花火

文 / 備仲臣道

 近くの川原で花火大会があるというので、妻を誘って見にいった。はじまってから時間がたっていたから、土手にしつらえた座席はいっぱいだろうと思い、はじめからあきらめて、少し離れた所に立って見ることにした。
 大きなのが上がる一区切りの終わりに、辺りの景色を揺るがすような音がして、つぎのが上がるまでの間そこいらに闇が降り、ひとしきり人のざわめきが聞こえる。暗くなったりまた明るくなったりの、そのたびに景色が浮いたり沈んだりを繰り返した。
 しばらく見ているうちに、いったん暗くなったあと、つぎの花火がひゅるひゅると尾を引いて上がりはじめると、隣に立っているのが妻ではなくて、知らない女になっていた。いまにも堰を切って涙があふれそうな目をしてこっちを見ている。口をきっと結んだ表情に恨みがましいものが満ちているように思われたが、誰だろうかと考えても、思い出すことができない。なにか言いたそうにしていながら、少しも口を開かないけれど、私を詰りたいのだということだけは、はっきりと伝わってきた。そのうちに、どーんと大きな音がして暗くなったところで、この女が何者なのかを思い出しかけたけれど、つぎの花火が上がりはじめたのと同時に忘れてしまった。
 それからまた明るくなったとき、光の中に現れたのは、妻でないのは同じだけれど、さっきのとも違った女であった。大きな瞳に涙と憤りとをみなぎらせて、震えるようにして私をにらみすえていると思ったら、すすり泣きながら、思いきり両手を突き出して私を押した。横から腹を突かれて私はバランスを失い、二、三歩よろけてやっと踏みとどまった。女は顔中を涙でぐしゃぐしゃにして、泣きながらなにか言っているのだが、いっこうに聞き取れないから、やっぱり誰なのかを思い出すことができない。そうこうするうちに暗くなって女は消えた。
 もう一度明るくなるころには、こちらで待ち受けるような気持ちでいたけれど、知らない女ということは前の二人と同じであった。今度は長い髪の若い女で、ふっとそう思って、私もいまの私ではなくて、昔の姿にもどっていると知った。
「あんなに固い約束をしたのに、急になにも言ってこなくなって、なによ」
 その子はきつい調子で言った。それで思い出したのだが、つまらないことで彼女のことが嫌になったのであった。ベンチに並んでストローでジュースを飲んでいたとき、彼女はスカートの上から太ももの外側辺りを、かりかりと四、五回かじったのである。たったそれだけのことだったのに、センスの悪い下品な子だという気がして、それまではいいと思っていたことまで醜く見えるようになってしまい、特別深い交わりもなかったのを幸い、その日限り放っておいて、時のたつのにまかせて疎遠になったのであった。
そうしてみると、思い当たるものがつぎつぎと浮かんできて、前の二人とは結婚の約束もして、どんなことがあっても別れないとまで思い込んだこともあったのだが、すべてを知り馴染みができてしまうと、これはお互いのことなのだと、いまは思えるのだが、嫌なところも見なければならなくなり、いつしかそれが耐えられないほどになっていたのであった。むしろ、ありようは、私のわがままばかりを通したのであったかもしれないと、いまなら判る。こうして、三人のことを思い出しかけたけれど、心のどこかに、それ以上は思い出さないほうがいいという気がしていた。
 そのとき、ひときわ大きな音が、土手も並木も底から震わせるように鳴って、それが今夜の最後の花火らしかった。
 さあ帰りましょ──薄暗い光の中で、口の端に意地の悪い笑いを浮かべながら、妻が言った。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
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