ブーゲンビレア

文 / 備仲臣道

 頭の上で、湯気にくるまれたような、妙にくぐもった声がした。
「私の誠のしるし。いつもの所へつけておくわね」
「すぐに消えてしまうさ」
「いいえ。心の中にはいつまでも…」
 そう言ったようである。
 微熱があって体中がなんとなく締まりがないし、だるくもあったから、家中が出かけていったあと、また布団を出して寝ていた。そのうちに薬が効いたらしく、うつらうつらとしてどのくらいのときが過ぎたのかも判らない。玄関を閉めて出ていったような気配に、はっとなって目ざめると、いままでそばに誰かいたような気がしてきた。どことなく懐かしい残り香がしている。そう言えば、佳代と二言三言話したのが目を開ける直前だったように思えるのだけれど、それが夢の中なのか、実際にあったことなのかがはっきりとしない。
 びっしりと沁みているような冷えた汗が、どうも熱のせいだけではないようである。パジャマのボタンをはずして胸に手を入れると、右の鎖骨の下にさわるものがあった。少し赤くなっているのが、襟を開いて顎を引くようにして見た目にはっきり映った。やっぱり佳代がきたのに違いない。こんな所に好んで歯を立てるくせの女は、佳代のほかにはないだろうと思う。座りなおすと、シーツが乱れていて、やっぱりきたんだと確信した。それにしても、ずい分久しぶりで、この前会ったのが二月だったから、もう半年近くになろうとしている。しかし、こんなおかしな会い方をしたことは一度もない。面影を探るようにしていたら、後頭部を冷たいもので逆なでされたようで、力の入らない体が急に硬直したのが気持ち悪く、じっとしていられないように思った。

 去年の春が暮れるころのある昼下がり、玄関に人がきたので出て見ると、若い女が立っていた。深紅の蝶がびっしりととまっているような、美事なブーゲンビレアの鉢植えを抱えている。少年のようなショートカットが良く似合って、三十を過ぎたばかりらしい彼女は、くりくりした黒い瞳で、こっちをじいっと見ていた。白く光る八重歯を見せ、顔いっぱいで笑って、唇の上のほくろから清々しい色気が匂い立つようである。明るいブルーの半袖のセーターに包んだ小柄な体は、ゴムまりのように弾むのだろうと思えた。
 鉢植えを私のほうに差し出した手の華奢な指に、指輪もマニキュアもないのが、いかにも健康ではつらつとしているようで好ましかった。
「どうぞ」
 それだけ言ったけれど、なんで花をくれるのか、まるで心当たりがなくて判らない。ためらっているものだから、一歩前に出て鉢を私の胸の前に出した。
「私にくださるのですか」
 黙ったままで、こっくりと勢いよく頭を振って、またほほ笑んだ。
「きれいな花でしょ」と女は言った。「なんとも言えない、凄みのあるような赤さなのね。そこが好き」
「この花の原産地は南の島でね。その島では日本人が大勢の人を殺したし、日本人もたくさん死んでいるんだよ」
 なぜ、急にそんなことを言ってしまったのか、私にもまったく判らない。
「それじゃ、この赤は血の色なのか知ら。そんな…」
 女は顔をしかめて、鉢を私に押しつけるようにした。こちらへ受け取ったときに、思わず触れてしまった女の指が冷たいので、背筋にいやなものが走って、ぞくぞくと身震いがした。
 そのときのブーゲンビレアの女が、その後、しきりに私と交渉を持つようになった川澄佳代である。

 詩人や文人たちの集まりがあって、前から約束していたので昼過ぎから出かけていった。なんの目的というものはない、ただの飲み講で、会場のお城下のすし屋へ着いたときには定刻を少し回っていた。冷房の効き過ぎたような部屋に十二、三人が集まっていて、私よりもっとあとから遅れてきたり、中座して抜けていく者もあった。隅のほうでこまごまとみなの世話をしているらしい若い女がいて、どこかで見憶えがあるように思ったのが、佳代との再会である。向こうでは、私が入っていったときから判っていたと言った。
 会が流れて、駅前のざわざわとした喫茶店に入った。穴蔵のような店は、天井から煤が垂れていても少しもおかしくないほどに古ぼけていた。木のテーブルや椅子もすっかり角が取れて、手油が沁みているように思われる。隣の席へ私に抱きつくようにして佳代が座った。こちらを目でうかがって、うふっ、と言ったようである。
 あらかたの者はコーヒーだったけれど、私は車を運転しないから、酔いざましの必要もないので、ウイスキーの水割りを頼んだ。
「私もっ」
 佳代は私と同じものを取って、噛みつくような勢いで口に持っていった。かなり酔っているようであったが、私だって、いつも家で飲んでいる定量をはるかに越えて、目先の物がちぐはぐに見え出していた。だから、なにを話したということは、はっきりとしないけれど、三十分ほどしてその店を出たときに、佳代と二人だったことは確かな記憶がある。
 すっかり暮れた駅前の大通りの、事務所らしい所は表が閉まってはいても、商店の店頭に点っている灯が、ぎらぎらとして見えた。夏の宵の口だから、まだ人通りは引きも切らない。タイル張りの歩道がやわらかいようで、歩いてくる人を時々よけながらタクシー乗り場のほうへいくと、ついてきた佳代が私の腕にからみついてきた。
「よしなさい。知っている人にでも会ったらいけない」
「あら、あんなこと」佳代は陽気に笑って言った。「大丈夫。娘さんだって思うわよ」
 確かに娘はいるけれど、まだ三十までにはかなり間がある。それに、こんな風にして一緒に歩くほど仲良くはない。
「私、車できているの。お家までお送りします。だって、すぐご近所なんですもの。ご存知なかったでしょ」
 今度は私の腕を引っぱるようにして駐車場へ歩いていった。彼女の車を見たら、どんな家の、どういう立場の女なのかと思った。なんというのかは知らないが、大きな銀色のラジエーターグリルが優雅に張り出した黒塗りのセダンで、手入れが行届いていて塵一つ目に立たない。シートの色の趣味のいい落ち着いた気分が、持ち主の人格を見るようであった。
 走り出すと、佳代は家とは見当違いの方角へハンドルを切った。そのうち、どこをどう通ったのかは知らないが、いつの間にか市内をはずれて、川べりのほとんど灯りもない人気の絶えた道をたどっていた。なにもない所で停まると、前に据えていた目をこちらに向けて急にのけぞって笑い、それからまた走り出した。
「どこへいくの?」
「ちょっと寄り道」
 土手下の道に下りてから、佳代は甘えるような口調になって言った。
「ねえ、いいでしょ。ね」
 なんの意味か呑み込めないうちに、車は派手なネオンのある白い建物に近づいていた。そうして、部厚い暖簾のような、カーテンのようなものの下がった門を猛スピードでくぐって、薄暗い駐車場へすべり込んだ。
 佳代は二十歳も年下であるから若い。だから、そのあと私は、ほとんどおもちゃ同然に持ち扱われて、目の前がちらくらする思いであった。
 その夜、はじめて佳代のくせを知った。

 まだ開いている店もある表通りでタクシーを捨てた。終夜営業のレストランの看板の照明が切れていて、ちかちかと目にうるさい。明るくなったり暗くなったりを繰り返す駐車場の隅に、若い男女が四、五人たむろしているのが、浮き上がったり沈んだりした。夏の名残を惜しんででもいるかのように、まだ家へ帰りたくない風情である。
 四つ角を入ると、少し狭い道が東へ通っている。その道の右側を佳代と二人並んで陰の中へ入っていった。両側は普通の家ばかりで、商店がないからほとんど真っ暗である。佳代は、どういうわけか、きょうの会合へくるのに車に乗ってはこなかったらしい。それに、会がはじまったころは、しおれた菜のようにしゅんとしていた。なにがあったのか、余計なことと思うから聞かなかったが、いつかのように乱暴な飲み方はしなかったけれど、順にお酒が回ってくるうちに周りと同じように明るくなったからほっとした。
 きょうの彼女は、花を届けにきたときの軽装とは違い、きちっとスーツを着て、履いているのもゴム底の靴ではなくて、ヒールの高いパンプスのようであった。その靴の音だけが、闇に沈んだ二人の所在を示すようにかっかっと規則正しく響いた。
 五十メートルばかりきて四つ角に出た。そこを右へ曲がっていけば佳代の家がある。私の所へはそこからまだまっすぐに、かなりを歩かなければならない。
「暗いから家の近くまで送ろう」
「大丈夫。すぐそこだし、なれているから」
 佳代は右の手の平を見せるように胸の前に上げ、ひらひらと振った。半ば開いた口で、声は立てなかったけれど、またね、と言っているのが判った。
「じゃ、ここで、しばらく見ていよう」
 佳代は背を向けて闇へ踏み入ったが、その向こうの四つ角に灯があるから、そっくりシルエットになって浮かび上がっている。固い靴音が冷たく響いて少しずつ遠ざかっていった。
 明るい角を過ぎると闇の中で見えなくなったが、靴音だけは小さくなっても聞こえてくるから、まだ歩いているのだと思う。そのうち、門柱の上に灯がついている所へ出た佳代は横顔になっていた。こっちへちょっと向いたと思ったら、すぐに灯りのほうへ向き直り、おやっと思ううちに掻き消えるように見えなくなった。
 少し風が出てきたらしい。通りを吹き抜けていく音を聞きながら、家へ向かって歩き出した。自分の足音がどこか頼りなげで、足許もおぼつかなかった。遠くの窓の灯がちらちらとして、秋にはまだ早いのにしきりと人恋しいのは、佳代となにもなくて別れたからだろうと思えた。過ごした酒が、吐き出した無駄なおしゃべりへの悔いとともに、喉の奥でしこっている。

 秋になろうとして、陰の中の佳代を見送った日から一年近くになる。今年は季節の移ろうのが早いらしく、もう身を縮めたくなるような風が町を渡っていた。
 七月のあの朝以来、たびたび理由の判らない熱が出て、きょうも午前中は汗の寝床に伏していた。午後になって熱が少しは引いたようだったから茶の間へいって座ったが、なにをしようという気もしない。そのうちに佳代のことが、つぎからつぎへと思い出されては消えて、ずっと連絡がないけれど、どうしているのか知らと思ったら気が気でなくなってきた。いらいらして、じっと座っていることもできない。取り返しのつかないことを思い出して膝を打ってみたり、苦々しい気持ちになったりして、しまいにはお尻の辺りがじりじりして焼けついたようになった。
 思わず立ち上がってみても、どうするということもできない。二人が会うときは必ず佳代から連絡があったので、私から電話をかけたことはない。しかし、いまはこんな時分だから、佳代のご主人はなにをしている人かは知らないけれど、家にはいないに違いないと勝手に決めて電話の所へいった。ダイヤルを回すと、果たして出たのは男の声である。そのまま黙って切るわけにはいかないから名乗ったら、向こうでは意外なことを言った。
「お噂はうかがっております。いつも佳代がお世話になっておりましたそうで、ごあいさつもいたしませんでしたけれど、私が佳代のつれ合いでございます」
「それで奥様は…。確か二月以来、いつものお集まりにも顔をお見せにならないようですから、ちょっと気になりましてね」
 どう話してあるのかが判らないから出まかせを言った。二人の間にはブーゲンビレアの日以後のことしかつながりがなく、間をつなぐ人脈もない。
「はあ、それではご存じなかったのですか。もっとも、私からなにも申し上げておりませんでしたから…」
 少し言いよどんだあと、ご主人は何度も同じことを人に説明したことのあるような、なめらかなリズムになり、抑えた調子の声で言った。
「この春先に急に倒れまして、いえ、意識はあったのですから、こちらの言うことはなんとか判るらしかったのですが、なにしろ言語中枢をやられたということで、向こうの思っていることが判りませんまま、寝たきりになってしまいました」
「前からどこかお悪かったのですか」
「いいえ、それが少しも思い当たるようなことはありませんので、なにしろ急なことで。私も会社のことがあるものですから、つきっ切りというわけにもいきません。そのまま病状は深刻になるばかりでしてね」
「それはご心配ですな」
「それが…」少し声の調子が変わったと思えた。どこか重いものを含んだように聞こえる。「良く、病人は一度はいい所を見せるなどと言うではありませんか。七月の中ごろの朝でしたが、会社へ出る前に病室へ立ち寄りますと、佳代がベッドの上に起き上がっているのです。しきりにしゃべるような手つきをいたしまして、驚きましたけれど、同時にうれしくて、どうしていいのか判らない思いでした」
 そこまで言って言葉に詰まったようである。
「それが、午後にはもう元のようになってしまって、それから三日もしないうちに…」
 息を引き取ってしまいました—─と言ったときには涙声になっていた。
 七月の朝という言葉が、目まいのするような光を放って、目の先をぐるぐると回り出した。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp