いし

文 / 丸山玄太

 あるものでした。私、私ではないもの、私でも私ではないものでもそのどちらでもないもの。須臾に浮かぶもの、あったもの、ないもの、なかったもの。そういうなにかでした。
 あの人が霧の中から現れ、その腕を伸ばし、震える指先が触れたことも知れぬ程の柔らかさで触れたあのとき、私は初めてこの世界に生まれたのだと思います。
 夜明けとともに彼はやって来て、座ったかと思えばそのまま俯き黙して石のようになり、ときどきふと顔を上げ周囲に視線を泳がせその中に私を捉えてはまた石のようになる。ポツリと言葉を零すこともありましたが、それは大気すら響かせることなく、止め処なく流れる刻に掠われていきました。木々の間に陽が落ちる頃になると振り返ることも無く去っていき、暫くすると夜明けとともにやって来る。
 そうやって月日を送るうちに、私は彼の背中に過去を憶え未来を追うようになっていました。それは歓びだったのでしょうか。それとも哀しみだったのでしょうか。ただ、そうやって存在していたのです。
 ですが、それももうお終いです。最期に彼は私をその腕に抱き絶えました。その肉は獣たちが分け合い、残ったものを鳥たちが啄み、風雨に晒された骨は塵となりました。私が纏った赤い衣も次第に錆色へと変わり、それも今では所々に残るだけです。
 私は消えてしまうのでしょう。否、既に消えているのかもしれません。存在の余韻に映る幽き幻象。それも森閑と枝葉を渡る風が払い除けることでしょう。あの白さを残す破片とともに。

丸山玄太 1982年長野市生まれ 麻績在住 クリエイター
undergarden主催