の数と同数の異なった世界像が成り立つことを指摘した。言語は現実の正確な写像ではない。世界の切り取り方は、文化によって相対的に規定されており、そこに属する個人の主体性は解体される。「言語は思考を仮装させる。(…)日常の言語を理解するための暗黙の協定は、錯綜をきわめている」(4.002)と「論考」は言う。
 一方で松田は、バシュラールを引用して「詩人が選び組み合わせる言葉には空間を連想させ、また、空間を押し広める力がある」とし、「現在ある空間自体も詩によって広がっているのではないかと考えるように」なったと語る。詩的言語の使用は、その構造によって、外界と内界を綜合し、世界を「精神的な自然」として再生産する。『空間の詩学』におけるボードレールの引用は、われわれを再び錬金術的な世界へと連れ戻す。それはある種の言語の「誤用」によって初めて可能となるのである。バシュラールは言う。「矛盾が累積するときに、一切のものが生きいきしてくるのだ」(*10)。これは、言語芸術における矛盾的NULLの導入である。明晰さを欠くNULL言語の使用、無意識的な未分化のイメージは、他者がその政治的立場(文化)によって語の使用に強制する目に見えない前提を拒む。「アート」という語も例外ではない。デュシャンはいう。「美術館は理解や判断の最終的な形なのでしょうか。ある社会が、いくつかの作品を受け入れることに決めて、それでルーブルのようなものをつくり、それが何世紀も続く。しかし、真実とか本当の、絶対的な判断について語ること、私はそんなことはまるっきり信じていません」(*11)。しかし、あらゆる恣意的な真理、政治的前提の消え去った地平で、果たして語の使用が成り立つであろうか? 「アート」なる語の使用には、一種の政治的「陰謀」が潜んでいる。彼もまた一部の者の語の暴力的な独占による「陰謀」のために、フランスとNYのアンデパンダン展で苦汁をなめたはずだ。しかし、その種の「陰謀」を抜きにして、アートを定義できるだろうか? 語の意味が通るのは、同一化された前提を同語反復する時に限られる。前提から帰結するものは全て前提に含まれる。そこから新たなものは何も演繹されえない。デュシャンは「芸術家は自分の作るものを何一つ理解していない」と考えた。反復される前提の正統性が疑われる以上、アートを定義するためにアートの定義を用いることはできない。この欺瞞から逃れるために、彼はシュルレアリスティックな方法論を採用し、あるいは意識して言語にNULLをもちこんだ。意味が通らないからこそ他者の支配から逃れられるのだ。しかし、他者の存在しないところに対概念としての自己が存在するだろうか? それはもはや自己ではない。形而上学的な主体であり、実体である。彼は言う。「アンチ・アートという言葉にはいささか悩まされる。というのは、あなたは反対(アンチ)か賛成(フォア)かという時、それは同じものの二つの面であるからだ」(*12)。アートが何かわからないのに、どうしてアートでないもの(反芸術)を行なえようか? うっかりすれば、アートをしているかもしれないではないか。後世に残る作品は、政治的に勝利を収めたものに限られる。その瞬間、デュシャンも含め、アートの前提に組み込まれた作品はすべて「その時代の凡庸さを示すもの」となる。決して現前することのないイデアとしての「アート」は、語の不定性、語のうちに原初的に含まれる意味のズレ、差延(デュシャンはそれを「遅延」と呼ぶ)を抑圧すべく、遡及的に設定される形而上学である。この方面の問題意識は、ほとんどデリダ的な脱構築にあるといえるだろう。
 しかし、救いもある。松田は言う。「一度は明確に発せられ理解された言葉も、繰り返すうちに砕かれ、矛盾が生じ、砂粒のような姿を言語の内側へと潜めることとなる」(*13)――これをドゥルーズの脱根拠化の視点から眺めてみよう。ヴィトゲンシュタインは、命題とは、意味をもち、真偽を判ずることのできる言明であるとしたが、ここでは、命題を構成する名辞の表象=再現前化を拒む「差異」が導入されることにより、反復使用される名辞の同一性そのものが動揺する。ドゥルーズからすると、この差異性こそが流転する世界の像であり、「「再開不可能」なものを反復するという明確なパラドックス」(*14)は矛盾や否定を意味しない。差異としてのシミュラクルの役割は、オリジナルのコピーたることではなく、その肯定によるオリジナルの破壊なのだ。松田は「言語は人間の意識の発現であり、それらが物質的な世界を(…)占領し」「世界があり続けるために私たちは話し続け」ると直観する(*15)。話し続けることによって、差異と、新たな分節とが再生産されるのだ。言語は「実際には体内で消化され排泄/吐瀉されるようにして体外に出された意識」(*16)ではないかと松田は言う。消化される以前の意識、すなわち、無意識、直感、本能が世界の内にどのように存在するのか――それが『Sonant/濁点』のテーマである。それらが分節される直前の非言語的な意識をsonant(有声音)あるいは濁点(゛)として具現化する。ここでは声帯の振動そのものと捉えてよいだろう。「存在は振動で、声は振動で、言葉も振動で、濁点は振動の記号」「私が言葉を発音するとき、その言葉の意味や概念を借り、歴史の中でこの言葉を使った人々と繋がり、同時にそれらの人々の意思をよみがえらせる行為なのではないか」と彼女は言う。この未分化な感覚は元型的、集合的なものであり、主体は再び歴史の中へと埋没する。ここに主体によって再定義された歴史の中において、実に主体は再び解体されるのである。だが、主体も歴史も再現前化されることがないのだとしたら、「髭の生えたモナ・リザ」の髭を剃ったとしても、それはただの「モナ・リザ」に戻ることを意味しない。変容はすでに起きている。私たちは「意味」を同一のものに固定し、差異を抑圧しようとする権力に立ち向かうための剃刀を手に入れたのだ(*17)。「世界に、一言で答えを言ってしまう事ができたら私たちはそれ以上話す必要がなくなってしまいます。正解はなく、喋り続ける/生み出し続ける/循環し続けることでしか存在を維持できないのではないか」(*18)と松田は言う。彼女における生とは、与えられた単一の「意味」の軛から逃れ、差異の源(あるいは、デリダの「原-エクリチュール」)を奪い返すことにある。
 「、さえも」と「゛」は、ともに構造に規定された非主体的な言語を解体しようとする点で「不気味な方向」をもつ。アリゾナ大学に在学中、松田はあるインタビューに対し「私たちのもつ一般的な認識――同じ種であるにも関わらず、蝶は美しく、蛾は醜い――というようなステレオタイプに関心がある」(*19)と答えている。そして、プラトンの「洞窟の比喩」を引き、映し出された影から蝶と蛾を見分けることの不可能性を指摘する。「大ガラス」もまた、4次元の3次元への射影といわれる。射影においては、情報は捨象され、その像は判別のつかないものに劣化する。そこに蝶と蛾の二項対立は存在しない。私たちは、対象について知らぬままに、それを差延、NULLとして示す。そのシミュラクル自体が肯定されるのだ。一方で、NULLは超越的実在の象徴であり、現象世界においては実現されえないものの存在可能性を示唆する。デュシャンは無意識ないし四次元の着想に夢にも近い憧れを抱いていた。「芸術家は自分が何をつくるのか分からないのですから、いわば、自分のつくるものに対して決して責任はありません。しかし、芸術家はそれへと駆り立てられるものですから、表面よりももっと深いところにあるような言うべき何かをほんとうに持っているならば、それをつくるものです」(*20)。事物の実在的本質を捉えることは、移ろう言語による指示を超越することである。「私は膣が陰茎をつかむように、心で物をつかみたい」(*21)とデュシャンは言った。「、さえも」(, même)を発音すれば「m’aime」(私を愛する)(*22)となる。心で物をつかむこと――それは関係的な現実に愛を見出すことのできなかったデュシャンの、実在的な愛への憧れを表明したものではなかっただろうか。松田はよりポスト構造主義的にこう答える。「現実は常に流動的です。全てのものは様々なレベルで変化しています。(…)人間の最終的なゴールは、美しい調和を見出すことにあります。イデオロギーの、宗教の、文化の、人種の、恋人の間の――」(*23)。正解のない関係性の世界で、松田の視点は二項対立の解消へと注がれる。
 なお、九月初旬、作家より嬉しい知らせが届いた。松田朕佳はA.I.R. GALLERY(Brooklyn,NYC)が12月より開催する第10回A.I.R. GALLERYバイエニアルの出展者として名乗りを上げた。彼女の作品が、現代美術インスティテュートのシニア・キュレーターとして数々の展示を成功させた審査員イングリッド・シャフナーの眼鏡に適ったことを、心より祝福したい。

    文中敬称略。なお、本文中『論理哲学論考』の引用は法政大学出版局「叢書・ウニベルシタス」版(藤本隆志、坂井秀寿訳,1968)、大修館書店『ヴィトゲンシュタイン全集1』(奥雅博訳,1975)に拠った。なお、本稿の記述には1μの関係もないが、デュシャン翻訳の第一人者である北山研二教授(成城大学)にかつて貴重なご教示を賜ったことにつき、この場にて謝意を表するものである。

    (*1)タッシェン・ニューベーシック・アート・シリーズ『マルセル・デュシャン』Janis Mink / タッシェン・ジャパン,2001,p.7
    (*2)オリジナルはフィラデルフィア美術館所蔵(1915-23)。第2版はストックホルム近代美術館所蔵(1961)、第3版はテート・モダン所蔵(1966)。
    (*3)『 デュシャンとの対話』Georges Charbonnier 1961 / 北山研二訳,みすず書房,1997
    (*4)服部『アートと思考①~越ちひろ、処女にして母』(『branching』vol.2所収),2012
    (*5) Georges Charbonnier前掲書,p.62
    (*6)新潮美術文庫49『デュシャン』日本アートセンター編, 1976,p.84
    デュシャンの言葉はジョージ・ハミルトンに対して答えたもの。J.Goldingアート・イン・コンテクスト8『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』邦訳p.15参照。
    (*7)越ちひろwebサイト『Ouroboros』2011年6月24日記事「シンプルな生と死」。また「私はあらゆる中間を求める」として排中律を前提とする分節構造を拒む(「週刊長野」第1237号,2009)。
    (*8) Georges Charbonnier前掲書,p.28-29
    (*9) 松田朕佳,ステートメント(web)
    (*10)ちくま学芸文庫 『空間の詩学』 Gaston Bachelard / 岩村行雄訳,筑摩書房,2002,,p.95
    (*11)エピステーメー叢書 『デュシャンの世界』Marcel Duchamp,Pierre Cabanne / 岩佐鉄男,小林康夫訳,朝日出版社,1978,p.149
    (*12)アート・イン・コンテクスト8『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』J.Golding / 東野芳明訳,みすず書房,1981,p.59
    (*14)『差異と反復』Gilles Deleuze / 財津理訳,河出書房新社,1992,p.20
    (*15) (*13)山ノ内町立志賀高原ロマン美術館『ナガノ新コンセプトゥス』パンフレット,2012 
    (*16) (*18)松田朕佳,筆者へのメールより,2012 
    (*17)デュシャン 『L.H.O.O.Q.』と『髭を剃られたL.H.O.O.Q.』。ドゥルーズの『L.H.O.O.Q.』への言及は前掲書p.17。
    (*19) (*23)松田朕佳,First place and purchase award from Crossing 2009 South West graduate students competition受賞に際するインタビュー,2009,筆者訳
    (*20) Georges Charbonnier前掲書,p.20
    (*21) (*22) Janis Mink前掲書,p.84 

服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14