文 / 備仲臣道

 左衛門尉は機嫌を悪くしていた。
 信濃国上田原の合戦で体中に手傷を負い、命からがら帰館したというのに、留守居の郎党どもと大門まで迎えに出ていながら、一人娘のすずは、にこりともしない。
 いつもならば、馬から下りる左衛門尉に駈け寄り、いかつい甲冑姿で、荒んだ気がまだ波打っているような父を見上げて、大人びた口ぶりで戦勝を祝う。それからすぐに、一党の者たちの傷を気づかっては、屋形内の者たちとてきぱきと立ち働いた。白い歯並みがこぼれ、死んだ母親に似た色白の顔を上気させては、秀でた額に汗を光らせていることもあった。
「すずの笑顔を見れば、おのずと気持ちが和らいでくるから不思議じゃ」
 左衛門尉が言うと、それで一同も緊張の糸が緩んできて、やっといくさを終わった気になる。
 これまでと違って、今回のいくさは勝ちいくさではなかったけれど、それにしてもすずの表情には、なにか曇ったものが勝って見えた。
「なにかに心を奪われているのではあるまいか」
 そう思うと日常の立ち居振る舞いも、どことなく様子が尋常でないように思われる。
「どこか悪い所があるのではないか」
 左衛門尉が聞いてみても、娘は、いいえ—─と、かぶりを振るばかりである。しかし、娘の顔に翳りがあるように思えてしかたがない。そのうち彼は、娘の腹が少しふくらんでいるように感じ出した。
 すずは十五歳である。十五と言えば腹に子があってもおかしくない年齢ではあるが、それは夫があればのことで、まだ嫁いでもいない娘が子を宿しているとなれば、由々しきことに違いない。この世に親一人子一人になって以来、目の中で舞いを踊らせても痛くないほどに可愛がってきた左衛門尉のことだから、娘を問いただすのに少しの気後れを感じるというのは当然であった。しかも、ことがことであって、頬にできた吹出もののことを話すのとはおのずと違っている。
 屋敷から二丁ほど東の山すそに湯治場があり、古くから戦傷の将兵が傷養生に使っている。左衛門尉は、「島の湯」や「鬼の湯」に通って日を暮らし、傷を癒してはまたつぎのいくさに備えるのをこれまでの常としていた。
 湯までは馬で通う。物憂げな髭面と武張った長身を馬の背に波打たせ、屋敷の東の二子塚の間を通って、釜塚の北の野道をいけば、ほどなく湯けむりが見える。日盛りを避け、朝早く出たり、夕暮れにいったりした。今回は三十日ばかりも、そのようにして傷養生に通わねばならないと思えた。
 左衛門尉は、ああーっと声を上げて、長い手足をぬるい湯の中に伸ばしたが、しかし、気分はくつろいではいない。思わず、ぼそっとつぶやいていた。
「なんの因果で、このわしがたった一人の娘に、ててなし子を孕まれねばならんのか」
 家運が傾けば、そんなことまで味合わされることになるのであろうかと思った。

 須藤左衛門尉源泰清という長い名が彼のものであるのは、家が鎌倉のころからこの一帯を領してきた名家だったからで、古くは志麻荘と言われた松尾神社の荘園の一隅に陣取って、領地の真ん中とおぼしき辺りに居館を構え、周囲には土塁と堀をめぐらせていた。
 永正十四年秋、屋敷のはるか西の台地下を流れる荒川が大雨のために決壊した。川は流れを大きく東南に変えて、須藤の屋敷の背後を襲った。堀を埋め土塁を超えた水は館中を水浸しにした。これが、いま思えば衰運のはじまりのように見えた。
 永正十六年、それまで争いを続けていた甲斐源氏の同族を抑えて、武田信虎が甲斐一国を統一すると、須藤の一党もその後塵を拝して一門に従わねばならなかった。前の年の夏から初秋にかけて、何日も続いた大風が作物をことごとく吹き倒し、さらには大霜が襲って実りはなく、その年になっても国中が飢饉に陥っていた。民人はわらびの根を掘り、芋の殻を食って急場をしのいでいる。そんなときに、人でなしの信虎は配下の者や民衆を駆り立てて、躑躅ヶ崎に豪壮な館を新築した。必要な資材も抜かりなく、それぞれに割り当てていた。
 翌々大永元年の秋、駿河の今川勢が甲斐に攻め入り、武田家ではそのさなかに嫡男が誕生してめでたいことではあったが、須藤家は逆に少しもいいことはなかった。主戦場のほとんどが左衛門尉の領地だったからである。稲は駿河勢にあらかたを刈り取られ、残った作物も敵味方入り混じってことごとく踏みつぶしていた。
 やがて十五歳になった武田の嫡男は、元服して晴信と名告り、従五位下に叙せられて貴族の列に名を連ね、家運はますます隆盛と見えた。左衛門尉はこの年、妻を失った。もともと病弱であった彼の妻には、何年も続いての不作が禍して身を養うものとて充分ではなかった。彼女は三歳の娘をこの世へ形見として残していった。
 天文十年、二十歳になった武田晴信は父の信虎を駿河へ追放して、自身が甲斐の守護職となった。この数年、信虎は信濃を掠め取ることに執心であった。前年などは一日に三十六もの城を落として、佐久郡を手に入れる勢いであったが、そのたび駆り出される配下や民人たちは、軍装や糧食の負担に困り果てていた。晴信誕生の前後から甲斐一国は大風や出水などの災害が多く、ために不作が続いて、くる年もくる年も数多くの餓死者を出している。にもかかわらず信虎の野望は膨張して止むことなく、駿河といくさをしたかと思えば、相模を攻め、あげくに信濃へとその手を伸ばしていた。
 暮らしの苦しさに耐えかね、いくさに倦み疲れていたとき、信虎追放の報を聞いた甲斐の民人は、暗闇からにわかに光の中へ放り出されたように驚き、そうして喜んだ。しかし、それも束の間である。
「まさか、人でなしを追放した当の晴信が、父親以上の人でなしだったとはな」
 そう言って甲斐の民人が、晴信の酷い実像を思い知るのに、それほどの時間を必要とはしなかった。
 甲斐は相変わらず大雨、大風が続き、民人の餓え苦しむさなか、晴信の信濃攻めは続きに続いた。あまつさえ、この人でなしは妹婿を謀殺し、姪を妾にして子を孕ませるまでの放埓ぶりであった。そうして、彼の戦好きは死ぬまで止むことはないのであるが、それはまだ先のことで、天文十七年には信濃国小県郡の上田原に村上義清と戦って、最初の敗北を喫するのである。手痛い敗戦であった。

 傷養生を終えて、なんとか元のように覇気を取りもどした左衛門尉であったが、娘のことが気にかかってならないのは変わりがない。彼女の瞳も、このところ伏せられていることが多かったけれど、それよりなにより、以前にもまして腹がせり出して見える。
 左衛門尉はすずを呼んだ。小さな膝をきちっとそろえて、娘は彼の前に座った。笹で切ったような涼やかな目が、まっすぐに父を見ていた。
「このところ見ていると、あまり元気がないようで気になっているのだが、やはりどこか悪いのではないか?」
「いいえ」
 と、娘は小さいけれどもはっきりした声で前と同じことを言った。つねづね、細かなことには口をはさまない左衛門尉であったから、こう言われてしまえば二の句がつげない。その日はそれで終わった。しかたなく左衛門尉はつぎの日、小女をこっそり呼んで聞いてみた。
「食が進まぬというようなことはあるまいか」
「いいえ、それはございません。と申しますよりも、すず様の食欲はこのところ一段と盛んにおなりで、そちらは心配ないのでございますが」
 小女は言いよどんだ。左衛門尉にうながされてしかたなくといった風に彼女が言うには、どうもこのところの様子では、女性特有の変調をきたしているのではないかという。
 左衛門尉は気色ばんで小女を下げ、娘を呼んだ。
「まさかお前、わしが信濃へいくさにいった留守中に、どこぞの男と不埒を働いたのではあるまいな」
 思わず直接的な言葉が出てしまう。表情に下卑た影が出てはいまいかと、左衛門尉はそれが恐ろしくもあった。だが、娘の答えは、はっきりとしている。
「いいえ、私に限ってそのようなことはけっしてありません」
 きりっと口を一文字に結んでそう言った。
「お前はそのように言うが、どうじゃ、その腹がせり出しているのをなんと言うてこの父に納得させてくれるのじゃ」
「さきほども申しましたように、私は不埒を働くようなことはいたしませぬ。私とてお父様の子、して良いこととならぬこととは、はっきりとわきまえておりまする」
 そうまで言われると、自信がないのは左衛門尉のほうである。妻を娶る前にほかの女と関わりがなかったとは言うまい。失ってのちのこととてそれは同じであるが、それはこの際、良いということにして横を向くしかなかった。
「信用するしかない。こう言うのじゃな」
 苦り切った表情の左衛門尉が言った。
「身の潔白のために証文を書いても良うございます」
 すずの白い豊かなほほに、微かに血の気がのぼっている。娘は文机から筆と紙を取ってさらさらとなにごとかをしたためた。それを受け取って左衛門尉は、どういう顔をすればいいのか、にわかに迷った。
 だが、実のところ男と交わったこともないすずには、なぜ自分の腹がふくらんでいくのか思い当たるところがない。そうであればこそなおさら、父の前に出たときにその不安がきっぱりとした否定になってしまうのを、自身でも不思議な思いであった。
 娘の言葉にもかかわらず、その腹は着物の下でますます大きくなっていった。もはや、誰の目にも彼女が子を宿していることがはっきりとしてきた。
 悩み抜いた果て、左衛門尉は一人の老女を、娘の身の回りを世話するためと称して屋敷内に入れた。誰にも黙ってはいたが、近郷から選りすぐった取り上げ婆であった。
 月が満ちたとも思われなかったのに、ある夜、陣痛がすずの体を襲った。婆さんは手慣れた素振りではたの者に指図をする。湯が沸かされ、すずは産室に入った。間もなく聞こえてきたのは、しかし、産声ではなくて婆さんの枯れた悲鳴であった。
 止める手を振り払って左衛門尉が部屋に入ると、血にまみれた幼児の手とおぼしきものが布団の上に転がっていた。それはなにかをつかもうとするかのように、こちらへ指を動かしてやめなかった。
 左衛門尉が婆さんの背をたたくようにして、その手とおぼしきものに産湯を使わせるよう指図したのは、そのものがしきりと生きていることを主張して見えたからである。
 湯を拭き取ってみると、それは一寸ほどの腕がついた、まぎれもない人の手であった。赤剥けた鼠の子のようなその手は、しきりとひくひく動いた。生まれたわが子を見ようと体を起こしかけた娘は、それを一目見るか見ぬうちに低くうめき、両足をひくっと伸ばして動かなくなった。体が軟らかくなったようである。
「なんということであろうか」
 左衛門尉はうめいた。娘が手だけの子を産んだのはもはや疑う余地もない。このような醜怪な者を孫として見なければならぬとは、どうした身の因果であるか。しかし、左衛門尉は乱れを見せまいとした。地獄は戦場で見なれていて、むしろ、武者にとってこの世こそは地獄であったはずである。左衛門尉は、あるがままにそのことを受け入れたつもりではあったけれど、やはり、心のもう一つ奥のところには、取り乱したい気持ちが渦巻いていた。
 彼の留守中に娘の身になにがあったのか、それだけは、はっきりさせなければならない、と思った。留守中の娘のことは小三郎という小者にくれぐれも頼んでいったはずである。小三郎は身分こそ低かったが頭の切れのいい若者で、左衛門尉も家の子のように思って目をかけていた。いずれ時を見て、身の立つようにしてやるつもりで、屋敷内の細々としたことをさせていたのである。
 左衛門尉は奇形のことを伏せて、すずが子を産んだことを小三郎に告げた。そのうえで、留守中に娘の身の上になにごとが起きたのかを探ろうと思った。
「誰ぞ、娘の寝所に忍んだ者があったのではないか」
「いいえ、そのようなことはけっして」と小三郎は言った。「すず様には、私が毎夜、添い寝をいたしておりましたゆえ」
「その方が添い寝をか?」
 では、この若者が娘に子を孕むようなことを、と左衛門尉は思ったが、若者は続けて言った。
「男が忍んできて、怪しからぬことをいたすようではなりませぬから、私めが、毎夜、すず様のほとに手蓋をして寝んでおりました。ですから、けっして」
「手蓋とな」と、左衛門尉は激しく頭をめぐらせながら言った。「この痴れ者めが、その方の手蓋が間違いの元であったと、何故それに気づかぬか。たったいま生まれた子は、手だけの子であったぞ。されば、若いその方の精気が交わらずとも指先から娘の体に入り、子をなしたに違いない。いいや、そうと決まっている。とんだことをしでかしてくれたものぞ。娘は、どこぞのもののふの次男とでも娶せて、わがあとを取らせようと思うたに、どうしてくれるのじゃ。ええい、いっそ、うぬを闇に葬ってくれるわ」
 言うが早いか、左衛門尉は小三郎を裏庭に引き出し、一太刀に斬って捨てた。
 忠義心だけの小三郎には、留めようもなく激しい左衛門尉の怒りが、腑に落ちなかったに違いない。けれども、左衛門尉にしてみれば、愛娘に裏切られたうえ、異形の子まで産まれるという二重の悔しさに加え、おのが身を苛むような悪寒が、じりじりと襲ってくるのをいかんともできなかった。それをなにかに被せて葬り去ってしまえるものが、そこにありさえすればなんでも良いと思われた。
 やわらかい布に包まれた手だけの子は、つぎの日には色も大きさも大人のものほどに育っていた。左衛門尉には、なにかを求めて指先をしきりに動かすそれが、農民たちの哀願する手のように見えた。
 だが、その手は三日後に母親が衰弱して死ぬと、やはり筋と皮だけになって干からびてしまった。
 屋敷の東方の二子塚は、その名のとおり二つの古い墳墓である。左衛門尉は北の塚の石室内に手の遺骸を埋め、南の塚の墳丘に穴を掘って、着飾った娘と彼女が身の証に書いた証文を一緒に埋めた。
 旬日を経て、左衛門尉は南の塚の前に寺を建てさせ、その壁を塗るため、北の塚の盛り土をあらかたこぼって使った。
 やがて、あらわになった石室に冬の風が吹いて、言い知れぬ悲しげな泣き声に似た響きを近隣の村々にまで運ぶ。人々はそれを聞くたびに怯えて震え、この二つの塚を手塚、証文塚と呼びならわすことになるのだが、それはまだ、のちの世のことである。

 娘が手ばかりの子を産んだと知ったそのときから、左衛門尉の心を重くふさいでいた暗い思いは、左衛門尉の昼を蓋い夜の夢と眠りを食らいつくした。おのれの身を刃で削るような苦痛が、心の底から湧いてきて、じっと座ってもいられないようで、身の置き所さえもなかった。自身でも意識しないうちに、ええいっと、声を発して膝を音のするまでに激しく打ちすえたりもした。
 覚えがあったればこそ、なぜそのしっぺ返しが自分にではなく、可愛い娘のすずにいってしまったのか。左衛門尉は自分の所業が忌々しく思われてならない。
 それは天文十七年、上田原の敗戦のときのことである。
 上田原のいくさは前年八月、武田晴信が信濃国佐久の志賀城を落として、城主・笠原新三郎を殺したのにはじまる。これを聞いた砥石城の村上義清は、二月に入ると七千の手勢をもって武田に刃向かってきた。彼は前年、真田弾正の謀略で手練の武将をあらかた殺されていて、その怨みは、敵が大軍であることをかえりみることさえさせないほどに深い。双方の軍勢が上田原に会戦したのは、二月も末に近い日のことであった。
 一万三千の武田軍が優位にあったはずのいくさであるが、地の利に恵まれた村上義清は巧みに攻め寄せた。思わぬ岩陰や空川の向こうから湧き出すように出てくる敵兵に、武田は振りまわされた。あげくに背後を突かれて総くずれとなり、乱戦の中で板垣信方、甘利虎泰、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら歴戦の勇将が戦死するという大敗を喫した。
 このとき、退く武田軍の最後尾の軍団、いわゆる殿軍を受け持たされていたのが、左衛門尉の一党である。村上方の優勢に奮い立った正規軍でない二百ばかりの農民も、前方に現われては投石をし、後方に回っては崖上から大石を転がして、左衛門尉たちを悩ませていた。ぼろぼろの武田軍を見て、村上勢が砥石城へ戻りはじめたころ、どういうことであったのか、この農民の一団が孤立してしまった。左衛門尉は、それを包囲して、ことごとくを捕えた。彼らを楯にしながら無事に退却しようと考えたのである。
 ほどなく、追っ手がいなくなったのを見定めた左衛門尉は、農民の処遇を考えねばならなかった。こうした捕虜は、自国の農民に売り渡すのがこれまでの習いである。奴隷として一生を飼い殺しにするのであるが、この際、敗残の身でこの人数を引き回していくのは手に余ることであった。
「よし、その方ども、今回のところはわれらの無事に免じて解き放ってつかわす」
 彼らはいずれみな殺しと覚悟していただろうから、波のように喜びの声を上げた。けれども、続けて左衛門尉が大音声に言い放ったのを聞くと、一どきに黙り込んでしまった。
「以後、われらに刃向かって悪さをせぬよう、その方どもの利き腕一本ずつと命とを引き替えじゃ」
 それっ—と左衛門尉が言った。
 

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp

備仲臣道・著『艶本ラプソディー』皓星社・刊、1400円+税。2016年6月29日発売。
江戸軟文学に魅せられ、艶本を刊行して50年、坂本篤の発売禁止、罰金、逃亡、入獄に彩られた70余年の生涯を描く初の評伝。
*書店にない場合は出版社にお申し付けください。
皓星社 東京都千代田区神田神保町3-10 03-6272-9330