文 / 納和也

 2010年の7月頃長野と東京を通勤往復していた頃最終の新幹線で長野駅に着いた時頭がくらっとして「おかしいな」とやり過ごしそのまま車に乗って飯綱の家まで向かう。途中考え事をしながら。もっとも悲観的な気持ちの考え事が頂点に達した時体中の血液が頭に流れ出した。そのまま運転が出来なくなり途中で車から降りて過呼吸が治まるのを待った。治まりはしないがそのままだましだまし綱渡りに様に車を運転し家にたどり着く。これがすべての始まりだった。そこから薬と共に暮らす日々が始まった。レンドルミン、メイラックス、レボトミンと薬を処方してもらった。薬の副作用で昼間眠くなり仕事も出来なくなった。会社を休職しそのまま年を越した。何とか仕事が出来るのではとトライをしたが1時間もパソコンの前に座ってられなくなった。休職期間があけ昼飯を同僚と日比谷まで食いに行った帰り地下鉄日比谷線を降りたら東日本大震災が起きた。余震が夜中まで続きその日は心療内科の診察日で医者に向かうと先生他看護師の方々、家に帰るめどがたたないまま診察をしてくれた。その日は僕は会社に泊まった。その翌月会社から病気で使い物にならないという事で退社勧告を受ける。ただ会社の外注として仕事をくれるとの事。会社を辞めて家で会社の仕事を受け仕事を進めるが体調が悪く失敗を繰り返しやがて切られた。身体が言う事を聞かないのだからどうにもならない。眠気が半端ない。やがて東京に通えなくなり医者を長野市内の心療内科に変える。長野市内の心療内科の処方をうのみにし気が付くと10種類以上の薬を毎日飲む事になった。怖いことに薬に体は慣れて眠気は治まってきた。薬を飲んでいれば日常生活は問題なくなった。しかし飲まないと禁断症状が出て不眠、震え、不安感が一気に押し寄せる。無知だった頃薬を2日分1日に飲んでしまい翌日薬がない状態を経験した。地獄だった。薬で平穏を保つ毎日が始まる。そのまま5年薬は増え続けほぼ薬ずけの毎日が長く続く。
 しかしここで転機が訪れる。今年に入り最初に駆け込んだ東京の心療内科に行ってみたのだ。すると先生が「これはこのまま続けると痴呆症になる、出来れば月一回でもいいから通わないか」と言われ自分でも現状の薬の多さに今頃はっと気付かされたのだ。決心をし心療内科を元の東京の心療内科に変えた。薬はみるみる減っていった。何と減らすと治るのだ。身体が治ってくると薬の飲み始めの頃のような眠気が復活した。要するに薬による身体の麻痺が改善してきたのだ。そこで先生は眠気のある薬を減らしてくれた。すると眠気がなくなり食欲が復活し身体に血液が回り始める実感が湧いてきた。良かった!しかし、心療内科を東京に変えてすぐに職業訓練校の講師の仕事を頼まれた。行って講師の実習を行い家に帰り眠り朝になったら涙が溢れていた。相当に実習が辛かったのだ。そのまま今度は鬱が発症した。せっかく良くなって来たのに!ここでこじらせたら大変なことになる。状況を東京の心療内科の先生に話した。東京の心療内科の先生は毎回30分カウセリングをしてくれる。だから自分の身に起きることを踏まえて適正な処方をしてくれる。身体は心の鏡である。いつ急変してもおかしくないのだ。本当に良いタイミングで東京の心療内科に変えて良かった。しかし職業訓練校の講師の仕事で自信を大きく喪失し仕事道具であるパソコンを開くのが怖くなる症状が出て今も続いている。4ヶ月この症状に悩まされている。こういう症状は薬だけでは治らない。しかしにカウセリングを時間をかけてしっかりとしてくれているおかげで心が楽になっていく。先の指針も示してくれる。本当にありがたい。長野市内の心療内科の診察時間は1回5分である。東京の先生が言うにはこれが現在の標準時間らしい。これでは話にならない。これではすべて薬だけでけりをつけるしかないのである。経験して判ったが鬱の薬は鬱を呼ぶ。普通ならその都度薬は増える。社会復帰など出来るはずもないのだ。自分は幸運にも鬱は薬だけで解決はしないという事を知る事が出来た。とにかく焦ってはいけないと自分に言い聞かせている。じっくりと。

納和也 Kazuya Osame クリエイター
1971年埼玉県熊谷市(旧妻沼町)生まれ
http://osamekazuya.com

2016年9月10日 ナガノオルタナティブ2016「ランドスケープ」外伝ライブ
フラットファイルスラッシュ倉庫ギャラリー
2016年9月23日 ナガノオルタナティブ2016「ランドスケープ」外伝ライブ2
フラットファイルスラッシュ倉庫ギャラリー