ゴールデンウィークの連休を使って家族で嫁の実家を訪れるのは毎年恒例の行事となっている。
呆れるほど寛容なおじいちゃんに会いに行くと分かると子供達は、楽しみで夜も眠れなくほどだ。
そんな彼女らの期待を裏切れるわけもなく、私には見せることのない義理の父のトロケそうな顔を見に車を走らせた。
嫁の実家は隣県だからそれほど遠い訳ではないが、車中の子供達は歌ったり喧嘩したり笑ったり、世紀の発見にも勝る予測不能な童心たちの呼応に、片道150キロほどの時間が毎度の思い出になる。
今年は4月まで寒さが尾を引いていたから、窓から入る風が堪らなく爽やかで、そうでなくても自然と気持ちまで清清しくなった。
「いつ頃着くんだ?」
しびれを切らした義父の電話に急かされるように、赤城山に向かって登っていく。
嫁の育った赤城の裾野には畜産農家が多く、山から吹き下ろしの風に乗って何とも香ばしい牧場の匂いがふわっと漂ってくる。
この得も言えぬ香りが嫁には、“帰ってきたな”と実感する郷愁のポイントなのだと言う。確かに私もこちらに暮らしていた頃は、赤城ら辺りの芳しさとして無意識のうちに感受していた。
そんな香りにつられて子供達は窓の外を覗き込み、目的の家を探し始めるのだ。まるで、おやつを前に“待て”と言われた子犬のように色めき立つ。
「おじ〜ちゃ〜ん!」
実家に到着すると子供達は一目散におじいちゃんのところへと駈けていった。その子犬たちの飛び跳ねる姿を見て、ホッと一息つく。
そしていつも私は、この家の庭にある一本の藤の木に目を向けた。
私たちが訪れるこの時期、庭に育つ小さな藤には、ひと際大きく、1年で一番の美しい花を携えていた。
毎年私はその藤の花を眺めながら哀愁の念に駆られるのだ。こうも執着しながら、十数年程前まではひと欠片の興味も無かったのに。
私を魅了する可憐な藤の花が、真夏になれば四方に蔦を伸ばし鬱陶しさを感じさせる事すらも、以前は知らなかった。
・・・・・
大学を卒業した当時の私はこれといった方向性も見いだせずに、ただ何となく、気付けば20代後半まで人生を垂れ流していた。こんな生活に区切りを付けなければ、それこそ一生を棒に振る事になるとひしひしと感じながらも、生温い日常から抜け出せずにいた。
高校を卒業したら親元を離れて自分1人で自由な時間を謳歌したいと、具体的なイメージも無いまま県外にを飛び出したは良いものの、責任を持たない自由ほど幼稚で浅はかな思考だと、自分で金を稼ぎ生活していいく中でほとほと身に沁みていた。
そんな私の心境に示し合わせるかのように、「お父さん、このところ様子が変だから帰ってきて」と母親から電話があり、実家へと戻る事を決めた。
丁度、夏の暑さが茹だり始める梅雨明けの季節だったか。
兄は若くして他界し、妹も東京に出てからというもの、両親は実家に2人きりで暮らしていたが、そこへきて親父は年齢的な衰えからか物忘れも酷くなり、少しの酒に呑まれてトイレや寝室の場所も分からなくなる事が増えていた。
こんな状況だからお袋は心労から家事も疎かになり、以前と比べて家の中も荒れていた。
思い返してみれば実家を出てからは年に一度も帰省すれば良い方で、帰ったら帰ったで実家の内状など露程も顧みず慌ただしく戻ってしまうばかりだったから、実際にまた一緒に住み始めてみると両親の生活の荒んだところが日に日に見えてきた。
これは俺が何とかしないといけないと溜め息まじりに、とはいえ自分自身それまで根無し草のごとく漂って生きていたものだから、頼られるのもまんざらでは無いといったふうに、この家の生活感を取り戻そうと思い始めた。
そんな時、ふと2階のベランダの手摺りに蔦を伸ばす植物が目に入った。
その蔦は庭から2階まで家を浸食するように壁を伝って伸びていた。
「草が好き放題伸びてるな。」
昔から庭いじりには全くの無関心であった親父と、共働きな上に子育てと家事で手一杯のお袋であったから、私が幼い頃から庭は母方の祖父が、好きな時に来て好きなように手入れしていた。
消防一筋で仕事人生を勤め上げた祖父は、年齢以上に体を動かす事が好きな行動力の人だった。還暦を過ぎてから始めたスキーを精力的に覚えるバイタリティには感服してしまう。これも朝鮮出兵の生き残りとして激動の時代を駆け抜けてきた人だからだろうか。
そんなだから我が家の庭が、時には野菜畑であったり、時には手製のビニールハウスに数え切れないほどの盆栽鉢が並んだりと、見ていて飽きなかった。
だがそんな祖父も視力が衰え始めてからというもの、周りから車の運転を止められるようになり、その頃には庭に顔を出す回数もめっきり減っていた。
確かに庭のあちこちに背丈の大きい雑草が目に付いた。
(いっちょやったるか)
そう思うと私は庭中の雑草を片っ端から片付け、その蔦の木も躊躇無く根元からすべて刈取った。
ところがその晩、どちらかと言えばしたり顔で蔦の話をすると、突然お袋は血相を変えて怒り出したのだ。予想だにしなかった反応に私も面喰らった。
「おじいちゃんが大事に育ててたのに!」
それは、祖父が藤棚を作ろうと、蔦を丹念に2階のベランダに這わせていたと言うのだ。
やってしまった。
顔が青ざめるとはこの事かとばかりに愕然とした。
なんでも藤の蔦が木化して太くなるには、何年も歳月が掛かると言う。確かにノコギリで切ったその幹は、細い蔦が変化したとは思えないほど立派な木に成長していた。
心底申し訳なく後悔した私は、翌日祖父に謝りに行くと、「そうか。いいんだ。そろそろ片付けようと思ってたんだ。」と言う。
違う。
私を気遣い、何事も無かったかのように振る舞う祖父に、悔やんでも悔やみ切れない。
いいんだ、いいんだと祖父が淹れてくれた緑茶の渋みが、今もまだ口の中に残ってるかのようだ。
少し後で知ったのだけど、藤にはいくつかの種類が在り、花びらの色や房の大きさが違うのだと言う。
加えて、育て始めてすぐに花をつける訳ではなく、何年も、長ければ10年以上も花を拝めないことだって、ざらにあるそうだ。
祖父はどんなことを思い、藤を育てたのか。
自分が育てた藤の花を一度でも見れたのだろうか。
言わずもがな私はその後も、祖父の心の機微を尋ねることはできなかった。
時は流れ祖父も親父も亡き今、私も子を持つ親となり、我が子らの未来に想いを馳せる心地を知った。義父の家に咲く藤の花を眺めながら、祖父が育てようとしていた藤棚を思う。
子供達がおじいちゃんと戯れ合うケラケラと甲高い笑い声を聞きながら、赤城の吹き下ろしの風に揺られて靡く藤は、惚れ惚れするほどの魅力を放っていた。