サスケ

082015 digital photo by Tetsuya Machida

文・写真 / 町田哲也

 白岩と呼んでいた石灰層が剥き出された真下には祀られた社がある崖を指差して、今日ほど過保護ではなかった大人達には勿論内緒の探検という名目で、下から見上げ這いのぼり、行ってみようというだけの闊達な前倒しとは懸け離れた、崖上に立ってはじめて現実に気づいた異様に不自由な位置にて、走り回ることが唯一の自由を誇る子供の足に高みの竦みがくっきりと刻まれ、石化した後退りの四つ足となり蟻の門渡りを震える肢体でしがみつき潰れた尾籠(びろう)の意識をひきずって降りきったのは夕刻だった。以降高度恐怖の質(たち)が爪先に蝕み、似た状況に触れると遠い記憶が手前に掘り出される。物差しで指先を叩かれる抑圧的な習い事の時間の外で、その鬱憤を晴らす勢いが増したかして、川沿いを流れの中伝って下半身を濡らしたまま上流へと歩き小さな滝となった岩から幾度か小さく滑落し膝の擦り剝きに唾液を擦り付けつつよじのぼり落雷だろうか空洞になった足の長い昆虫にまみれた樹木の中に空缶に入れたものを持ち込み、さてそれでどうすると当惑を焦れていた。或は嬉々として後先考えず土手から川原へひらりと落下そのものに転化したかったのか飛び降りて胸に膝を強打し意識の消える視界の脇に見ず知らずの貌が並ぶなどしたエゴよりも、白岩は振り返ればはるかに向こう見ずの「走り」だった。流石に引率した年上は大事を怖れたのだろう一度誘ったきりで、こちらも単独で滑落の恐怖に近寄る意気地はなかった。川原に馬の死骸を見たのはもっと前の山村の記憶だろうか。あれとこれとは怖れの種類が違うと拙(つたな)い心で思ったものだ。諄(くど)いように記憶の沼縁を辿り突(つつ)くと、危なげな誘いを繰り返した年上は中々狡猾に行為証のような手作りのバッジを丁寧に拵(こしら)えている。その秘密めいた薄紙には年下に与えて都度黙らせ言いくるめる聲が文字となって重ねられていた。

 盆地市街から北の峠へと分ける谷の右手白岩から立ち上がる里山三登山に連なる山麓の斜面の標高五百メートル付近には、高さ六メートル、径二十二メートルほどの、この盆地最大級の横穴式石室単独墳の籠塚(こもりづか)古墳があり四十年前に市の史跡に指定されている。扇状地盆地を囲むこうした里山には他にも古墳群があり三十年前の土砂崩れで地附山古墳七基の内五基は流れ去った。扇状地一帯にはおよそ千五百年前とされる古墳跡が散らばっている。豪族のようなものが集権的な物流の開始される前から安定的な住処として使われた環境だったと思われる。時には河川の洪水で流されつつ開墾と定住が現在の想像力を超える長さで続いたのだろう。盆地縁西から北を経て東へ立ち上がる里山の頂きは戦国の時代に下って城が築かれ睨み合いの先鋒となった。つまり里山は囲みの縁上から眺める場所であり盆地扇状地は眺められる場所としてその性格を濃いものとした。北上する谷左側頂上には四十五年前に霊園が開設され父親が長兄の伯父と此処に墓を購入し今では伯父父親叔母に順で三人がその中の灰となった。長男の伯父は戦地で受けた傷が理由の不妊を弁えた妻を娶ってから養子を考えたこともあったらしいが諦めて家督を放棄し次女の婿に家を預けた。齢の離れた末っ子の父親は生前自らの筆で「無」と墓石に彫った。この山の東脇から谷沿いを登る細道を進んで北へ回り込むと、谷が一旦深く落ち込んで北西の火山堆積の襞裾と結ばれ、その部分だけ粗方垂直な緩い凹凸を残した、いかにも修復時の事象認識の程度、危機への現実感の乏しさが知れる薄いコンクリートの被膜で覆った崖壁面に、辛うじて切り分け上昇を誘う歩筋の、大きく食い込んだ曲折襞の深さ百メートルは超える谷側には、所々ガードレールがあるけれども、経年の事故やら何かで生じた凹みが重なり残り、塗装が剥がれた部分から浸食した錆が老朽を加速させ、安心を預けるとか手を触れるには憚る観念的には嫌な場所であり保全にも難所と見受けられる。これは酷使するわけではない場所であるのだから、通常の使用頻度のそれではないから、と小さな修復の度に安普請を繰り返す誰かの声が余所者を追い払うように崩れた時間の中から頑固な謐きとなって聴こえてくる。雨水で露出した樹木根の張りに道筋の支えのほとんどを任せ、安直を放り投げた裾路を斜めに登る路肩縁の舗装面が嫌な深さでひび割れて、山側へ躙り寄るように避けて通り抜ける時には蟻の門渡りの記憶に触れ冷たいものが背を流れることもあった。登り口は野菜畑の縁道の構いない私道を匂わす風情であるので、ここからまさかどこかへ通じるとは思えない。最初に奥へ踏み入れた探索の際には行き止まりを戻るつもりがまずあった。土砂降りを前にする雪が消えた季節に到頭すっかり罅割れの五分の一がパズルピースの抜ける態で崩れ落ち通行止めとなる数ヶ月前から、更に登った「水」と「窪」の字を宛てられた二つの村の中間にある別の崖では、落石を収める為に崖そのものを大きく切り崩し土砂を運び去りつつ拡張する、幹線などのそれと比較すると交通量の少なさを鑑みてか、かなり待たされる交互通行の規制信号機が設置された修復工事が始まっていた。北の峠とダムが建設された幹線がこの危うい筋の両脇の谷沿いにあり、観光などにも広く利用される幹線は格上の県道であり二十年前のオリンピックの前に梃入れされている。主に二つの村の住人が代々手狭の農地にての農作業や買い出しなど生活に利用するばかりの細道が市街地と高原を結ぶ距離に渡って長期の復旧工事となり、この期間おそらく村人は西側のダムのある幹線へ大きく迂回することになった。こちらも車幅が増えた車に乗り換えたこともあり八つある下りの選択肢から暫くの間この筋は外していた。併し霊園の墓掃除にはこれが近道でありそろそろ修復が完了したかどうか様子を確かめるつもりを墓守の仕事に被せて早朝単車で走り入ってみると、幅員が補強拡張され、崖のせり出しを崩してネットで押さえつけるなどした幾つかの箇所の修復が終わり土木業務用の車両や器具も片付けられている。山襞でつくられた大小の谷やせり上がった峠のような際を曲がりくねって下から上へと繋げ保たれたのは、通商の利便ではなく信仰と逃走の千年以上の時間が、近代以降の植林などの作務や高原開発のゴルフ場建設を経て、点在する生存域を倹しく保守したことが理由と思われる。併し一体何故営みの家をこの場所に選んだのか。簡単には理解できないふたつの村にはそれなりの由緒があるだろうが、おそらくこの道のお陰で過疎廃村の道を選ぶ必要はなかった。似たような状況環境の地が西側には散在しているが、微妙な距離や地勢的な位置によって人気が絶えた場所もある。経済の隆盛を受けて舗装され利用の種類も豊富になりながら、但し細い林道にようなものだから対向車とのすれ違いはむつかしい。大型車の通行は不可能なので使用制限されているというよりも入口と出口を見れば侵入は即座に見切られる。侘び寂しい道の性格は残されたままとなる。時間をかけて洗練したルートとも考えられる絶妙な位置取りで標高差五百メートルを上がり下りして初夏を越えれば鬱蒼とした樹木のトンネルに触れながらくぐり抜ける、場所によっては襞筋を山頂から吹き下ろしが転がり落ちてきて砕け割れる場所があり、真夏でも冷えた大気の塊を突き抜ければ軀が軸よりぶるっと震える。市街へ降りる幹線の他に幾つかある作務林道のひとつのこの道に、サスケと名前を付けて使い始めると距離も時間も半分に短縮された。鮮少な客にこの道を教えると必ず試してくれるのだった。鹿ノ原、蛇崖、獣ノ円卓、熊通りなど勝手に名付けた樹木森の溜まりは、命名の所以が出食わした獣など手前勝手に細々とあったけれども、地勢形状の及ぼす場所の感触はそれぞれ独特なものであり、必ず鹿が現れ蛇が湧き出しフクロウとムササビが飛翔するわけではなかったが、久しぶりの走破は気軽な格好での単車だったこともあり、通り過ぎるその場所の性格が、身体に直に浸透するに任せた。なかなか筋肉質の大型の猪や熊も闊歩する獣道が筋に交錯し目撃しているので、まだ数えるほどだが最新の身支度で上り下りするアスリート風のランニングやら自転車の単独行者とすれ違うことがあると、他人事と見受けても気をつけてと声をかけそうになる。標高九百を超えた高原には戦後唐松が植林されているが、サスケを下る脇のほとんどは広葉樹の放置森林が広がり、樹間から溢れる陽光と陰が織り混ざって短い季節の間は瑞々しい。降雪の季節はふたつの村から上の雪掻きは行なわれないので、雪解けまで半年近く通行不可となる。唐松林帯には間伐事業のための大型車が幹線から迂回して間引きを行っていて騒がしく、どれほどのボリュームを間伐すれば気が済むのか場所の陵辱と感じることもあるが、サスケを下る山襞の広葉樹の豊穣は淘汰に任され奔放に放置されている。と眺めを放る度にベルリン郊外のヴァンゼー湖畔の自然の放置を憶いだす。洗練は制御整理を経てありのままへ解体する恣意の成熟が必要というわけだ。サスケの南東側には長い時間地を削った深い沢谷があり山襞はここで一旦途切れた形状をして別の隆起の峠へとまたせり上がって三登山へと続く。レモンのスリ皿の汁を貯める部分が高原となって平たく広がったその東に遠く河川に向かってなだらかに傾斜した地勢を牧歌的に熟成させた村々が続き、大気の澄み切った時は、四十キロ東の志賀高原山脈連まで明瞭に見渡せる。果樹園と水田が広がる傾斜地に一万人が暮らしている。数十キロ北の県境を超えると行成りコルホーズ宛らの海岸まで広大に続く新潟水田景よりも、巨神の掌(てのひら)とも眺めることができる地勢的形状に任せた田園と居住各戸の併置感、点在の仕方、上空が大きく反り返って虚空を湛える環境空間そのものが、まさか住まうとは思ってもみなかったと高原の縁から東へ広がる丘陵地を眺める度に、過去が丁寧に織られた未来でもあると瞳には映る。

町田哲也 Tetsuya Machida
1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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