水簸砂

文 / 町田哲也

「毎朝定刻に間に合うように通勤電車に揺られて遅刻は数える程だった。諭されても怒鳴られることはあまりなかったように記憶している。しなければいけないことが絶えず山積していて、ひとつづつ片付けることがつまり仕事だ。開放される時を待っている。あとどれほどか残りの時間を数えることもある。だが日々の山積みがなくなり、さて俺はなにをすればいい」
 片岡は、机に肘をつけてカップに残った珈琲を、喉を縦にくっきり動かしゆっくり飲み込んだ。まだ陽射しが残る時間から会う事などこれまでにはなかったと、山本は片岡の呟きに答えるように煙を斜め上に吹き上げてから唇を舐め、煙草の灰をポンと灰皿に落とした。軀を横に捻ったままだった洲本は片岡の台詞なんて聴こえていなかった風情で、
「オレ達は、互いに話すことなんかなくなっているわけだ。かといって家族で何を話す。返す事はあっても、放る事ができない。それより、どうなの儲かってるの?」
 山本と片岡は顔を見合わせて、顔を崩し、
「儲けって、お前の強欲は萎えないな」
 山本の失笑気味の返答を洲本は真面目な顔で受け止めて、
「そりゃそうでしょうよ。まだまだ。生かさないといけない連中もいる」
 学生の頃から童顔で、人生が暮れかけた薄くなった頭皮の面だからか、どこかエネルギッシュに見える洲本の尖らせた唇をみて、山本は、青年の頃の何かを浮かべようとしたが、朧な白い霧が垂れ込め、あの頃オレたちは一体何をしていたのかわからなくなる。これは前世紀初頭のものだと、店の主人から聞いたのはいつだったか。山本は洲本の肩越しの大きな柱時計を見やって、まだ5時前だな酒には早い。と零した。大学を卒業し夫々都合が月日を刻み互いを遠くに置いてしまった頃にマスターが亡くなった知らせを回した。彼等は葬式には顔を出さなかったが日を変えて線香を手向けに来ている。学生時分幾度も座り込んだ喫茶店だった。確か次男が跡を継ぎ改装の際に一旦取り外したが、常連客からクレームがあり、一度は売り払う予定だった柱時計を、次男が不満げに再び店に飾ったのは、嫁の強い意見に従ったらしいと客が話していたなと、洲本は山本の古時計に停まったままの視線の意味を汲んで柱時計に添えた。どうしてそんなこと知っている。と山本は洲本に尋ねると、片岡は、
「ほら、こいつ、丁度そのころ外に女ができて、ここが逢瀬の店だったわけだ。そうだよな洲本」と、やや茶化して説明すると、「丁度厄年だったなあ」と誰か他の人間のことのように恍けた。自分の棄てたような言葉に慌てたことを隠さずに、洲本は、否、嫁さんの意見というより、よりアンティークな店へ特化しようということになったようだよ。と密会蜜月を肯定するかに答えた。
 自営の下請け業務に精を出し、父親の狭い店を拡張して雇う人間を増やし、厄年を超えてから、ようやく時間ができたという洲本が、片岡と山本の、喫茶店主人への焼香以降やり取りを再開した、管を巻いて奉公業務に対する愚痴主体の酒の席に乗り込んで、女ができたと宴を盛り上げた時から、年に一度か二度、誰からとも無く誘い合い、場末の酒場であったり、時には近場の温泉宿で一泊などすることもあり、気楽にとりとめもない会話を交わすことが、この三人にとっては、日々不鮮明になっていく頃の無邪気を憶いだす時間ともなり、頻繁ではなかったが、忘れることなく呼びかけあるいは呼ばれればそれぞれ都合をつけた。

「古さが、時間の堆積が、身に堪えるようになった」身支度を部屋着に替えロビーの脇にあるバーの深いソファーに沈み込んだ身体を持て余すように片岡は呟いた。「新築のオープンしたばかりのモノは、またこれで建設前の切り崩した、なにか良くないものを零したような色の地面が浮かんで落ち着かない。まあ、縁の無い寝床というのは皆おなじかもしれない」
 住処を変えた事の無い洲本が、手を尽くして探した老舗の安くはない宿であったが、大きな檜湯槽に年齢の嵩んだ軀を並べた時も三人は無口で、飯もあまり口にせずに、酒ばかりを静まり返って呑んでいた。
「いつ頃からか、眠っている。休んでいる。仮にこのまま目を覚まさなくても構わない。という愉悦を喪失した。ぐっすり眠ることができなくなったもうできない。自分の眠った場所は十代の受験勉強と女への妄想を交互に転がした狭い部屋しか思い当たらない。以降所帯を持っても、脇に妻が眠っていても、まだ幼かった子供の寝顔を眺めても、この目には家族への嫉妬が灯って不眠の恐れがどんどんふくらんだ。薬に頼ってそれにも慣れてしまった」山本の、目を細めグラスの氷を指でつついて鳴らしながらの、独り言の細さの口ぶりには、臆面の無さを曝け出す響きが弱く籠った。
「女房は、俺の鼾に惚れたといっていた。嫁の実家でもところ構わず突っ伏してよく眠る。ぐーたらな肢体と鼾がどうしようもない動物そのものだと、子供が家を出る頃になった食卓でふいに口にした。そんなに俺の鼾は五月蝿いかと尋ねると、否、深夜ほんの数分ぐーすか漏らすだけ。妻はその度にくっきり目が覚めるのよと、知らぬ女の表情で、知らぬ女の声を囁いた。外にできた女とは長かったが別れることができたのは、最初から最後まで女はオレに無関心だったからだ。女の傲慢に救われたよ」
洲本の話の途切れを受けて片岡は、ここではじめて二人の顔をそれぞれ見つめ、彼らからやや離れるような表情で学生服を着た五十を過ぎた老体を浮かべ、檜風呂に横たわったオレたちはあまりに場所と時間にフィットしていた。声もでないほどにな。とシリアスな二人の告白に景を加えると、いきなり吹き出しそうになったがなんとか堪えた。

 昼間は古都を散策しようと男が三人で連れ立って歩くと、流石に歩むリズムがぎこちない。三様の生き方をしてきた男達が連れ立って歩く意味が、歩くごとに失せていく感覚があり、それは例えば歩みの速度であったり、自分でない男の視線の先が見えないことの苛立でもあり、同じ寺を経巡っても、結局誰かが誰かを出口で随分待つ羽目に陥り、俺たちには本当に重なることがなくなってしまったなあと笑うしかなかった。平等というのは無関係ということだなと洲本が笑った言葉に、ふたりは失笑を緩く返すだけだったが、片岡は喉の奥に、組織に従属していれば、こうしたことはない。従うか引き連れれば良かった。と言葉を潰した。
「龍安寺から仁和寺まで歩いた路傍で女がしゃがんでいたろう。片岡が車を呼びましょうかと声をかけた。俺と洲本は近寄らなかったから聞こえなかったが、女が頭を下げる前に、お前の顔をみつめて何か言った。あれはなんだった」
山本は、片岡の顔を見ずに、火のついた煙草をバーカウンターの灰皿に指先で押し消して尋ねると、
「カワカミさんですかと呟いた。人違いと一度は思ったが、首を振ると女の瞼がすっきり閉じて俯きそんなことは知っているとでも言いたげな口調ですみませんと謝った。駆け寄った時は身なりから五十代かと思ったが、白い首筋にはまだ三十そこらの娘の面影があった。髪から香の香りがした」
「片岡は昔から、身を投げ出すような如何わしい優しさがあって、回りが大いに誤解した。勘違いでその気になった女も知っている。歳をとっても不用心なところは変わらない」洲本が揶揄を纏わせ背もたれに身体を預けてグラスの中身を飲み干すと、
「俺は、そういう片岡をずっと妬ましく思っていたよ」と山本が小さく笑った。
「お前の腰を落として崩れた女に声をかける姿は、無様なままようやく様になってきたというわけだ」

 古都を歩こうと秋の手前に洲本に誘われ、どうやら洲本の別れ話が一段落し、顛末全てを一切合切話してしまいたいという気持が、誘いのメールには漂っており、山本が丁度月の半ばに京都で会議の仕事があり、申し出された日程を洲本に修正させて、片岡も合流できるよう件の喫茶店で落合って調整を工夫した。合流先のホテルで考えてみると、学生の頃連れ立って来たことがある街ではない。この街は、互いに縁がないと確認していたが、洲本が、否、あの女はたしか京都出身だったと、ひとりの女学生だった女性の名前を挙げると、山本と片岡は、同じような音量で「ああ」「いたな」と答えていた。各々の文脈の中で、遠い街が暫し発酵する。「ただ彼女は標準語だった」「ああ、身持ちの固い標準語だった」

「あの頃は、会えば女の話ばかりしていたし、事実、欲望に縛られていたな。最近は、歳のせいだろうけれども、妙な縛りに苦しめられる。幾度もみる夢だ。喧嘩をしてる男が二人いる。お前らではないよ。俺はそれを眺める立場で、痛くも痒くもないのだが、かなり激しい殴り合いだ。なぜか決着をつけさせる為に、懐にあるナイフを殴り合っている二人の間に投げ込みたくなる」
鱧を喰わせる店で、山本は、ふたりを眺めつつ話し始めた。
「で、どうする」
片岡が促した。酒も入り始めていた。
「夢は必ず争いを眺めたまま終わるのだ。男たちは、足下に転がったナイフを見て、争いを馬鹿馬鹿しいと悟って互いに喧嘩を放棄するか、あるいは、どちらかがナイフを先に手にして、相手に斬りつけるか。あるいはと、夢から醒めてから考え始めた。妄想が果てしない選択肢を運んでくる。俺が選んだのは、相手を斬りつけた男が、倒れた男を見て、自分の腹にナイフを突き立てるというものだった。だが、その選択の理由がわからない。根拠はないが、俺には彼らの行方のリアリティーがそれしかないように思えてくる。幾度もなぜだと考える」
「この国の人間が喜びそうな選択だよ」
洲本は、ウヰスキーのボトルを手にして、加えた氷の上に新しく注ぎ入れながら、だからどうしたと眉毛をあげた。
「喧嘩の質にもよるよな」
手酌の銚子を山本の手元に持ってきて、片岡は続けた。
「どうしようもない喧嘩というのがある。鬱積がたまり、爆発した奴さ。でも、喧嘩はどちらかというと、片方のテンションで行われるな。二人が同じ怒りに包まれているというのは、あまりないのではないか。年齢にもよる」
「喧嘩に慣れていないよな。この国は」
「洲本、群れのことなどどうでもいい」
「俺がナイフを投げ入れようか」
「俺が拾って、どこか別の空間へ放り投げるさ」洲本は、無関心を指摘されたことに腹立てたような性急さで語尾を荒げた、
「否、お前はきっと俺を刺すよ」片岡は、洲本の膨れた腹をパンと叩いた。
「ナイフを放り投げるというのは、終焉の行方を示すということか」山本は、あっと気づいたように小さく頷いて、懐から狩猟ナイフを取り出し鱧椀の前に置いた。

町田哲也 Tetsuya Machida 1958年長野市生まれ
藝術と思想
ブランチング企画責任 クマサ計画主催
iam@machidatetsuya.com
枝間ノ闇
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