存在と偽装—超複製技術時代の芸術作品III <<貧しさ>の表現としての女性表象①>

文 / 服部洋介

三石友貴『わたし』(2017)より
インスタレーション 写真
ホクト文化ホールギャラリー

 「視る」という〈暴力〉と、「視られる」という〈被-暴力〉の間にある奇妙な権力関係を分析することは、『存在と偽装』のそもそものテーマであった。フーコーの区分によれば、それは、〈能動的で主体的なもの〉と、〈受動的で客体的なもの〉という二項対立によって表現される社会秩序と結びついている(*1)。それは、男性が支配する社会においては、成年男性が勃起し、自らの性器を劣位にある他者(長らく女性のほか、若年の男性もその対象に含まれた)の身体に挿入する権力という端的な形で表象される、といわれる。社会における性的な主体は成年男性であり、それ以外のものは性的客体、つまり欲望の対象として欲望の主体に従属するものとして位置づけられてきたというのである。したがって、〈視る者〉とは成年男性のことであり、それ以外の者は〈視られる者〉として、〈視る者〉の視線によって一方的に表象され、自身の手で自身を記述する権利を奪われてきた、ということになる。「『男によって書かれた女についての表象』は、女についてどんな『事実』も伝えないが、男が女について何を考え何を幻想しているかについての男の観念については雄弁に語る」(上野千鶴子)(*2)といわれるゆえんである。そこで、あるフェミニズムの流儀においては、女性をセクシュアルな存在として描くことを拒絶しようとする動向を生じることになる。ジェレミー・ウィルソンは、米国におけるフェミニスト美術について、次のように俯瞰する。

     何世紀ものあいだ、美術館の壁や美術の物語から閉め出されてきた女性美術家たちの失われた歴史を埋めるため、現代のフェミニスト美術では焦点が変わっている。女性の形や容姿はもう男性のためのテーマではなく、ニュートラルな主題でさえなくなった。ジュディ・シカゴ、ルイス・ブルジョワ、最近ではヘレン・チャドウィックらは生物学的、心理学的、社会学的な研究の場として女性を探求しはじめた。官能性は抑えられ、男性支配にたいする脅威としてふたたび現れた。女性の身体と精神は男性ののぞき趣味的楽しみのテーマではなくなり、科学的ともいうべき探求の主題となった。ヘンリー・ムーアの彫刻に見られるような、伝統的な(男性の)母子関係の見方による感傷性は、メアリー・ケリーのような詳細な社会学的、文化人類学的なアプローチに変わった。(*3)

 このようにして、支配される側として規定された女性たちは、貶められた〈裸体〉として、男性たちの視線によって、くりかえし、レイプ的に表象され続けてきた、というのである。フェミニストは、そのように規定された女性の〈役割〉に異議を申し立てる。それはそれでもっともなことのように思われる。
「裸にするということは、十全な意味をもつ文明の見地から眺めるならば、少なくとも危険性の少ない殺人の等価物である」(*4)というバタイユの定式に照らせば、〈裸体〉として表象されるものは、いわば生から見放され、貶められ、モノのように扱われるナニか、ということになるであろう。裸にされるもの、それは〈支配する者〉ではなくて〈される者〉である。この定式にもとづき、裸体化される者は〈支配される者〉の側にあり、暴力の被害者であるとする〈視線〉が一つの立場を形成してきた。あるものを裸体として表象することは、そのあるものをモノのように扱い、そのあるものへの差別や迫害に加担することと考えられてきたのである。
 この場合、長く有効とされてきたのは、〈支配する者=男性〉〈される者=女性〉という図式であった。そして、支配側の男性が、女性を裸体として表象すること、とりわけ性欲の対象として一方的に表象することは、支配者側の、その支配されるあるものに対する特権の行使であり、女性の裸体を性的な〈表象〉として消費することは、女性を男権側の〈視線〉において画定することにほかならず、男性支配の上に成り立つ一つの暴力である、とされてきたのである。あるものの〈表象〉を消費するためには、その〈消費する者〉が〈消費される者〉に対して、社会的・経済的に優位な立場を占めていなくてはならない。つまり、男性視線の女性表象が大量に生み出され、当の女性自体を不可視の〈不在〉へと追いやるのは、男性社会に特有の現象ということになるのである。
 男性の裸体が、あらゆるメディアにおいてマージナルなものに留め置かれているのとは対照的に、被支配者としての女性の裸体は、その表象されるということにおいて男性のそれよりもはるかにメジャーなものである。「裸婦=ヌード」という言い方はあっても、「裸夫」という言い方はない(わざわざ断って「男性ヌード」などと呼ぶこともある)。これは奇妙な転倒である。男性の裸体は、あたかも表象することを禁じられた聖像のようである。これは、男性優位のヘテロセクシズムに基づく社会において、男性の裸体が女性のそれほどには需要をもたなかったことを意味するように思われる。(*5)。また、男性優位の社会において、男性自身が〈視られる側〉〈挿入される側〉へと転落すること(つまり男娼となること)が、もともと性的な客体として位置づけられていた女性が娼婦となるよりも大きな社会的非難を受けた(*6)のも、同じ理由によるものと思われる。
 被支配者の表象を消費することができるのは、ほとんどの場合、支配者である。反対に、被支配者が支配者を勝手に表象することは、通常は許されない。かつての「菊のカーテン」がそうであったように、最高の権威者である天皇は、公共世界においては〈不在〉として示されるか、そうでなければ御真影のような定まった形式でしか表象されることを許されなかった。柳亭種彦が『偐紫田舎源氏』(1842)を書いたとき、大奥をモデルに作品を書いたと因縁をつけられ筆を折らされたのも、つまるところ、日本の統治者である将軍を勝手に表象したことを咎められたものであった。つまり、〈表象=消費〉しえないところをもって、その人が尊貴であるということが示されるのである。
 一方で支配者は、被支配者の実体を自分たちにとって都合のよい表象に置き換え、モノのように消費することができる。男性社会において女性を表象しようとすれば、「女性の役割を男に隷属させ、セックスを描かせようとする主流派」に迎合することを余儀なくされる、と笙野頼子は言った。収奪する側が女性に求めるのは「妻、母、娼婦」ばかりで、とどのつまり、そこから外れた女性表象に社会性が付与されることはないというのである(*7)。このような形で、被支配者の表象は、支配者側の欲望を反映する形で価値の転倒をもたらす。ここで裸体として表象されるものは、女性の〈性〉ではなくて〈性暴力〉だと笙野は指摘する(*8)。つまり〈性暴力〉こそが、社会における女性表象を価値化し、当の女性自体を脱価値化しているのである。男性の裸体が商品とはなりえず、もっぱら女性の裸体に商品価値が集中することになったのもそのためである。これは単に、成年男性に性的客体としての魅力が乏しかったことを意味するものではない。現に、近代に登場したゲイにおいては、成年男性同士の間で対等な性的関係が結ばれる。前近代においてこのようなことが許容されなかったのは、成年の男性が性的な客体となることをタブー視する観念があったためと考えられている。それは男性優位の年齢秩序を動揺させるものであるからだ。中世、鴨川の不課税地帯に逃げ込んで被差別民のコミュニティを形成した河原者たちが生活の手段としたのが、売春と芸能であった。ところが、上のような理由で、男権社会にあって売春で稼ぐことができるのは女性だけであったから、男性は芸能で生きていかなくてはならなかった(*9)。
 このような事情から、女性が自らの裸体を呈示するということは、当の女性が、貧しく卑しい、蔑まれるべきものであるという、男性による差別的視線を自ら再表象するものであり、男性がカネと権力にものをいわせて女性たちに強制したこの画定に迎合するものであると糾弾されてきた。それは売春と同じで、形骸化した〈性的自己決定〉にもとづく選択であるとされる場合が少なくない。「女性の賃金が男性に比べて不当に低い現状で、ほとんど唯一の高賃金を得られる売春を〔職業として〕選んだとして、それは本当に〝自由意思〟による選択と言えるのか」という議論は、その一つの典型である(*10)。金早雪は、この問題を「よしんば〔男性が女性を〕買う自由があるとしても、売る側が同じく自由な経済主体であるとは限らない。古今東西、こと売春業においては、自発的で自由な性労働者だけで売り手が構成されたことは一度もなく、売春業界はなべて古典主義的搾取構造に依拠していると言って過言ではない。末端の「商品」のガラス・ケースの向こう側のこうした事情は、さして見えにくいものではないはずである」(*11)と要約する。もっとも、売春に限らず、私たちが何をおいても働かなくてはならないのは、その〈貧しさ〉のゆえであって、〈労働〉といっても、それは豊かであればしなくてもよい〈苦役〉を正当化するために与えられた美名にすぎない。肥大化した労働によって、私たちは自らを明け渡し、断片化し、画定し、差別する。もし、経済的劣位に置かれた女性がする売春を一つの強制売春と捉えるならば、私たちが好んでするのではないあらゆる労働も、同様に強制労働である。反対に、〈支配-従属〉の関係にとらわれることのない真に自発的な〈性的自己決定〉にもとづいて行なわれる売春を自由なセックスワークと呼ぶならば、同じようにして行われる〈労働〉もまた自由な〈労働〉ということになるであろうが、真の〈自由〉が現前するものか否か、私にはまったく答えようがない。そして売春は、それが男性視線の女性表象に留まる限り、当の女性側がどう主張しようとも、社会的〈労働〉とは見なされないという、二重の差別にさらされることになるのである(笙野が指摘する通り、それは〈労働〉に属するものとは見なされない〈母〉や〈妻〉と同様の女性表象である。自由や権利は、男性が支配した〈労働〉の領域において疑似的に獲得されるものであるからだ)。
 ところで、被支配の側に置かれた女性の裸体が長く商品価値を勝ち得たことは、当の女性の〈視線〉を男性側のそれへと同化させる役割をも果たしたと考えられる。もし女性が、男性側の需給関係をもとに、男性の裸体を〈表象=消費〉することをタブー視するようになったとすれば、それは一つの皮肉である。論理的にいえば、男性支配が排除された社会(おそらく、そこでは男性の経済的優位を保証し続けてきた、従来型の〈労働〉はすでに終焉している)において、女性たちにも男性の裸体を自由に表象し、消費する権力が与えられるのは必然のなりゆきであるはずだ。女性の性的な身体は彼女自身に帰属するものであって、男性に帰属するものではない。そこでは「自分の快楽としてのセクシュアリティーヘの要求」(*12)が認められてしかるべきなのだ。したがって、貞節(性を知らないこと)と純潔(夫にのみ忠実であること)という家父長制の倫理綱領に女性が従う義務はない(*13)。女性の従順さ、やさしさ、平和主義、平等主義、非暴力的態度といった美質は、皮肉にも男性社会がマージナルなものとして女性に割り当てたものであり、男性側の権力が崩壊すれば、男性の支配力が衰退した分だけ、女性が権力的かつ暴力的になるという予測を排除することはできない。これを防ぐには、権力と暴力それ自体を非合法化する以外に方法はない。
 「裸体すなわち被支配、被害、被虐」という定式は、裸体そのものが忌むべきものであり、卑しまれるものであるという通念を抜きにしては発想されえない。もし、その通念を生み出したのが男性支配の歴史であるならば、男性支配の終焉とともに裸体の定式も変更されてしかるべきである。そこでは、女性が裸になるということは、必ずしも男性による支配や強制を意味しない。それは被害や被支配の表象ではない。したがって、売春もまた一つの〈労働〉として認知されなくてはならない、という考え方があらわれる。あるセックスワーカーが、次のように言っている。現状、セックスワークに従事することは、本人の認識とは無関係に「(…)暴力に甘んじる弱者として同情されるか、その暴力に加担する、フェミニズムへの裏切者として非難される」(*14)ことを意味する、と。三石友貴の作品『わたしのためのアート 第3回』(2017年、前稿参照)に寄せられた「メディアにおいて女性を裸体として表象することは女性の性を商品化することであり、女性を貶めるものである」(*15)という忠告は、こうした非難の典型的なものの一つである。もちろん、この忠告は的を射たものだ。人前で裸体をさらすという行動は、将来における彼女の恋愛や結婚を時に困難なものにするかもしれない。これは、裸体になるということが、かつての河原者のような目で見られ、蔑まれるということを意味しており、また、ここで想定される将来の恋人や婚約者も、このような差別的な価値観を当然に共有しているという事実が、暴露されることになるのである(*16)。このような観念が、女性が自身の身体について表現することを禁圧しているのである。
 裸体化が、性的な自己決定において選択されたものであるのか、そうでないのか、それをその表象から読み解くのは不可能である。遠藤麻衣が『アイ・アム・フェミニスト!』(2015年、前稿参照)で示したように、あるものの〈表象〉は無限の〈入れ子〉構造になっている(*17)。そのような〈裸体〉という表象を、読み解き、意味化するものが〈視線〉である。ある支配的な〈視線〉は、事実に先行して記号表現に特定の、マクロな意味を割り当てる。そのとき、もし「裸体」という記号表現が「被害」や「被支配」をその意味内容とするならば、その記号関係が対称的なものとされ、平衡を保ち続ける限り、裸体になるということは社会的な悪(そのような状態に陥ることが忌まわしいものと画定される、その状態)と見なされ、その動機にかかわらず、蔑視の対象となり続けることになるであろう。そして皮肉なことに、そのような形で日常を逸脱し、超えているがために、男性中心の美術史において、女性の裸体というモチーフは、特異な地位を勝ち得てきたともいえるのであろう。結果、男性の美術モデルは商売あがったりということになってしまったのである(もっとも、視覚を中心とする男性特有の性欲の構造がこうした女性表象を作り上げたのだとすれば、仮に女性支配の社会が到来しても、女性は男性ほどには異性の裸体を〈表象=消費〉することはないのかも知れない。だとすると、しばしば女性の画学生から男性モデルが拒絶の憂き目にあうのも、文化的・社会的な〈視線〉の問題というよりは、脳下垂体の構造の問題ということになるのかも知れない)(*18)。

三石友貴『わたしとあなたのベッドイン』(2017)
パフォーマンス ホクト文化ホールギャラリー


 男性視線が生み出したとされる女性表象を、当の女性自身の〈視線〉が生み出した自己表象とどう区別すればよいのか。表象を読み解く〈視線〉は単一ではなく、それらが交わる場所でなされる解釈もまた複数的である。男性が表象する女性の裸体と、女性自身が表象する女性の裸体を区別すること、それも一つの差別であると、三石は考える。彼女の行なった〈ベッドイン〉パフォーマンス(『わたしとあなたのベッドイン』2017年)も、男性の側が行なえば女性に対する性暴力を芸術という名目を借りて正当化する露悪的なパフォーマンスと見なされるであろうが、当の被害者である女性自身が行なう分には性的な自己決定にもとづくものであるとして許されるというのも、同様に一つの差別である(*19)。このようにして、女性の裸体は、糾弾すべき男性支配の存在を示す表象として、都合よく祭り上げられてしまうのである。
 じっさい〈裸婦〉が、男性側に支配される女性の表象なのか、女性側の自己決定にもとづく自己表象なのか、それを表現された〈かたち〉のみをもとにして読み解くことはできない。この二項対立はアイロニカルな〈偽装〉によってイリュージョンと化し、一つのゲームへと転化する。表象はどこまでも人を欺き続ける。したがって、表象としてあらわれる裸体というもの自体に何か真に固有な意味があるとは思われない。そのもっとも表層にあるもの、その〈かたち〉、その〈名〉、それ自体を軽やかに体験すること、そのもっともシンプルな欲望をそのままに肯定すること、それがより単純に、より際立って根源的に〈ベッドイン〉を〈ベッドイン〉させることなのだ。
 その一方で、三石は、イメージの世界において周縁化された〈裸夫〉というものを、表象として復権させようとする。公共の場において女性の身体というものが隠蔽され、不在化するのに対し、男性の身体が公然と存在することを認められているのは奇妙なことである。しかし、この隠蔽するということにおいて、女性の身体は神秘化され、価値化されるように見えるのも同様に奇妙なことである。価値と差別は奇妙な共犯関係にある。公共の場において希少であることによって、非公共的な空間において被差別的な価値を与えられるもの、それは公共の空間において有標のもの(女社長、女医などの言い方は有標のものの一例である)でありながら、非公共の空間において無標(裸婦など)のものとなるナニモノかである。そして、公共の、権力の空間において有標のものであることは、そのマージナルな特異性のためにある種の芸術作品のテーマとして頻繁に描かれることになる。そして、そのような作品世界において、その特異なものは、その背後にある後ろ暗い空間における無標性を公共の空間へと押し開くのである。作品はこのようにして秩序ある権力の空間を侵犯する。性的な芸術において男性が裸体化されることは、公的な世界における男性の支配者としての立場を動揺させることを意味する。そして、公的な場において女性が自らの身体を隠蔽から解き放つことは、自身を公的に無標化すること(当たり前のものとすること)であり、その特異性を放棄することを意味する。このようにして、女性の身体は〈不在〉〔l’absense〕から〈現前〉〔la présence〕へともたらされるのである。このようにして、女性は、理解され、配慮されるべき〈特別なもの〉ではなくなるのである。公共の空間において、女性の身体が男性の身体と同等のものとなること(たとえば、女性の乳首が特別視されないこと)(*20)、あるいは裸体に対するオープンな視線(*21)を、三石は要請するのだ。
 ここで三石が問題とするのは、「女性の身体に対する社会的保護」と一体のものとして語られる「女性の身体に対する社会的抑圧」という、二重の差別構造にほかならない。裸体化という〈性暴力〉から女性を保護しようとするという発想は、男性による女性支配を前提としなければなしえないものである。性的な行為が暴力的に、すなわち〈性暴力〉として降りかかるとき、性的な表象が現に被害者性を意味するものとして苦痛とともに立ち現れるということは考えうることである。しかし、三石自身がいうように、その定式を一般化することは、かえって女性の身体の全体を隠蔽し、抑圧することにつながりかねない。女性の裸体はニュートラルなものでなくてはならない。それは、性的であるということが、本来ニュートラルであるということにほかならない。
 しかし、すでに前稿で指摘したように、混質的で情態的な根源性から、〈偽装〉されたものが眼前事物〔Vorhandenes〕的に、あるいは日常的な〈手許のもの〉〔Zahandenes〕として、私たちの前に切り出されるとき、存在は理論的に、ないし道具的に把握されざるを得なくなる。それは明確に画定され、そのうちのあるものは表象され、そのあるものは不在化される。呈示可能なものは常に〈偽装〉された表象にすぎないが、作品は現にあるものの表象としてしか存在し得ないのも事実である。
 表象しえないものと表象を禁じられたものは密接に関係している。もし〈表象されるもの〉の不在が暴露されるならば、その〈表象するもの〉はいったい何を表象しているのか、その正当性が問われることになるであろう。〈表象するもの〉が真なるものとされるのは、その外形が〈表象されるもの〉といかに一致するかによっている。その〈表象するもの〉が〈されるもの〉とほとんど無関係ということになれば、その〈表象するもの〉がテーマとするものは、ほとんど茶番ということになるであろう。

ウジェーヌ・ドラクロワ
『サルダナパールの死』
(1827)
キャンヴァスに油彩
390×490cm
ルーヴル美術館
Delacroix, Eugène, Death of Sardanapalus, 1827 oil on canvas
390 × 490 cm
Louvre Museum, Paris, France
From Wikimedia Commons
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Eugène_Delacroix_-_La_Mort_de_Sardanapale.jpg


 このことは、時折、倫理的な様相を帯びるようになる。たとえば、ドラクロワをはじめとするオリエンタリズムに彩られた19世紀的な女性表象(「異教徒たちによって残虐な暴力を加えられる異人種の女性」という表象)(*22)は、男性の攻撃性のはけ口として、女性(と「野蛮な」東洋人と黒人)を被支配の側に規定するものとして批判の的となってきた(*23)。なるほど、それは西欧男性の視線に偏った一面的なものの見方であろうし、そうであれば、それは、男性の攻撃的な嗜好を満たすために女性をいいように表象した最低最悪の作品といえなくもない。だが、もしそうだとして、この表象なくして、この作品はいったい何だというのであろうか? このような欲情を、何か芸術的なものから切り離すことによって、そこに何が残るというのであろうか? 表象は、その〈表象されるもの〉自体とは無関係である。そのことが自覚されるならば、芸術のような〈虚構〉において何が描かれようと、それが〈表象されるもの〉を時間錯誤的に再規定することはない。ところが往々にして現実の社会では、表象が〈表象されるもの〉に先行し、表象の体系が現実の意味を読み解くためのコード表を提供することになると言われるのである。結果、男性支配の社会においては、通時代的にレイプ神話が蔓延し、男性による女性への暴力が正当化されてきたと言われるのである(*24)。男性が女性をどう表象しようが、それは自由である。女性が男性をどう表象しようが、それも同様に自由である。しかし、それらはいずれも〈虚構〉である。誰が何を表象しようと、そこから差別を取り除くことはできない。このような誤りを含む以上、表象としての芸術作品を、〈表象されるもの〉との正確な一致において真なるものと見なすことはできない。それはすでにハイデガーの指摘する通りである(*25)。
 差別は「ある」と「ない」、「する」と「しない」の間で常に揺れ動いている。それを明確に意識するときもあれば、あたかもそのようなものが存在しないかのように忘却されているときもある。人生の全瞬間において、自らとは異なるものを何の差別もなく受け入れている、などということは、それほど一般的なことなのだろうか? また、そのようにしてあらゆる差異を消し去ることが、果して強制さるべきことなのだろうか? そして、その「差別がない」ということは、まさに差別の存在しない瞬間において現前するのではない。「差別のない」ということは、その「差別がある」とき、まさにそれが問題となり、葛藤が惹き起こされるさなかにおいて、強く予感されるのである。
 しかし、真に差別が現前するとき、人は「差別をしている」ということすら忘れているにちがいない。「空気がある」ということは、空気のないところに行かなければ主要な関心事とはならぬであろう。「空気がない」ということによって、「空気がある」ということが際立ってくるのである。ゆえに、忘却が根源的であるとき、それは「空気のある/なし」を超えている。ゆえにそれは、空気について何事も語らない。ゆえに、表象の根源的な先決条件とは、まさにその「差別のある/なし」ということに存するのである。「空気がある」という「当たり前」の環境では意識されない空気というものの存在は、「空気がない」という「当たり前ではない」環境において際立つ。同じように、もし「差別のない」世界において、かえって差別が意識されるとするならば、「差別のない世界」が「当たり前ではない」ほどに、「差別のある」世界が「当たり前」のものとなっているということを意味するはずである。これも一つの忘却の様式であって、意味同化の中心において、差別は巧妙に不在化されるのである。
 この比喩によって、三石がなぜ〈わたし〉を浮かび上がらせるために他者の〈視線〉を必要とするのかが理解できるであろう(「思いがけないわたしが他者に見られることで現れる」(『わたしのためのアート 第3回』)。それは、自己表象が〈わたし〉にとって「当たり前」の自己画定であり、「当たり前」の自己差別であるからだ。人は自身が自身を差別していることに気づかない。自身の自身による自己規定としての差別が無効化されるとき、すなわち、他者からの〈視線〉によって自己が差別的に規定されるとき、あたかも人は水中で空気を求めるようにして、他者のうちに〈わたし〉を際立たせるのである。このような形で〈わたし〉は〈露開〉されるのである。それは  〈わたし〉とは無関係なものという意味で〈偽装〉された表象である。しかし、〈偽装〉によってこそ、直接には示されえないものが仄めくのである。
 〈表象するもの〉は、原理的に〈表象されるもの〉とは無関係に(つまり差別的に)しか〈表象されるもの〉を表象しえない。表象は、〈表象されるもの〉と無関係であるからこそ表象である。というのは、記号がその代理表現であるのと同様、表象は〈表象されるもの〉の不在の上にこそ成り立っているからである。ゆえに、表象は〈表象されるもの〉から超出されるのである。たとえば写真は、その被写体を超えて(良し悪しは別として)それを表象する。絵画も同様である。作品は作者のうちにあるものの単なる代理品などではない。たしかにそれは、作者を超え出ることによって魅力的なものとなる。このことは、産業技術とは異なり、芸術の目的が往々にして曖昧で、その実践が〈遊戯〉〔Spiel〕に近いものであるという事情と無関係ではない。コリングウッドは〈技術〉〔羅:ars、古希:τεχνη〕について「あらかじめ構想された結果を、意識的に統御され方向づけられた行為によって作り出した力」と規定し、「この技術の観念を真の藝術の観念から解きほぐすことが必要である」と言った。したがって「技術家はものを作る前に、自分が何を作りたいかを知っている」(*26)ということになるのである。反対に言えば、「芸術家はものを作る前に、自分が何を作りたいかを知らない」ということになるであろう。デュシャンは次のように言っている。

     ものを制作する芸術家は自分が何を制作するのか何もわからないし、自分が何を制作するか何ひとつ理解していないのです。(…)芸術家は一番最後になって、自分がつくるものを判断できるのです。ですから、あなたがすべての芸術家にそれを尋ねたら、彼らはこう言うでしょう。私はばかです、私は何も分かりませんと。

     だからこそ、もし自分が何をつくっているのか理解するのを放棄してしまうようなこうしたやり方をあなたが受け入れると、あなたは自分がこれからつくることの中にますます奥深くへと没入することになるでしょうね。(*27)

 ガダマーは、芸術作品を構成プランにもとづく構成物ではなく、〈形成物〉〔Gebide〕であると見た(*28)。すべての作品がそのように作られているとは言わないが、できあがってしまったものの結果として、表象としての作品は、作者と鑑賞者による〈純粋な意味統合〉〔Shin integration〕に抵抗し、意味の〈組立て〉〔Gestell〕を拒むのである。
 ところが、実際のところ、表象は何かしら通約的なものに翻訳され、概念的に把握されざるを得ないという事情がある。裸体化した三石の表象がいかにして読み解かれるか、それは解読者の規定次第である。ある者がそれを女性の身体性に対する侮辱だと規定するのは自由である。また三石が自己の表象を女性の身体性を解放するものであると規定するのも、同様に自由である。しかし、もし前者を一つの差別であるとするならば、その規定するという行為において、後者も同様に一つの差別である。この規定が下される以前のもの、つまり、〈表象されるもの〉であるところのものが未だ誰にも〈視られる〉ことのない状態にあるとき、そのような自己は超越的な〈不在〉としてあらわれることになる。しかし、前稿で述べた「あるものが現前しないとき、そのあるものはかえって根源的に知られることになる」という定式を当てはめるならば、〈表象されるもの〉の不在は嘆くべきことではない。むしろ、他者の視線にさらされること、他者の視線の過剰な現前によってこそ、表象されるべき自己が生き生きと浮かび上がるのである。この脱自的〔ekstatisch〕な過程を、ハイデガーは〈意欲〉と呼ぶ。それは〈開-鎖性〉〔覚悟性(Ent-schlossenheit)〕とも言い換えられる。それは「何かの主観によって決断された行為ではなく、存在するものにとらわれている在り方から存在の開けへと現存在を開けること」であると説かれる。それは芸術作品の創作といかに関わるのか? ハイデガーによると「創作においても、いま言及された意欲においても、自己自身を目標として設定し、その達成に努めるような主観の遂行や行為のことが考えられているのではない」という。「意欲とは、実存しつつ〈自己自身を超え出ていく〉冷静な開-鎖性」(*29)なのである。その過程において、芸術家は「作品に比して何かどうでもよいものにとどまる」のであり、「創作にさいして作品の発現のために自己自身を根絶する通路のようなものとほとんど同じである」(*30)とされるのだ。
 この種の芸術において、作者の自己が主体の座から転落し、〈視るもの〉から〈視られるもの〉へと転位する〈哲学的ナルシシズム〉が遂行されるという定式については、すでに見た(*31)。そこには他者の過剰な視線が自己を浮かび上がらせるという奇妙な倒錯があるのである。

〈Ⅳへと続く〉

(*1)ミシェル・フーコー『同性愛と生存の美学』哲学書房、1985年、23頁。
(*2)上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』青土社、1998年。
(*3)ジェレミー・ウィルソン「歴史/記憶/社会」(イウォナ・ブラズウィック、サイモン・ウィルソン編『テイト・モダン ハンドブック―モダン・アートは何を語るか』五十殿ひろ美訳、ミュージアム図書、2002年、87~88頁)。
(*4)ジョルジュ・バタイユ「エロティシズム」『澁澤龍彦翻訳全集13』澁澤龍彦訳、河出書房新社、1997年、28 頁。
(*5)もっとも、江戸時代には若衆との男性同性愛を描いた春画がベストセラーとなったという報告もある(Leupp, Gary P. (1997). Male Colors: The Construction of Homosexuality in Tokugawa Japan. University of California Press. pp. 88.)。若年男性を対象とする男性同性愛は、前近代の社会においては普遍的なものであった。しかし、男性同性愛の描写が春画全体において占める割合は3%に留まり(鈴木堅弘「図像の数量分析からみる春画表現の多様性と特色—江戸春画には何が描かれてきたのか—」『総研大文化科学研究(7)』所収、2011年)、男性社会における男性売春は、基本的に女性売春に比べて需要が小さく、安価でもあったようだ。なお、女性を性的主体とする若衆買春については田中優子と白倉敬彦が『江戸女の色と恋 若衆好み』(学習研究社、2002年)で指摘しており、江戸期の女性のセクシュアリティについて再考を促す視点が含まれている。
(*6)匠雅音『ゲイの誕生 同性愛者が歩んだ歴史』彩流社、2013、198頁。
(*7)男性視線の女性表象を描かない作品は「(主流派やマスコミ編集者から)難解だといわれるだけではなくて、(…)社会性がないとすら言われてしまう。しかし連中が社会性というのは所詮、男とセックスしてそれを迎合的に書く能力にすぎない(…)」(笙野頼子「「フェミニズム」から遠く離れて」北原みのり編『日本のフェミニズム since 1886 性の戦い編』、河出書房新書、2017年、109頁)。この事情は、あらゆる周辺化されたものすべてに当てはまる。デリダは「いわゆる「難解な」探求、イメージ通りのステレオタイプに逆らうような、こうした形でその「平均」において表象された文化の諸規範に従順でないような探求は舞台から排除されます。隠蔽され、日=光明を奪われるのです。そのために、こうした探求は次第にひとから、「晦渋な」、「難解な」、さらには「読めない」ものと判断されることになり、こうして「ひと」が言う通りのもの、望む通りのもの、つまり近づき難いもの等々になってしまうのです」と言っている(ジャック・デリダ「日延べされた民主主義」『他の岬 ヨーロッパと民主主義』高橋哲哉・鵜飼哲訳、みすず書房、1993年、99頁)。
(*8)笙野、同書、109頁。
(*9)渡邊昭五『中世浄土教の胚胎―院政期の思想・風俗・文芸―』岩田書院、2004年、60頁。
(*10)水島希・渋谷知美「性的サービスの提供は「労働」としてどう考えたらいいか」アエラ・ムック『ジェンダーがわかる』、朝日新聞社、2002年、62頁。
(*11)金早雪「解題」申蕙秀『韓国風俗産業の政治経済学 従属的発展とセクシャル・サービス』金早雪訳、新幹社、1997年、247頁。
(*12)ジョヴァンナ・フランカ・ダラ・コスタ『愛の労働』伊田久美子訳、インパクト出版会、1991年、70頁。
(*13)アイスラーは、貞節と純潔を命より重いと見なす価値観は家父長制社会に一般的なものであると指摘する。若桑みどりはその背景について「女性が、生命を生み出す道具として有益な財産(子供を産むという再生産)だということが根底にあって、その生産管理を厳格にすることによってのみ、それが父の子供であるということが保障されるという事実が根底にあった。もし厳格に管理しなければ、世界はふたたび、かつてのような母系しか確認できない性的自由の世界にもどってしまうわけで、そのことは家父長制の崩壊を意味する」とアイスラー説を要約する(若桑みどり『象徴としての女性像──ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』筑摩書房、2000年、275~281頁。もとの出典はMarina Warner, Monuments & Madiens : The Allegories of the Female Form, New York, 1985, p.343.)。
(*14)セックスワーカーの桃河モモコの言葉。水島・渋谷、前掲書、63頁。もとの出典は『インパクション』105号、インパクト出版、1997年。
(*15)服部洋介「存在と偽装~超複製技術時代の芸術作品Ⅱ」(『ブランチング24』所収)2018年。
(*16)なお、女性の性的サービスに金銭的対価を支払うことについて、バタイユは、レヴィ=ストロースの引くマリノフスキーの報告によって、トロブリアンド諸島においては、結婚後もマプラ(お返し)を支払って「性的な恩恵という形で女性が提供してくれたサーヴィスに対し、男性の側から埋め合わせをするための反対給付」を行なうと指摘する(バタイユ『エロティシズムの歴史 呪われた部分―普遍経済論の試み:第二巻』湯浅博雄・中地義和訳、哲学書房、1987年、54~55頁)。金銭で性的なサーヴィスを受けることについて、それを単に経済的な弱者に対する支配権の行使と考えるのは一面的である。「「買春」は女性にたいする暴力」という言葉が繰り返されるのは、性的サービスの提供が労働になりえる事実が了解されていないためです。「セックスが労働になるわけがない」という思い込みは、フェミニストが敵にしているはずの「家事労働と性的サービスは無償で提供されるべき」という家父長制的な通念に限りなく近いものです」(水島・渋谷、前掲書、63頁)。あるフェミニズムの理論では、婚姻関係において女性から無償で性的奉仕を搾取することこそ男性側の暴力であり、「女の労働関係の暴力性の極致」とされるのである!(ダラ・コスタ、前掲書、56~59頁)。
(*17)遠藤『アイ・アム・フェミニスト!』「解題」、2015年、web。http://maiendo.net/iamfeminist.html。服部、前掲書。
(*18)三石も、同じく女性美術家であるみんともも、自分たちが見たいものは男性というよりはむしろ女性のヌードであると率直に認めている(三石友貴、インタビュー、2018年3月17日。みんとも、インタビュー、2018年3月4日)。

みんとも
『ハイになる気持ち、甘えたくなる気持ち』
(2018) 写真

(*19)一方、反対の事例も起きている。2018年3月に渋谷駅前で通行人に自由に乳房を揉ませる『フリーおっぱい』を敢行した廉(東京都迷惑防止条例違反(卑猥な言動))で女子高校生を含む2人が書類送検された。要するに、公共の場で他人様が見て羞恥を覚えるような言動はしてはならないということであって、女性が胸を揉ませている場面というのは、何はともあれ破廉恥な表象なのである。どうしてそう捉えられるようになってしまったのかという考察がここでは必要なのだ。
(*20)三石、メッセンジャー、2017年7月24日。
(*21)三石、メッセンジャー、2017年7月29日。
(*22)若桑、前掲書、344頁。
(*23)若桑、同書、346~349頁。
(*24)若桑、同書、346~349頁。なお、みんともは、女性に空想的なレイプ願望(「犯され願望」)があることを認めている。このような〈虚構〉におけるレイプ願望を全て否定してしまうことは、それはそれで事実に反することになる。すなわち、ドラクロワの絵を女性視線で楽しむことも、また可能なのだ(みんとも、メール、2018年3月21日、22日、26日)。
(*25)マルティン・ハイデガー『芸術作品の根源』(関口浩訳、平凡社、2002年、78頁)、服部「存在と偽装~超複製技術時代の芸術作品Ⅰ」(『ブランチング23』所収、2017年)、「存在と偽装~超複製技術時代の芸術作品Ⅱ」(『ブランチング24』所収、2018年)を参照。
(*26)ロビン・ジョージ・コリングウッド「芸術の原理」『近代の藝術論』山崎正和編、中央公論社、1974年、263~264頁。
(*27)ジョルジュ・シャルボニエ編『デュシャンとの対話』北山研二訳、みすず書房、1997年、19頁。
(*28)ハンス・ゲオルク・ガーダマー『ガーダマーとの対話――解釈学・美学・実践哲学』カルステン・ドゥット編、巻田悦郎訳、未來社、1995年、65~66頁。
(*29)ハイデガー、前掲書、99~100頁。
(*30)ハイデガー、同書、49~50頁。
(*31)服部「小林冴子と崩壊する風景〈Ⅱ〉~哲学・美学におけるナルシシズムとオナニズム」(『ブランチング21』所収)2017年。

なお、作品写真掲載の許可をいただいた三石・みんとも両氏にこの場をかりて御礼を申し上げたい。

服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14