「どうして私たちは勉強するの?」

文 / アライカナコ

「どうして私たちは勉強するの?」
今からここに広がるのは、私がこう聞かれたならばこう答えるのではないだろうか、という持論を展開する文章だ。冗長で面倒な文章かもしれないが、誰かの目や心のひっかかりに留まることがあれば幸いに思う。

この問いに答えを返すにあたり、まず「学ぶ」とはどういうことか。いわゆる、国語算数体育美術…理科社会英語家庭…?まあそんなところだと思う。その中でも算数という教科を取り出してみれば、日常で使う(だろう)簡単な四則や平均や値の取り方や諸々の単位…の他に出てくる日常には役立たなそうな計算法則やグラフ、パッと見読めない異国文字、証明…こんなの将来使わない、と捨てたくなるような学びが浮かんでくる。
だが、例えばそういう「意味の分からない文字の羅列」という見方をする私とは別の見方が出来るであろう「数学分野が誰よりも得意」な人にとっては、その数式どころか世界のありとあらゆるものがもっと別の見え方をしているのではないだろうか。

ここからはとても極端な例をとって話を続ける。
目の前に海が広がっているとする。砂浜には波が打ち寄せる、よくある海辺の景色だ。その浜に打ち寄せる波の様子を表し、違う場所の誰かに伝えることが必要になったとしよう。ただし、あなたが一番伝えやすいと思った方法を自由にとってよいものとする。
あなたはどのような手段をとるだろうか。
そうした時に、先の「数学分野が誰よりも得意な人」は、もしかしたら言葉(国語)よりも、図案(美術)よりも、数式(数学)で表すことが自分の中で一番納得がいく、かつ正しい波の様子の伝え方なのかもしれない。
そしてその人がもしこの波打ち際の波の形を誰かに伝えたくなった時には、自分の得意な数学的方法で他人に伝えようとするだろう。だけど、そこで自分の得意な伝え方、についてもし持ち帰った先の誰にもその方法では伝わらなかったらどうだろうか。数式を尽くしても、相手にはその数式からは同じものは伝わらなかったとしたら。
他の手段も同じだ。
自分はあの場所で見た波を絵に描いた(例えばそれはその波がきらきらと光る美しさのみを取り出した絵だった)のに、伝わらないとしたら。
自分はあの場所で見た波を言葉にした(例えばそれは周りの人には聞き取ることすら困難な異国の言葉の表現だった)のに伝わらなかったとしたら。
得意な表し方や受け取り方は人によって様々だ。それは個性である。だが個性だけがそれぞれ存在していては「同じものを共有する」ときには素晴らしい個性こそが大きな壁になってしまう。その壁を乗り越えようとしたり薄くしようとしたり切り崩してみよう、というところが、まず学びのスタートラインだと思うのだ。そして学びの土台は感じ方や捉え方の個々の差を認めるところ個性ありきという考えだ。
数学を学ぶことで、あの数式の伝えたい内容は何かの動きだったのか。と気付くこともある。美術を学ぶことで、この図案はこんな思いがあるのかもしれない、と察することも出来る。ひとつの事象に対して、多くの見方、考え方が出来ることを知る。そして知ったことを共有する時には、人に個性がある故に全く同じ伝え方が出来ないからこそ、伝え方を学ぶ。文字で伝えるのか。音に乗せて伝えるのか。ジェスチャーで?図案で?伝えたい内容が「何」であるか、「誰」であるか…様々な要因で最適な伝え方は変わる。
伝え方の最適解を探す例としては「色」の話がある。同じ色を伝える時には同じ色を見せれば良いが、それ以外で伝えるには、国語の情報を尽くすよりも、色を示す数値で伝える方が確実だ、というものだ。
学びは、国語数学社会理科…と学ぶだけではあまり意味が無いかもしれない、しかし、敢えてそれぞれをパッケージングすることで、自分の得意不得意を見つけやすくしてくれている、と捉えることも出来る、と私は思う。自分は国語と数学が得意だ、となれば、誰にもわからなかった数式が伝えたかった事象を、他の国語が得意な人に国語を駆使して伝えることが出来るだろう。その伝えた先の人々の中に国語と美術が得意な人が居れば、美術を駆使してその数式を伝えることも出来る。そうやって、個性を活かし人々は理解しあうことが出来る。
…これは横道に一瞬逸れるが、こうやって、伝える→伝わる、が円滑に一度に多く素早く出来る人は、伝える技術や知識量も多い。つまり頭が良い=勉強ができる、と一般的に評価されるのだろうと思う。

さて本論に戻る。ここまでで、学びは「伝える伝わる、すなわち共有するために広く有効な方法を獲得していく」行為であることは説明出来ていたかと思うのだが。ここで突然登場した「共有」はそんなに必要だろうか。実は必要だ。人は「共有」によって生きていけるのだ。
「共有」は危ないこと、愚かしいこと、はもちろん、嬉しいこと、感動したこと、なども共有すべき点として必要である。必要どころか不可欠なのかもしれない。
危ないことや愚かしいことを共有して、危険を避けたり繰り返さないように自分や大事なものを守る。嬉しいことや感動を共有して人同士の繫がりを維持したり強くしたりする。共有は身体と心を守るものなのだ。

ここまで長々と展開してきたことをここで強引にまとめると、「人が身体と心を守るためには情報共有が不可欠である。しかし人によりその共有方法には差がある。だからその伝え方の差を縮め、かつ、伝え方の種類を増やすために学びが必要だ」 という返事が私の「何故勉強するのか」の答えだ。
だがもちろんこの一言の答えを伝えるだけでは「伝わらない」のだろうとも思う。この一言を導くためにここまで読み進めていただいたあなたにもご高察いただけるように、この一言だけではどうしても意思が伝わりにくいのだ。かといってここまでの過程全てを答えとして話すにはTPOが合わなければ相手も飽きてしまい、結局「伝え損ねて」しまうだろう。

私の論は以上である。
何かの折に、他の人の「何故勉強をするの?」という問いに対する答えなども聞くことが出来たら、とも思うが。そんな弁論大会の前に、一緒に海を眺めたり一緒に食事をしたり、そういうことも他人の考えを知り、自分の学びを広げる良い機会なのだろう、とも確信的に私は思うのだ。

アライカナコ Kanako Arai
1987生まれ
長野市在住 社会人
聴いて見て。考え、試して。創り出す。