壷の雫

文 / 山本正人

初対面の人と巡り会い、身近になるほど必ず思い出す『壷の雫』。

出会い、語り、ごく親密になる人は
既に何千年も前から知った存在で、
何度も生まれ変わりながら
時には夫婦であり、時には兄弟であり、
叔父であり、祖母であり、娘であり、
何かしらの出会いを幾重にも繰り返しているという。

人類70億人と数えきれない人の中で生きながら
影響し合う存在はいつも同じ魂なのだと。

その魂の繋がりは同じ一つの壷の中にあり、
私はただ一滴の雫なのだと言う。

あーそうか、
だからこんなに惹かれるのか。

そう思うと
妙に納得する。

妻は実母が亡くなった後に生まれた1人目の娘に
幾度となく母の面影を垣間見ると言うし、
私の親父が他界してから生まれた息子は親父にそっくりで、
未だ一歳児ながら
ふとした時に、飲んだくれていたあの人がいるかのように。

では、である。

では、私があの女性に否応なく惹かれるのも、
やはり同じ壷の雫だからなのか。

理性や道徳という概念こそが
実は間違っているのではないかと錯覚するほど、
私を揺さぶる何か。

惹かれれば惹かれるほど、
今ある居場所が脆くも崩れるだろう事は、容易に予想がつく。

そちらに行くのならば・・。

そんな事を思いながら、
不要になった細切れの建材を焼却炉へと放り込んでいた。

今日も茹だるような暑さで
ただでさえ陽炎が見えるくらいなのに、
火の世話をするのはちょいと酷だなと
いくぶん愚痴をこぼしながら
流れる額の汗を拭い、
ふと、立ちのぼる煙を追って空を見上げた。

すると炎の上方に、
激しく巻き上がる熱気から逃げるように
1匹の蜘蛛が糸を伸ばしながら漂う姿が見えた。

焼却炉があるこの型枠の加工場は壁がなく、
高さ3メートルほどの屋根だけが広く張り出している。
焼却炉は加工場の端にあり、
雨雪が何とか凌げるかという場所にあった。

月に一度も稼働しない焼却炉だけに
どうやら蜘蛛は上の軒先に巣を作り、根城としていたようだ。

銀杏ほどの立派な蜘蛛だが、
炎のあまりの熱さに必死だということは
人間の私にも見て取れる。

(助けてやらなきゃ・・)

柄の長い端材を手に取ろうとしたが、
なぜかその蜘蛛が自ら逃げ切る姿を拝みたくなり、動きを止めた。

幸いにも蜘蛛は炎の真上から逸れていたものだから、
垂らした糸をそのまま伸ばせば熱気から逃れられるはずだった。

ところが蜘蛛は、
命綱を伸ばすのではなく
さらに別の糸を長く長く吐き出し始めた。
吐き出した糸は風に乗って流れ、陽の光を受けて虹色に揺らめいた。

(なるほど、そうやって遠くの何かに糸を伸ばそうというのか。)

自然の神秘とも言うべき情景に
私も仕事を忘れて思わず
「おぉ!」と感嘆の声を漏らした。

とはいえ何事も思い通りにいかないのが世の常と言うべきか、
神の見放したが如くに風は弱まり、
無念にもその虹の糸は、下へと枝垂れ落ちてしまった。

(蜘蛛よ、どうする)

いつの間にか私は心の中で頑張れと願っていた。

すると蜘蛛は、
命綱を手繰り寄せながら
元来た根城へと戻り始めたのだった。

(おい!そっちは熱風だから駄目だ)

万事、策が尽きたのか、
それともじわじわと押し迫る苦痛に観念したのか、
それまで蜘蛛にはずっと居心地が良かったであろう場所へと向かうのだ。

その時、
「お〜いっ、ちょい手伝ってくれっ!!」
と同僚が呼ぶ声に、はっと現実に引き戻された。

「はいよっ!今行くわ!」

もちろん蜘蛛の行く末が気がかりで仕方なかったが、
これまた割りと切迫した同僚の声に、やむなくその場を離れたのだった。

ーーーーー

ほどなくして焼却炉へと戻って来た私は、
あの蜘蛛はどこへ行ったのかと、辺りを隈無く見回した。

そして軒先の根城の方に目をやると、
命綱に垂れ下がっては居たものの、
先ほどの蜘蛛が手足をきゅっと縮こめて
熱風に煽られ無機質な振り子のように揺れていた。

もしかしてまだ生きているのかもしれないとじっと凝視し続けるが、
数分経っても動く様子は全く無い。

どうやらもう、既に息絶えているようだった。

(そっちヘ行っちゃ駄目だろ・・)

それはまるで、
私が不徳な未来を選択したとしたら、
その行く末を暗示するかのようであった。

山本正人 Masato Yamamoto
1976年長野市生まれ
群馬大学教育学部卒 長野市在住