夥念石

文・スケッチドローイング / 町田哲也

 地維の極みをその意味するいかなる場所であっても示している自明の物質境界が、殊に山々の稜線となって人の瞳を切り裂くかに際立つ時、みつめられる界域切断の線としてあらゆる想念を振り払う気高さが、立ち尽くして見上げるばかりの一瞬の放心に結晶として深く軀の軸に刻まれる。その結晶は二千年はエンペドクレスのリゾーマタ、万年はマグマとの接触変成の果て、億年に至れば混沌の地平があったと判らせる力があり、深淵への精神浸透の自覚が刻印者には即座に生まれ、深々と刻まれた者は力そのものを理解する。
 界域の縁をせり上げる変化変容を普遍固定に充たす地自体の戦慄きの線は、モンスーンの鬱蒼とした大気の湿潤に脳天を差し出して崩れ落ちた地の轟音、内側からの憤怒の突き上げに割れた悲哀絶叫の巨大な圧烈などを限りなく寧静縮小されたかの物質結晶に鏤め移ろわせ、域縁であるという一点においてだけ自らの潔白を変えない明快な出自を、意志ではなく存在の清明であり風雪雨で身を貫かれ砕かれることを享受の態と唄うまえに詩と発す。そのフェロモンに誘われるのではなく、物質境界そのものへ同化してしまいたい、物質境界の震える振動そのものになってしまいたい衝動が軀を離れて軀を動かし、幾度もまずは項垂れて発汗し熱を地に流して辿り着こうとする。そのように地を這い蠢きこの稜線をどうにか歩み切断線の極みに立とうとする者達には、迂闊にも踵から広がるゲオの一部だと確かめる浅薄な自我というより、生存を仕切られた囚われへの憤怒と、絡まりから逃走する邪の意志が、歩みそのものの中で粛々と黒く育まれた。自らを何かと問うだけの探索への欲望とは異なった、分裂と自己解体に、まずは稚拙に駆り立てられるのだった。けれども界域の縁に茫洋と、否、くっきりと立ち上がる未知とは言えない、いつかどこかで身を貫いている何物かの予感が漲る精神が、挙げ句には勝り、自らの地肉なんぞへの関心をあっさり放棄して、尽きた白骨の無を手に入れることができる。できることならこの山頂で焼き尽くしてほしいと振り返ることもある。他のアルケーとの円環運動の妄想を棄てる契機ともなったろう。極みから俯いてよろよろ降れば肩から腰にかけて大気との摩擦の軋轢が手を緩めずに叱咤し残力を吸い取った。知らぬうちにあちこちを傷つきつつ遅延知となったと気づかせる痛みの恢復など期待する気持ちがなかった。足首は腐り果て融けかかったように只管重いが、この時々がいつかどうにかして数多狼狽える折衝、あるいは強く振りほどく逃走の力を骸に芽吹かせているということが既に在る。

 山間の湖や池にしてもその水平鋭利な溜まりの境界は、気象の運動が止まり、獣の唸りも消えた静寂停止の冷徹な次元面が大気玉を抱える時、これもまたひとつの物質境界の縁となり、大地と大気を突き放して寄せ付けない。その時を待つようにしている釣り糸を垂らす者もいて、彼にとっての緊張の触手の先は魚よりも水銀に輝く水界の緊縛から解ける彼方であった。生体に予感のエーテルが宿る契機は遠い過去から場を示して伝えられ、それに惹き寄せられる者は己という恥を知る。同じようなことが樹を倒す時も獣を狩る時にも分解が起こり、彼方が其処に在ること知る。手にした石と枝の物質限界がふいに目元に溢れ、時間とは見えている物質であることが判るのだった。物質臨界を示すパノラマである世界域にて生きる、その視界を真に受けて湛える者たちは、群れて触手の不具合を比較するかのコトゴトから随分遠ざかった次元界域でますます遠くをみつめるような目付きになる。

 天を舞って地を知る畜生となった夢を見たと飯場で話す相手はいない。だがどうやら腕や首を健全に汚した男達は皆が同じ夢をみていた。故に黙り込み飯を腹にかき込んで湯を口元から零して喉に流つつ、丸く潤んだ瞳でやはり獣達もまた同じような夢をみる、なんだか哀しい気分をも加えるように賦に落としている。山の樹木を切り倒しつつ舟を漕ぐ腕の撓りを枝先の雲間に眺める午後を過ごし、妻や親や子どもの屈託の家へ戻り朝の夢と終日夥しい数の想念を巡らせた黙考などとうに忘れて酒を呷り、星が煌めく早朝の短い朝霧の中やはりまた同じ夢をみるのだった。間違いとはそもそも界域の内部の軋轢であり、その破壊に乱心専心する時は遠い過去のものとなり、雄叫びを吠えて恥と秘匿に翻弄される愚図や、肉体と精神の融合に向かう莫迦は、女たちの保守保全の中に成熟するのだった。分裂を許し壊れるという意味での完全態を指差す事がつまり男どもの縁への探索となる。

 収穫と冬支度を終えた山間の生活者らが家族を同伴して役割を分けて集い、息災を交換しながら酒肴を囲む脇で、左肘を熊爪に抉られ曲がったままの腕を胡座膝の上に鍵字に固定した老者が、独り静かな風情で煙りを辺り構い無く吐き出して目を細め茶碗の酒を舌で嘗める。まだ年端の行かぬ子どもらを腰回りに集めたわけではなかったが中心で背を丸め誰をみるでもなくぼそぼそと話すのだった。子らは幾度かそうしてきた注視を老人の口元にまっすぐに繋げ子鹿の緊張を解かずに垂らした鼻水を拭うことも忘れ唇を広げ突き出して燥ぐこともなく聴いている。数年前に妻を亡くした際に心身を崩し大病を煩ったが切り抜けた後、男の額から脂が抜け頭蓋に皮が張り付いた面相になり、ついでに軀も骨が浮き出たが、あれから物事がくっきりと判るようになった老人は、前に話したかもしれない、忘れてしまう。と諄く言葉を丹念に、まるで目上の死者らに申すような言葉使いともなりつつそれも憚らない。外への知覚が未だ全て等しく短い距離でしかない指しゃぶりの幼子を膝間に抱く姉は十に充たない。正月に父親と一緒に拵え、随分よく飛ぶと皆に褒められた竹トンボを離さない小僧の指先には刃先が裂いた傷跡が一筋ある。「ほうぞう」と自らの名を呼ばせ年寄りもまた子らを「そうた」「ゆめこ」「さとる」と呼べば、血のつながった孫でも曾孫でもないが、それぞれのまだ短い生の、病の記憶や泣き顔などが呼名の根に立ち上がる。老者の煙管が火鉢の縁でコンと音をたてると、宴の席から様子を確かめるように振り返る女親は、幼子を腰巾着にする年寄りの神妙な目元が今夜もまた気になるが、普段は騒ぐばかりの子供が大人しいので、酒で火照った頬に宴の陽気を受け止めて風の噂の道化話のどっと吹き出る笑渦が揺れる環の中へ顎を戻し、明日の朝飯の支度なども一時忘れてしまおうと思う。道で出会しても親に頼まれた届け物をしてもなかなか口を開かない老者が、年に数回あるかないかのこうした席では子だけの語部となり、「ほうぞう」の幼気に対しては真摯が過ぎる呟きを、子らにしてもわけのわからぬまま、外から弱く聴こえてきた夜雨にすっかり濡れてしまっているようなどうしようもなさで聴き続けることができるのは、ほうぞうの声が物質界域縁の振動と似ているからだと、男たちは酔っぱらった鼓膜あたりで思うのだった。

ー 速度のことがお前達には一番肝心なことなのだ。走る速さが身を上回る時は人生で一度きりだ。いずれ身が重くなり速度を失う。でもな、一度その速さを憶えれば忘れない。飛ぶこともできる。これも同じだ。重くなる前にやらねばならないことが沢山ある。俺は速かったなあ。だが十二で遅くなった。ほら風のように走ることができるだろう。憶いだしたか。お前が一等だったか。ー

蛙足の発達の剥き出しが痛々しい幼さのある臑を抱えた少年は、おれが一番速いと唾をのむ。

町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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