うぬぼれ・深読み・柳宗悦

文 / 備仲臣道

 一九二二(大正十一)年一月五日、柳宗悦はソウルの南方にある冠岳山に登った。李朝陶磁の窯跡を探索するためであった。(高崎宗司編『浅川巧全集』草風館)
 このとき、柳は三十三歳で、東京帝大哲学科を出て、すでに著書も持っている宗教学者であったが、その一方でバーナード・リーチ、浜田庄司との親交もあって陶磁の美に強い関心を示していたし、李朝陶磁の研究者である浅川伯教・巧兄弟と知り合ったのを機に、李朝美術にも眼を向けて、朝鮮民族美術館の建設を目論んでいた。(柳宗悦『民藝四十年』岩波文庫の年譜)
 冠岳山はソウル南山の南で漢江を渡って九キロの南、今日の韓国安養市にあって、ソウル南大門駅で京釜線に乗り、水原方面へ走った安養駅の、北東方向に立ちふさがっている標高六三二メートルの山である。ここに窯跡があると知っていたのは、柳に同行した三十一歳の浅川巧であった。浅川の「窯跡めぐりの一日」によれば、一行三人が安養駅に着いたのは朝の八時ころである。文中でYさんと記されているのが柳であることは、浅川の同日付の日記によってはっきりとする。
 安養駅で下車したとき、柳の着ていた外套の毛皮の襟当てが外れたため、途中の駐在所に寄って針を借り、それを繕った。三人は安養寺跡を見て李朝白磁の窯跡二つから数多くの破片を拾ったあと、念仏庵で一休みした。そこを発つ際に見せてもらった台所には、日常使っている器物が並んでいたけれど、ほとんどが日本製で、この国の陶磁の衰退を眼に見るようであった。
 そこから急坂を登った松林の中に三幕寺があり、一行は温突に上げてもらって、持ってきたパンや焼肉の缶詰で昼食を取ることにした。寺で出してくれたトンチミが、ことのほか美味で、柳たちの舌を喜ばせた。
 寺の住持の池氏は、三十年前のころには、この山から採った陶土を官窯のある広州郡の分院に送っていたという話をして聞かせた。その場所を見たいと言うと、老僧自らが案内に立って山腹の細い道を登った。以前、この一帯は立派な森林で寺が保護していたが、総督府に取り上げられ、日本人の金持ちの持ち山になってから、寺では薪にも不自由するようになったし、松茸も寺の周辺にしか出なくなったということを、老僧は道々一行に話した。
 やがて、花崗岩の間に食い込んでいる白土のある場所に着き、掘り出した跡を見た三人は老僧と別れた。その際、柳は老僧に礼として毛皮の襟当てを贈っている。
 浅川の文中にも日記にも、老僧はずい分喜んだと記されているけれど、この部分を読んだところで、私は、はっとなって本を置き、思わず暗い気持ちにならざるを得なかった。そうではないか、考えても見るがいい。くだんの襟当ては、その朝に外套から外れて繕ったものである。すなわち、壊れたものを他人に与え、しかも貰った側は外套も着ていないのに、襟当てだけ与えて、どうしろと言うのであろうか。
 少なくとも私は、ここに柳の、いい気なお旦那としての姿を見逃さなかったつもりでいる。これは些細なことのように見えて、実はそうではない。ここにこそ柳宗悦の人を見下す視線、自分が優位に立っていると認識している者に特有の、人に哀れみを垂れる姿勢が象徴的に現れているのではないか。
 年譜によれば、一八八九年三月二十一日、東京市麻布区市兵衛町に柳楢悦の三男として宗悦は生まれている。父は海軍少将であったから、この時代の日本の文句なしの上流階層の子であった。麻布幼稚園から学習院初等学科、中等学科と進んだ宗悦は、銀時計をもらって学習院高等学科を卒業し、東京帝国大学文科大学哲学科に入学、二十四の年にそこを卒業した。一般民衆にはろくろく学校へいけない者の多かった時代に、いわゆるエリートコースを歩んだ人間が柳宗悦であって、そうした人間のすべてがそうだとはけっして言わないけれど、なんの苦もなく生きてきた者の持つ、下層民衆への冷たい視線を、柳は自身でも気づかないで身内に養ってきてしまったのに違いない。そのことが、壊れた毛皮の襟当てを、案内の礼として人にくれてやるという行為に現れているのである。
 柳君のように我がままで、自分に随順するものか自分を尊敬するものかでなければ容れられぬ人物にとって、朝鮮の工芸を通じて朝鮮と朝鮮人とを愛し得たのは、幸福だったといえるかも知れない──と安倍能成は「柳宗悦君を惜しむ」という文に書いている(安倍能成『涓涓集』岩波書店)。このように、柳は尊大で、自身に対する思い入れの強過ぎる人物であった。ついでに記せば、柳の李朝美術への理解は浅川巧を媒介としている。浅川には滑らかに話せた朝鮮語が、柳にはできなかった。明らかに柳は民衆の中へ入っていかなかった。
 ここで、長々と書いたのは、柳のお旦那としての姿を浮き彫りにしたかったからであるが、同時にまたそれだけではない。こうしたお旦那の視線、目下のものを見下し、哀れみを垂れる彼の視線や姿勢が、自ずと李朝の美を「悲哀の美」と見誤った根っ子の所にあり、「朝鮮民衆の友人」と自ら任じた柳の赤裸々な姿であると言いたかったからにほかならない。
 柳は「朝鮮の友に贈る書」(『民藝四十年』所収、岩波文庫)の中でつぎのように書いている。

 私は朝鮮の藝術ほど、愛の訪れを待つ藝術はないと思う。それは人情に憧れ、愛に活きたい心の藝術であった。永い間の酷い痛ましい朝鮮の歴史は、その藝術に人知れない淋しさや悲しみを含めたのである。そこにはいつも悲しさの美しさがある。涙にあふれる淋しさがある。私はそれを眺める時、胸にむせぶ感情を抑え得ない。かくも悲哀な美がどこにあろう。それは人の近づきを招いている。温かい心を待ちわびている。

 朝鮮語が話せなかった、民衆の中に入ってはいかなかった柳には、彼らの持つ不屈で、おおらかで、エネルギッシュな心がつかめなかったとしても無理はないのであろうが、朝鮮の美を説明するのに窮して、ついに「苦悶の歴史」のせいにしたのである。この悲哀の美論こそは、そのまま柳の心の悲哀でなくてなんであろうか。
 この文章は、日本の朝鮮政策に対する批判の書であるというが、彼はその中で三・一独立運動に触れてこう記している。

 ここに反省を乞いたい一事がある。吾々が剣によって貴方がたの皮膚を少しでも傷ける事が、絶対の罪悪であるように、貴方がたも血を流す道によって革命を起して下さってはいけない。殺し合うとは何事であるか。それが天命に逆い人倫に悖ることを明確に知る必要がある。それはただに酷いのみならず、最も不自然な行いである。それは決して決して和合に至る賢明な道とはならぬ。殺戮がどうして平和を齎し得よう。

 しかし、考えて見なくてもはっきりとしていることは、このとき、剣によって人を傷つけていたのは、植民地支配を強行していた、柳も当然そこに含まれているところの日本人の側だったということである。なんという身勝手な柳の言い分であろうか。天命に逆らい、人倫に悖る、ただに酷いのみならず、最も不自然な行い──をしていたのは日本人、ひいては柳自身だったのである。
 柳の他人を見下す視線は、こればかりではない。かれは「『喜左衛門井戸』を見る」(『民藝四十年』所収、岩波文庫)という文の中にこうも書いている。

 土は裏手の山から掘り出したのである。釉は炉からとってきた灰である。轆轤は心がゆるんでいるのである。形に面倒は要らないのである。数が沢山出来た品である。仕事は早いのである。削りは荒っぽいのである。手はよごれたままである。釉をこぼして高台にたらしてしまったのである。室は暗いのである。職人は文盲なのである。窯はみすぼらしいのである。焼き方は乱暴なのである。引っ付きがあるのである。だがそんなことにこだわってはいないのである。またいられないのである。安ものである。誰だってそれに夢なんか見ていないのである。こんな仕事をして食うのは止めたいのである。焼物は下賎な人間のすることにきまっていたのである。

 読んでいて私は不快な気分にならずにはいなかった。柳という人の、驕って人を見下す辺り憚らぬ体臭がここには匂い立っている。
 柳は「雑器の美」という文でも同じようなことを書いている。

 ほとんど凡ての職工は学もなき人々であった。なぜ出来、何が美を産むか、これらのことについては知るところがない。伝わりし手法をそのままに承け、惑うこともなく作りまた作る。何の理論があり得よう。まして何の感傷が入り得よう。雑器の美は無心の美である。

 たとえば、陶工が無学文盲であったとしても、彼が体に刻むようにして覚えた技術は、彼にとって歴とした教養ではないか。その手練れの掌が作品の美を生む。従って、文盲と決め付けられた陶工のほうが、出来上がったものにあとから得手勝手な深読みを加えて悦に入っている、東京帝大出の柳よりも、こと陶磁に関しては知識を持っているはずである。
 
 それは朝鮮の飯茶碗である。それも貧乏人が不断ざらに使う茶碗である。全くの下手物である。典型的な雑器である。一番値の安い並物である。作る者は卑下して作ったのである。個性等誇るどころではない。使う者は無造作に使ったのである。自慢などして買った品ではない。誰でも作れるもの、誰にだって出来たもの、誰にも買えたもの、その地方のどこででも得られたもの、いつでも買えたもの、それがこの茶碗の有つありのままの性質である。(「『喜左衛門井戸』を見る」)

 こう書いたあとに「土は裏手の山から」と続くのであるが、さらに彼のしつこさはつぎのように書く。

 ほとんど消費物である。台所で使われたのである。相手は土百姓である。盛られたのは白い米の飯ではない。使った後ろくそっぽ洗われもしないのである。朝鮮の田舎を旅したら、誰だってこの光景に出逢うのである。これほどざらにある当たり前な品物はない。これがまがいもない天下の名器「大名物」の正体である。

 そうして、

 茶人の眼は甚だ正しい。もし彼らの讃美がなかったら、世は「名物」を見失ったにちがいない。あの平々凡たる飯茶碗がどうして美しいなどと人々に分かり得ようや。それは茶人たちの驚くべき創作なのである。飯茶碗は朝鮮人たちの作であろうとも、「大名物」は茶人たちの作なのである。

とまで極言して柳宗悦は書く。だが、のちに「大名物」とされるような茶碗をさりげなく台所ものに使っていたということにこそ、たくまざる風流は存在すると言うべきであろう。あばら家に千金の駒を繋ぐのが風流ならば、これもまた風雅な振る舞いではあるまいかと私は思う。すなわち、のちの世の日本人が美しさを見出したのであって、朝鮮人がそれを知らなかったかのように斬って捨てる言いようは、私でなくとも、あまりいい気分のものとは思えないはずである。
 ときに、ゆがみや、慣乳や釉剥げに風情を見出したのは、後世の茶人と称される、変にすねた趣味人の手柄ではなく、すでにそれを作った生活者たる陶工こそが一番良く知っていたところのものなのである。そうでなければ、出来損ないとして砕かれ、ものばらに埋もれる定めだったはずではないか。
 では、その美はどのようにして作られるのか。柳はそれについてつぎのように記している。
 
 彼らは多く作らねばならぬ。このことは仕事の限りなき繰り返しを求める。同じ形、同じ模様、果しもないその反復。だがこの単調な仕事が、報いとしてそれらの作をいや美しくする。かかる反復は拙き者にも、技術の完成を与える。長い労力の後には、どの職人とてもそれぞれに名工である。(「工藝の美」)

 この限りにおいては彼の言うことはまったく正しい。今日、美術の基礎では、例外なくデッサンをたたき込まれる。初心の者はくる日もくる日もデッサンに明け暮れる。そうして、ものを見る眼を養い、正しく描く技を培い、感覚と技術との間に隔たりのないようにおのれを磨くのである。反復こそが技術を与えるのである。だが、なぜ柳においては、それが「既に彼らの手が作るというよりも、自然が彼らの手に働きつつあるのである」ということになり、果ては「他力の美」ということになるのであろうか。それが私には理解できない。そのようにして陶工が身につけた技術は彼自身のものである。人間の技なのである。作品の美を生み出すのは人間であって、神でもなければ仏でもない。まして、他力によって生み出されるものであれば、人間はこの上もなく悲しい。みすぼらしい。だが、人間が作るからこそ、芸術は美しく人の心を打つのに違いない。
既に彼が手を用いているのではなく、何者かがそれを動かしているのである。だから自然の美が生まれないわけにはゆかぬ。多量な生産は必然、美しき器たる運命を受ける──とさえ柳は書いている。こう言ってしまうのは、しかし、人間への不信ではないのだろうか。
 美を生み出した者のことをここまで悪し様に言う人を私はほかに知らない。反復が技術の完成をもたらすと彼自身が書いていることとも、これは明らかに矛盾している。
 誤解を恐れずに言えば、柳は自らものを創る喜びを知らない人なのである。彼はなにごとにも手を下さない、手を汚さない、それでいて勝手な解釈だけを楽しむ、軽佻浮薄なお旦那なのである。
 それに引き較べ浅川巧は、美の根源をこの国の人々の持つ大らかさやエネルギーに見ていた。彼は前にも書いたように、民衆の中に身を置いていたし、ときにはハンノキを削って洗濯棒をこしらえたり、チゲの木取りをしていたことが日記にも見え、手でものを作ると「脳が軽快になる気がする」と書いている。この両者の違いが李朝の美を正しく評価するかどうかの分かれ目であったという気が、私には強くしてならない。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp