文 / 服部洋介
マサ首といふ人がいる。先頃、FLATFILE(長野市)にて『異形の声』と題する個展を開催、そのあやしげな世界観で異彩を放つステンドグラス作家であり、画家というお人だ。しかし、何よりもこの人の名前、なんでマサがカタカナで首が漢字、いや、それよりもなんで首なの? 意味不明の名辞の羅列が視覚的な奇怪さ以上に薄気味悪く感じられるのは、なるほど、人間的な感覚であろう。
それに先立って、私は小林冴子コンプリート計画というのを立て、同時期に県内3カ所で開かれていた関連展示をハシゴし、FLATFILESLASH(長野市)の『ドローイング3人展』を皮切りに、Riverside Gallery(小諸市)では念願の生冴子(敬称略)にもご対面、最近は新境地にお目覚めになったということで、作品がいきなりアンフォルメルになっていてびっくらこいた。なわけで、私はいささか保守的にも、先の六本木の個展に出品された『景色の消滅』と題する具象のシリーズから一枚を購入する約束をした。同シリーズには、家庭サイズの小品も多く、これからアートを買いたいという若い人にもおすすめだ。
さて、臼田に新しいアトリエを構え、水墨画にも挑戦するなど、やる気な感じのこの作家、だが、一部にはちょっと心配な作品も。そこには冴子氏のアブない日常がつぶさに述べられている。いわく「体からはオッサンのにおい」「猫に近寄ったら逃げられた」「合コンに行ったら初対面の男と下ネタで盛り上がった」……大丈夫なのか、冴子よ!? それにたまに見かけるこのアナーキーな感じのねこさんはなんだ!? 私にはコイツが冴子氏の××の権化に思えて仕方がなかったが、なんとなく確信に変わったぞ。いずれにしても、作家には、この先も何気ない日常にひそむヤバイ感じを露出し続けてほしいと願うばかりである。
さて、小諸の展示から数日後、作品を数枚ご持参いただき、その中から実際に一枚を購入したわけですが、その時、不意にマサ首展の話になり、明日が最終日ということで慌てて会場に直行した。ちなみに冴子氏的にも一番の関心は「なんでマサ首なんですかね? それ、聞きたいですね」と、そこだった。まあ、そこだよな……。
さて、会場でお会いしたマサ首さんは予想に反し、至極ちゃんとした方で、来場者もマサ首氏の懇切熱心な作品解説に聞き入っていた。展示空間も洗練されており、何が何だかわからんということは一切なかった。それは、一般に「異形」のものとされる形象を精巧に標識化した〈計算された奇怪さ〉というべきもので、もしハリウッド映画で「『異形の館』のセットを作ってくれ」と言われれば、まさにこの展示空間と同じものが求められるに違いない。アートの一部は、何かしらこうした前了解的な既視の要素から成り立っている。一方で、なんだかよくわからないモノが結果として醸し出す〈意味のズレ〉というべき奇怪さというものが ある。マサ首という名前がそれだ。ちなみに、じっさい冴子がマサ首さんに「あんたはなんでマサ首なの?」と聞いたか否かは定かではない。
その後、東京で「耳のないマウス」の3331 α Art Hack Day 2015の受賞展『箱の中に入っているのはどちらか?』の作品解説を仰せつかり、5月19日に3331 Arts Chiyoda(東京)へ行ってきた。ゴリゴリにコンセプチュアルな気合の入った個展だ。そんな「箱の中」展ですが、そのコンセプトは、記号過程を逆行したところに何が見えるのかというイマジナルなものだ。記号というのはそれが何を意味しているかが伝わらなくては役に立たない。役に立たない記号は使われることがない。したがって意味不明な記号は、現実に適応できず、絶滅すると考えられてきた。これは生命記号論の分野でもいわれていることで、たとえばヴァージニア工科大学のA. Sharovは『Signs and values』と題する文章の中で、自著を引いて「ノーマルなコミュニケーションの過程は、記号が発信者と受信者にとってプラスの価値をもつことを要請する」(Normal communication requires that signs have positive values both for a producer and receiver.)(Sharov 1992)(*1)と言っている。デメリットばかりの記号のやり取りをしていては、生命活動は危機にさらされてしまうからだ。そこで、決定不能的な、記号として無能力な記号、意味のない記号表現という事態、いわば〈マイナスの価値〉がはびこる世界をのぞいてみようというのが、今展の趣旨だ。恐ろしいことに記号というものは、その発明者や使用者の思惑とは無関係なところで〈意味を欠いた形〉として生き続ける奇妙な性質をもっている(*2)。古代遺跡に刻まれたわけのわからない文字や図像のように、たとえそれを使用した文明が滅び去ろうが、記号だけは生き残るのだ。このようなシニフィアン優位の世界をそのままに展示しちゃったのが「箱の中」展である。ちょっとお化け屋敷めいていて、夜間に訪れた来場者が悲鳴を上げていた(笑)
で、これがオチなのだが、同展のレセプションで、私はどこかで見たことのあるような人を見つけてしまった。まさかまさかのマサ首さんでした(笑) しかし、私にとってマサ首さんはいつまでも謎の人であってほしいという願いから、私は気づかないふりをしてウーロン茶を飲んでました。よって、彼がいかにしてマサ首になりし乎は、いまだに謎のままであり、画像掲載の許諾も得てないので写真もナシという次第である。なお、小耳にはさんだ話では、このマサ首さん、サイコビリーなバンド姉首さんの一族らしい(*3)。いや、確かにこっちはイッちゃってるぞ!
(*1)Alexei Sharov, Signs and values, web, 1998
(*2)服部『〈存在〉の恐怖――〈人間〉を棄却する快楽』(2016 年)
(*3)正しくは『Ane-kubi Manelai』
服部 洋介 Yosuke Hattori
1976年、愛知県生まれ。
長野市民。
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14
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