貞子講義 

hattoriyusuke18耳のないマウス『移動する主体』
2016
『箱のなかに入っているのはどちらか?』展より
『カタツムリ』のヴァリアント『移動する主体』の一部
3331 Arts Chiyoda(東京)
(耳のないマウスのwebページより)
写真 / 石射和明


文 / 服部洋介

 志賀高原ロマン美術館(山ノ内町)にて開催中の夏季企画展『内在する触感』に、「耳のないマウス」のインスタレーション『カタツムリ』が展示されている。切断された人の手首を二つ重ねて作った「カタツムリの身振り」が、展示ケースの中でカサカサ動いたり、「カタツムリの身振り」をしたマネキンが、床や壁をカタツムリと同じ速度で這いずったりと、かなりホラーな作品である。前回も書いたように、耳マウスのアート・ハッカソン受賞展『箱のなかに入っているのはどちらか?』(東京) のレビューを私が担当した関係で、ロマ美でも展示室の一角に長大な序文を付したレビュー改訂版が置かれているので、根性のある方は立ち読みして下さい。
 さて、先の「箱の中」展のフライヤーに、私は『実体化する記号――ホラーとしてのアート』と題して、こんなことを書いた。

 手の甲に眼鏡をのせて作った顔〈のようなもの〉を作って喋らせてみる。〈それ〉を見た幼児が、ひどく怯えて目を背ける様子が印象深く思い出される。〈記号〉として与えられた〈それ〉は、もはや手でもなければ眼鏡でもなく、顔でもない。人の顔を歪に真似ようとする得体の知れない顔〈のようなもの〉なのである。
 〈記号〉は、モノ自体を代替する過程において、時にその不吉な相貌を覗かせる。間主観的に〈それ〉の意味するものが何であるかの合意が成り立つ時、私たちは「それはしかじかである」という肯定命題を得る。反対に、〈記号〉自体が真にモノとして現われる時、私たちは、〈それ〉を否定をもって指し示すことしかできない。〈記号〉がモノと入れ替わる時、そこにはある種のおぞましさを伴ったマイナスの現実が立ち現れる。意味から棄却された無意味は、意味の差延的再帰が生み出す亡霊なのだ。
 今展に突如として現われたこのカタツムリ〈のようなもの〉は、ロボティクスと融合することで貞子的なメカニズムを獲得したビジブルな〈記号〉である。その奇怪さは、図らずもこの作品が一個のホラーであることを物語っている。2

 と、貞子を引き合いに出して、耳マウスの『カタツムリ』を語っているわりには、肝心のレビュー『〈存在〉のホラー――〈人間〉を棄却する快楽』には、貞子のサの字も出てこず、おりしも今夏、伽椰子とアホな対決をくりひろげて微妙な注目を集める貞子を無視するのもいかがなものかと考え、『貞子講義』をものすることに決めました。映画、私は観てないけどね。
 さて、まず、「実体化する記号」というが、実体とは何であるか? いわゆる仮象に対して実体という時、耳マウスの松田朕佳がしばしば引き合いに出すプラトンの「洞窟の比喩」が思い起こされる。われわれの感性的な認識対象は、実は実体の影であって、実体のごく捨象された「部分」を対象の「すべて」だと勘違いしているのではないか、というたとえ話だ。仮象とは実体の劣化した影であり、実体を代理する一種の記号にすぎないという思考モデルは、感性界においても様々なレベルで適用され、現前の度合いに応じて階層化された秩序を形作っている。パロールとエクリチュール、オリジナルとコピー、正統と異端、無標と有標、無限と有限、実物と記号――それらあらゆる二項対立、内部と外部をめぐる争い、端的にいうならば、あるものをめぐる同一性と差異こそが実体問題の核心だ。
 たとえば、パロール(発話)が実体としてエクリチュール(テキスト)に優越するのは、エクリチュールには誤記や誤写が入り込み、発話者の意図が正しく再現されず、権威もなければ精度にも欠けるからだとプラグマティックに考えるとしよう。この場合、書かれたものは、実体が劣化した記号にすぎず、実体の不正確な代理物として差異や誤読を発生させかねない。で、後から発話した本人が出てきて「俺はこんなことは言ってねえ」とか、そういうことを言い出すのである。いや、おまえの記憶の方が不確かだと思うぞ。あるいは、勘違いされるような発言でもしたんじゃないのかと言いたくなるね。
 というわけで、代理的な記号というものは、実体というか実物というか、そうした超越的外在の指示によって内容を規定されているのであって、記号だけでは意味をなすことができない。道路標識にしても「これは一旦停止のマークです」と交通教本に明記されているからこそ、その意味が理解されるわけである。芸術の世界でも、かつては外在の自然を忠実に再現するのが偉いといわれていたが、ドイツ観念論のあたりから考え方が変化してきて、自然が不完全にしかなしえていないものを、人間が反省を加えることによってより完全な美として再現できるという考え方が生まれてきた。そうした美的直観を押し進めれば、「自然を再現しているからこれは美であり芸術だ」みたいな美における外的な根拠は必要ない。「俺が美しいと思うから美しいんだ」ということで結構なのである。そして、作品もまたその原理を反映しているため、それは一つの実在(何かの代理としての記号ではない実物)であり、その意味は内部に存するのであって、外的に指示されるものではないのである。作品が言わんとしていることは自ずからあらわれているのであって、「ここはこういう意味で、あそこはこれこれという意味と決まっています」なんて説明はいらない。このような意味の規定にとらわれない――つまり、何かの代理ではない――絶対的な表現のあり方をシェリングは〈象徴〉と呼ぶ。
 逆に「この絵に出てくるこのキャラはこういう意味で、こんなモノはあんな意味」とすべて設定が固定された、実定的な決まり事にもとづく表現を〈アレゴリー〉という。ブルクハルトあたりに言わせると、15世紀のイタリアあたりには教養ある市民が多くいたため、仮装行列におけるアレゴリー的扮装がただちに理解されたのであるが、北方では決まり事が雑然としていたため、イマイチ理解できないものも多く、〈象徴〉としての表現にとどまっていたという。3 のちにガダマーは〈象徴〉というロマン主義的な芸術体験のあり方を槍玉に挙げ、「アレゴリーの復権」ということを言い出して、クレイグ・オーウェンスあたりに影響を与えた。ガダマーによれば、〈象徴〉なる無規定的な表現を称揚する志向は、シェリングの時代にたまたま支配的であった天才美学に基づくごく特殊な価値観にすぎず、歴史的に見ればアレゴリーが不当に貶められる理由などどこにもないということになる。
 さて、ここで貞子の話に戻ろう。話の筋はこうだ。この人はとてつもない超能力者で、井戸にポイされてその中で死んでしまうわけだが、その怨念を一本のビデオテープに込めて世間様に送り込むことに成功した。で、その呪いのビデオを見た輩は、ビデオの指示にしたがわないと一週間以内に呪い殺されてしまうのですが、なんと、アホな奴が肝心な部分を消去してしまい、ビデオの指示が何なのか、サッパリわからなくなってしまうのである。映画『リング』4 では、呪いの解除に失敗すると、いきなりテレビに件の井戸が映りこみ、そこから貞子が這い出てきて、終いには「よっこいせ」という感じで大儀そうにテレビのフレームに手をかけて、こっち側の世界にまでやってきてしまうのである。このとんでもない状況を、完全な実写ローテクで再現したところが大ウケにウケた。あのナマな感じはちょっとCGでは出ないよなあ。
 というわけで、『リング』のビデオは、貞子の思念の代理物、つまり一つの記号表現であり、その意志の主体は貞子であるとする考えから、主人公の松嶋菜々子と元旦那の真田広之は、貞子を探して「呪いを解除するにはどうすればいいのか」を聞き出そうとするのだが、当の貞子はもうお亡くなりになっていて、超越的不在と化していることが判明、まさに「テクストに外部はな」かったのである(デリダ)。というわけで、実体が消滅してしまった以上、代理であるビデオだけが実体の唯一の痕跡だ。しかし、この代理品は意図的に劣化させられており、記号の意味は完全に外部化してしまっている。誰かが教えてくれないと言わんとするところは解読できない。まさにオーウェンスのアレゴリー論の示唆する状況が生まれてしまったのだ。先行する他の作品の引用からなるアプロプリエーションは、オーウェンスによればアレゴリーである。作品の意味は外部にある。それが引用、参照だと理解できなければ、アプロはアプロだと気づいてもらえない。しかし、鑑賞者が引用に気づくかどうかは本人まかせであり、それを知らずに作品の印象だけを受け取っても、対象を解釈したことにはならない。そこに一つの誤読が発生する。『リング』においても、貞子の意図を読み違えて、真田広之は呪い殺されてしまう。アレゴリーというのは、ある特定の状況でしか通用しない、きわめて限定的な表現の形態であり、決まり事が忘却されてしまえばそれまでなのだ。
 それに対して、無限かつ普遍的なものを表現したものが〈象徴〉であるとシェリングはいうのだが、この定式はちょっとわかりにくい。〈象徴〉を代理物としての記号に対置させるのならば、すなわちそれは実物や実在であるといったほうがわかりやすいだろう。ただ、実物としての象徴が記号ではないとしたら、意味を指示してくれる人もいなければ、解読のためのコード表もないわけである。実物における意味は内在である。一見、自明に見えて、実はよくわからないのが実物なのだ。ブルクハルトにいわせれば、〈象徴〉は複数の意味をもち、何をあらわしているか判然としない表現のありようであって、それがともあれ実在として存在していること自体は直観的に理解されえても、それ以上の解釈は不可能だ。また、それが芸術作品である場合、〈象徴〉において直観的に捉えられる内容は漠然としたものであって、崇高さとか偉大さとか無限の感覚とか、なんだかわからん感動や畏怖みたいなものが大半だ。「じゃあ、具体的には何?」といわれても、アレゴリーのように定式化されたものではないので、真田広之のようにビデオの各部を何となくの全体として捉えて失敗し、呪い殺されることも出てくるのである。
 このように、代理としての記号は、何かのはずみで外的な意味を喪失すると、それ自体が自立して意味のない〈かたち〉だけの世界を形作る。意味という観点から見ると、それはむしろ〈象徴〉に近い。なぜなら、外的で実定的な意味(シニフィエ)から切り離された記号表現(シニフィアン)すなわち〈かたち〉は、非実定的で自然的な、無規定の意味をまとうことになり、結果、「よくわからない意味」の巣窟となるからだ。私はこれを実定的な、つまりポジティヴな意味に対して、ネガティヴな意味とかマイナスの意味と呼ぶ。記号としてはまったく無能力なありようである。ただ、このネガティヴな意味、それを意味と認識する人からするとそれは自明で絶対的な意味であるから、それを振り回されるとちょっと迷惑なことにもなりかねない。たとえば、『HOPE~期待ゼロの新入社員~』の第5話 5 で、鉄鋼2課の結城主任が、やたら新規提案したがる新人の桐明くんに「君には第一にやるべきことがあるはずだ」ということをウザい事務仕事を通じて悟らせようとするのであるが、桐明くん「そんならそうと言葉でハッキリゆってくださいよ!?」。主任「言わな気づかんようならアカンな」……。いや、それはおまえがアカンぞ!! こうまで表現の意味が表現の主体なりによって内部的に独占されてしまうと、他の人に外から曖昧な判断をされてもしょーがないよなって話だ。
 耳マウスの『カタツムリ』はそのへんをついた作品で、カタツムリの身振りをしているからといって、それが何かってことはホンマはわからんぞ、という作品である。実際、初めて試作品を見せられた時、「こりゃなんだ!?」ってなったからね。6 東京の個展会場でも人々を怯えさせちゃったらしいし、ただのカタツムリのマネなのに、どうしてこんなに怖いのであろうか。これがアレゴリーであれば問題なかったに違いないが、もはやリアルなカタツムリという実体に束縛されることなく、〈象徴〉として自立した実在と化した耳マウスの『カタツムリ』は、ひたすらネガティヴな意味を引き寄せ、ちょっと惨殺死体を思わせるビジュアルも手伝って、一部ピープルに「トラウマになる!」と怒られた。ちゃんと『カタツムリ』ってキャプションがついてても、もはや影絵の楽しいカタツムリの像を連想してくれる人はいなかったというわけだ。これじゃあ身振りでも記号でもない。代理としてはまったく無能力である。実のところ、これはカタツムリの代理記号ではなく、その同一性を極度におびやかし、ついには実物にとってかわる代補(supplément)なのである。
 さて、〈作者の死〉によって自立を遂げた呪いのビデオは、ますますプレゼンスを増大させ、実体にとってかわろうとする。実のところ、呪いのビデオというのは、(後で判明するのだが)それをコピーして他人に見せないと呪いを解除できないというシロモノで、「なんでそんなことになってんの?」と、理由を作者に問いたいのはやまやまだが、それはできない。残されたのはシニフィアンだけで、それがそういう仕掛けになってるんだからしょうがない。こうして記号は代補化して暴走をはじめ、ダビングという模倣行為を通じて、コンテンツはミームのように広がりまくるのである。貞子があとで「あ、それ停止」と考えたとしても、ちょっと止まりそうにない勢いだ(本人は死んでるしね)。作者の意志を超えて記号が猛威を振るう事態は、シニフィアンの専制などと呼ばれる。ガタリなどは「本来、意味のあるのは記号の内容なのに、資本主義的なシステムは記号を有意なものにして、その内容であるモノや人間を無意味なものにしてしまった」とかなりキレていた。7 資本主義に限ったこっちゃないが、人間てのは、いつしか人を道具みたいにして、都合のいいように記号化して操作するようになるってことだ。営業成績とかを数値化して、「うーん、こいつはちょっと戦闘力が低いな、クビだな」なんて簡単にできちゃうのも、人間を数字に置き換えているからだが、それが自分の親しい身内だとしたら、PCのファイルをボタン一つでデリートするような感覚で人を消去するようなことはなかなかできないだろう。記号化の極点には一つのデータ化、断片化というべき事態が招来され、実物の内容というのは切り詰められ、不要な部分は省略される運命にある。逆に〈象徴〉であれば、意味-価値は実物に内在するため「人間には存在するだけで意味がある。それぞれの人にそれぞれに大事なモンがあるんだ」くらいなことは言える。もっとも、それを他人がすんなりと受け入れてくれるかは別問題、人は常に他者を記号化し、実在の都合の悪い部分からは目を背けようとするものだからだ。
 耳マウスは、人間が生み出した記号的な世界に対し、一つの問いを投げかける。それは、人間を「人間らしさ」の名のもとに外部から過度に規定しようとするあらゆる同一化の作用に抵抗を試みるアナーキーな戦略だ。それら外在の意味を拒絶したところに、「人間を棄却する快楽」が生まれるのだ。記号的世界において、私たちはかえって記号そのものを自身の内容とし、私たち自身が記号に置き換えられていることに気づく。私たちがそのような内容を放棄する時、つまり、代補を代補化する時、私たちは脱記号化され、再び実物、実体に還元されえるのではないか――『カタツムリ』シリーズは、そんなことを問いかける作品なのである。
 呪いのビデオの真意は、案の定、早々に損壊され、内容のよくわからないものになってしまった。ゆえに当初の貞子のメッセージとは相違して、ビデオはダビングされることなく無駄に死人だけ増えてしまう。考えてみると、みんながダビングをくりかえしたら、これはホラーでも何でもないわけで、ビデオのせいで死人が増えることがホラーなのである。ホラー映画としての『リング』を見る時、貞子の真意というのは、実はホラーではないことに気づく。この映画は貞子というより、代補としてのビデオの恐怖を描いたものだったのだ。そして、終いにはテレビの中から実物の貞子が出てくるに及んで、実体と記号、オリジナルとコピーの境界は無化され、両者は混交し、汚染しあうことになる。その運動の一面のあらわれとして、端的に記号は実体化され、実体は記号化されるのである。その不穏で危険な関係こそが〈呪い〉であり〈ホラー〉なのだ。むしろ、ダビングによってもたらされる安定的な状況、つまり固定化された意味の正統的継承というアレゴリー的な状況に〈ホラー〉はないのである。
 しかし、この実定的、アレゴリー的な意味がいつまで現前可能であるかは保証の限りではない。世界は常に欠如と代補の危険にさらされている。作中で、呪いのビデオは貞子の〈子〉に擬せられている。嫡出の〈意味〉が存続するためには、差異を生み出す異物としての代補、私生児的な〈意味〉は抹殺されなくてはならない。結局、〈ホラー〉というのは、その私生児性に由来するのであって、オリジナルの圏域を蝕み、拡散させ、すっからかんにしてしまう蕩尽であり、戯れやナンセンス、不毛性、そして死との親和性が高い〈象徴〉的、意味不明的な事態をあらわす言葉なのだ。この〈呪い〉は、より可視的(ビジブル)なものである。テレビの中なら「ウソモノだな」という感じだが、テレビの外にリアル貞子が這い出てくるに至っては、実在感満点である。これは私生児的な〈意味〉が発現した瞬間であり、記号が代補化した転位の一点なのだ。ダビングさえしていれば〈呪い〉は発現しない。ダビングという行為は、エコノミーな回帰を保証する供犠なのだ。
 ただの記号が代理から代補へと転位する時、それは暴力性を帯びることになる。国会議員はさも国民の忠実な代理のようにふるまっているが、議員は単なる大衆の代弁者ではない。頼んでないことだって必要次第でやっちゃうのである。テレビは新聞の代理品ではなく、ネットはテレビの代理品でもない。単なる便利な記号、手軽で省略された縮約版のようなものが、いつしか独自なものへと変貌した時、それは記号ではなく代補というべきものとなる。しかし、実体と記号、代補の関係は単なる二項、ないし三項の対立ではない。貞子の真意の通りビデオがダビングされるためには、〈呪い〉の存在は不可欠である。だって、ただの善意や遊びで誰があんなのダビングしてくれるんだよ。デリダの喩えだが、嫡出の子(愛される子というくらいな意味で、法律上の語ではないことに注意)でいるためには、子は常に親に似像を送り返す必要がある。親に似ていなかったり、言うこと聞かなかったりする子は「あんたなんかうちの子じゃない」とか言われていじめられる。似像を忠実に送り返す嫡出の〈意味〉は、親の恐怖の権力、つまりは〈ホラー〉によって同一化されているのである。好き勝手にやっていいって話になったら、子どもなんてもうめちゃくちゃだからね。親の嫡出子への愛が期待通りに満たされ、子が親の似像でありつづけるためには、愛は、愛の代補であるホラーと適度に一体のものでなくてはならない。愛とホラーは不可分の関係にあり、報酬の得られない愛は容易にホラーへの傾斜を強めるものである。似像や見返りがホラーによって強制搾取されたものならば、真の贈与関係にないことは明らかであるが、実際、完全な贈与なるものは現前せず、愛は、権力・ホラーと互いに汚染しあうことでかろうじて語りうる相補的なものとして存在しているにすぎないし、そうじゃないほうが不自然だ(愛を単体で理想化したがる人はとても危ない)。しかし、ホラー(それは愛自体と不可分のものでもあるのだが)の行き過ぎで子が親という実体の単なる記号、代理となってしまったら、人生おしまいだ。それでは人の忠実な道具である機械と同じだ。そこはぜひ代補となり、実体として生きるようにおすすめしたい。なぜなら、人間、なぜか単なるマシーンには苛立ちを覚えるらしく、終いには「人間みたいな機械を作ろう」と言い出して、よせばいいのにロボットに意識や自由意志をもたせようなどと画策するからである。シェリングも「単なる記号としての実在にわれわれは魅力を感じない」的なことを言っている。8 愛されるためには、適度にアサーティヴな代補であるほうが無難ということらしい。人の言いなりは、いじめられるもとである。
 しかし、実在が真に実在となり、〈象徴〉や代補になったら、もう以前のように、単なる代理として顎でこき使うことはできないぞ。機械が人間にとってかわって復讐するという恐怖をフランケンシュタイン症候群というが、それは人間同士でも同じで、パワハラ上司の信長と同じ末路を辿らないためにも、実体ないし代補を扱う際には、くれぐれも愛や権力の押し付けはつつしむことだ。ただ、それでも権力と才能が勝れば、かのクソ上司スティーブ・ジョブズのように返り咲くことも可能なのだが、私は勘弁してほしいね(ジョブズもまた彼自身が〈象徴〉であり、彼の意味は彼のうちに内在していたし、内部と外部の区別がない変に神秘主義的なところがあった。現実歪曲空間という彼のあだ名はそれを示している。いわゆるジャイアニズム、シェリングの絶対的同一性)。
 いずれにしても、人間を相手に記号が実体化するには、何らかの権力を行使できるだけの存在感が必要である。現実を代補するVRやARの技術的進歩には確かに目覚ましいものがあるが、その一方で、AIとマニピュレーション機能を兼備したロボットは、端的に実在であり、人間が観念によって断片化できるシロモノの域を超えている。これが意志でももとうものなら、厄介な隣人がまたぞろ増えてしまうのである。いい人だといいんですけど、ホラーな人かもわからない。記号は単一の意味と結びついているうちは、意味の従属物である。人間の指示を聞くだけなら機械は記号である。外部からの意味が隠蔽された時、またそれが弱化した隙をついて、記号は代補として意味や実体にとってかわるのである。意識=精神の発生とはそういうもので、自らの圏域において自己の内部で意味を作り上げるのだ。デリダからすると、代補と実体の境界は決定不可能であり、代補は常に実体の内部で動く〈内部の内部〉である。その〈内部の内部〉を外部化するうちに、最後には実体自体が外部化し、内部には記号が残されるのである。クリステヴァのアブジェクシオンも類似の概念だといえるだろう。
 石射和明の手になるギミックを組み込まれた耳マウスの『カタツムリ』は、テレビから外部化を遂げた貞子と同じ、フランケンシュタイン的な危険物としての代補であり、実体である。それは、人間が棄却され、外部化され、消滅する道程のささやかな第一歩なのかもしれない。人間が、自身の生存と繁栄のために実体を生産の掟のみに特化して規定し、自身と他者を記号化しようとするとき、その内部ではすでに危険で呪わしい代補が動き始めている。『カタツムリ』はそうしたことを示す一つの〈象徴〉なのだ。なお、実体と代補の関係を貞子以上に暴露するホラー作品として堀井拓馬の小説『なまづま』(角川書店、2011年)を挙げておこう。日本語はひどいが、内容は秀逸だ。おもろいで?

▶もっとよく知りたい人のために
『存在の恐怖――人間を棄却する快楽』http://www.miminonaimausu.com/
(ページ中ほどのExhibition Reviewのサムネイルからweb版をDLできます。英語/日本語)

1 3331 Gallery(3331 Arts Chiyoda、東京)、2016 年5 月19 日~29 日。
2 服部『実体化する記号――ホラーとしてのアート』2016 年。
3 ヤーコプ・ブルクハルト『世界の名著45 ブルクハルト』所収「イタリア・ルネサンスの文化 一試論」柴田治三
郎訳、中央公論社、1966 年、439 頁、441 頁。
4 映画『リング』(中田秀夫監督、1998 年)。原作は鈴木光司の同名小説(1991 年)。
5 フジテレビ。2016 年8 月15 日放送。
6 2016 年3 月29 日。スターバックス川中島店にて。
7 フェリックス・ガタリ『人はなぜ記号に従属するのか 新たな世界の可能性を求めて』杉村昌昭訳、青土社、2014
年、28-29 頁。
8 フリードリヒ・シェリング『シェリング著作集3 同一哲学と芸術哲学』所収『芸術の哲学』小田部胤久・西村清和
訳、燈影社、2006、275 頁。

服部 洋介 Yosuke Hattori 
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14