黒い、考察。

Copperplate(5200mm x 3600mm) engraving 2016 / deep etching print / Masami Yoshimura

Copperplate(5200mm x 3600mm) engraving 2016 / deep etching print / Masami Yoshimura

文・作品 / 吉村正美

 そのものは、顔料と油が酸化し固まった物質として、現前している。
実はこの物質はある姿を消したものの代わりとなって現れているのだが、その姿を消したもの、それは銅という金属である。
姿を消すという事は、私により、目の前から私の思考分の銅が消滅させられているという事なのだ。しかし、こちらとしては銅に思考を刻み込んでいるつもりが、消滅させられているという事実も相まってか、金属特有の冷たさで見事に突き放され、その思考は銅についた傷でしかなく、単なる空洞だ。
それではあんまりだと言うことで、空洞になった思考を可視化させるべくもう一度空洞を埋めていく作業が必要となる。
重要なことは、無くなった分の金属は刻み込まれた思考であるということと、無くなった分の金属と同等の強さを持つものが必要だという事だ。

 そこで、私の思考と金属の強さを可視化できるものを使うことになるのだが、選んだのは黒という色である。
黒というものは、殆どの光の波長を反射せず、光を吸収してしまう。人間の可視領域に於いて、感得されないその状態が ”黒として見える” と言う事なのだ。そして、光というエネルギーを吸収すると熱を生む強い色である。
 ただ、人間に感得されない状態が黒として見えるというのならば、黒色は見えているようで、実は見えてはいないとも言えるのではないか。しかし、黒という色の物質として現前している。どうやら黒は、見るとは、を改めて考えさせる色である。
 銅の空洞に埋められた黒色、その黒色は見えているようで、実は見えていないかもしれない。しかし、物質として現前している。
その黒はまた、距離をとると空洞として見えてくる。また、空洞は距離をとると黒として見えてくる。光が届かない場所は、黒のみ感じることができるというわけだ。
私の思考で黒を使うのは、光の届かない場所、奥底を感じる事ができるからである。

吉村正美 Masami Yoshimura
1973年長野市生まれ
画家
多摩美術大学にて版画を習う。
大学院在学中より制作活動に放浪活動が組み込まれ、以後除々に放浪活動に浸食され、遂には制作活動休止状態になるも、2007年復活。
http://masamiyoshimura.com