せみ

文 / 山本正人

小雨が降る真夜中の2時。
仕事の合間、緊張の糸が切れて、
仕方なくタバコに火を付けながら
真っ暗な網戸の外が恰も鮮明に見えるかのように
そこに向かって煙を吐き出す。

近所の窓の明かりはとうに消え、
聞こえてくるのは、
異性を求めるコウロギの音色と
雨樋からトタン屋根に滴る雨水の無機質なリズムだけだった。

とそこに突然
どうやら蝉のばたつく羽音が現れた。

その羽音は何とも悲しげで、
生きている証を周りに知らしめるため
最後の力を振り絞っているかのように、
はたまた、生きようとする本能が
動く限り必至に手足を操っているように。

とうとう木にしがみついているだけの力が無くなり
なす術も無く地面に落ちたのか。

それとも、不意に飛び立ったせいで
蜘蛛の巣にでも捕まってしまったか。

暗闇の中で、その状況は全く見て取れないが、
とにかく、その命が尽きようとしているのはハッキリと分かった。

周りでは、
コウロギがさも涼しげに音色を奏でている。

タバコの火が消える頃には、
蝉のばたつきは次第に夜の闇に飲み込まれ
消えていった。

ふと、遠い昔の記憶が甦る。

「虫だって人間と同じ命なんだよ」
そう教わったはずなのに、
部屋を飛び交う蛾を無造作に潰す。

人間が生きるために、
動物や植物の命を貰う食物連鎖のヒエラルキーは理解できた。

だけど蛾は邪魔なだけでしょ。

子供の頃に大人に教わった違和感だった。

そういえば、兄が生前、
旅の途中で立ち寄った禅寺では、
毎朝、境内を掃くホウキは毛先の柔らかいものが使われており
落ち葉を掃く際に蟻や小さな虫を殺してしまわないように
それが選ばれるのだと話していた。

これが何とも腑に落ちて
すんなり受け入れたのを覚えている。

考えてみれば、
私の兄も“命”についての違和感を
自分なりに模索したのだと思う。

私が車の免許を取って間もない頃、
兄と2人で車を走らせていると
前方の車達が何かを避けていく。

目前になって、それが轢かれた猫の亡骸だと分かる。

咄嗟に、
「可哀想に。埋めてあげよう」と兄が言った。

路肩に車を停めると、
躊躇する私を余所に
さもそれが当然のごとく兄は素手で猫を抱き上げ、
車へと乗り込んだ。

夏の30度を超える気温のせいか、
腐敗臭が車に充満する。

兄は猫に「ごめんな」と呟いた。

なぜだろうか、
道を行き交う他の運転手が向ける奇異の眼差しを感じながら
今までおかしいと露程も思わなかった観念から解放されたように、
清々しささえ覚えたのだった。

・・・

気付けば、窓の外は雨が止んでいた。

蝉の羽音がまた聞こえるかもしれないと耳を澄ましてみたが、
残りわずかに滴る雨水の
「タンッ」とトタンに跳ね返る音が、
やけに鮮明に飛び込んでくるのだった。

網戸からヒンヤリとした空気が部屋に流れ込んできて、
昼間のうんざりするような暑さを忘れてしまう心地良さだ。

相変わらずコウロギの求愛は鳴り響き、
目を瞑れば、夜空の星のようにそこかしこに無数の命が感じられた。

「諸行無常・・・てか。」

もう、再び仕事に向かう気力も失せて
次のタバコに火をつけようとしたが、
ふと、手が止まる。

妻と子たちの寝顔がどうしようもなく恋しくなった私は、
小さな溜め息をひとつ吐き、タバコとライターを置いた。

山本正人 Masato Yamamoto 1976~
群馬大学教育学部卒 長野市在住