お百度

文 / 備仲臣道

 いつものように少しの酒を飲んで横になったが、いっこうに寝つけない。熱気によどんだ部屋の布団の上で、あちこちへ寝返りを打つうちに時間が過ぎて、もう辺りの気配は真夜中のようである。
 目をつぶっても闇の中に浮かんでくるのは、今日の午後、病室で見た息子の姿ばかりであった。このところ快方に向っているかのように見えた息子の容態だったが、昨日から熱が高くなり出し、首の動脈と脇の下や股の間に氷の袋をはさんで、さながら氷漬けのようにしているのに、いっこうに熱の下がる気配が見えなかった。点滴や栄養を注入するものや、脊椎の脇に指してある痛み止めのパイプ、さらには尿を排出するための管などがベッドの上下左右を走って、息子はそれらでがんじがらめにされているかのように見えた。

 三カ月前に入院したとき、すでに末期であると宣言されていたがんは、腎臓、肝臓、肺からリンパ管に至るまで、ほしいままに転移していた。病名を知らされていない本人はげっそりやせて青白い顔こそしていたが、まだ食欲もあり、なによりも病気と闘って治そうという気力が充分にあった。
 原発の病巣を切り取ったあと、薬物を注入して転移した部分を小さくしていき、注入するものの量が致死量に達しないぎりぎりのところで、残った病巣を切り取るという方針が採られた。
 まず鎖骨下の静脈から入れた栄養によって顔に血の色を取りもどした息子は、その分だけでも元気に見えた。だが、最初の薬物注入で頭髪がいっぺんに抜け落ちたため、彼は自分の病の尋常一様でないことを悟ったらしい。薬物注入時は非常な違和感があって、体のどこかにさわられるのも苦痛であったようだが、それでも歯を食いしばり、目じりに涙をにじませても弱音を吐くことはなかった。副作用のひどさは言語に絶するもので、嗅覚が過敏になるため食物は悪臭を伴うものに変わり、口を入るのは果汁や紅茶だけになってしまった。
 それでもやがて肝臓の病巣が消え、肺のものも小さくなっていったころには、周りの者ばかりか本人も、退院する日の遠くないことを信じた様子であった。見舞いにきた友人とも何時間にもわたって話をし、彼が帰る際には諸々のパイプを外し、車椅子に乗って玄関まで送っていったほどである。
 それが、病魔は反撃の機会を狙って油断なかったらしく、二、三日前から腎臓の数値が異常を示しはじめた。その機能が不全になり、もう一ヵ所どこかの臓器に打撃があるということにでもなれば、生死の境界線を大きく向こう側へ越えかねないとあって、医師も看護婦もみな必死であった。
 病室に見舞いにいっても、声をかけてやることのほかにできることはなく、親とは言いながら、その非力が恨めしいばかりにこの身を削って、とてものことにいたたまれない。つきそいの妻に目配せして病室を出たのは、午後もかなり遅くなってからであった。

 夏がけをはねのけた布団の上に座って、薄暗い電灯の下で腕組みしている自分に気づき、あれからこの時間までなにをしていたろうと考えても、まるで記憶にないような時を過ごしていた。不甲斐ないまでの自分が口の中に苦かった。
 時計を見ると午前一時を少し回っている。すっと立ち上がりはしたけれども、なにをしようと思ってのことだったのか。そのとき、そうだ宮参りだ、氏神様にいって祈ってこよう、それ以外にたったいまできることはないのだと思った。
 顔を洗って身支度を整え、寝息を立てている娘たちに気づかれぬようにそっと家を出た。寝る前に飲んだ酒が、頭のどこかにしこっているようであった。
 氏神の八幡宮まではそれほど遠い道のりではない。月も人影もない住宅街の原稿用紙のます目のような道を、自分の足音を聞きながら歩いた。時々、犬が吠えると、ずっと遠くのほうまで何匹かがそれに和しているようなのが気味悪く思えた。
 古墳のある公園を過ぎて左へ曲がり、右へ斜めの道をいくと、前方に黒々とした森が見えるのが八幡宮である。社地の脇の道を玉垣に沿っていく辺りから、右左も判らぬような闇の中に踏み込んだ。確かこの辺と思う所を左に曲がると、闇の中に随身門の屋根とおぼしき分厚いカーブが見えはじめたころから、少しは目がなれてきたようであった。
 門をくぐって拝殿へ続く石畳の道が、両側にたくさんの石燈篭を従えて伸びているはずである。じいっと瞳をこらしていると、闇にも濃淡が現われてきて、思わずぎくっとしたのは、門の闇の中に一人の男が立っていることであった。そう気づいてみるとやがて男の息の音がかすかに感じられてくる。そうして、石畳の上からは、かすかな、あるかなしかの忍んだ足音がひたひたと伝わってきた。
 言い知れぬ恐さに身がすくんだが、こんな時間にここまできたのだから、拝殿までいって祈って帰ろうと思った。一歩踏み出したとき、さきほどの男が、あっと叫んだようであったが、気配だけのような気もした。すると、後頭部の短い髪の毛が一本残らず逆撫でされたように立ち、そこから異様な冷たいものが背中へと降りていくと思えた。
 石畳の上を拝殿へ進んで数歩いった辺りで、こちらへ歩いてくる人影が見えた。中年の女である。どうやらはだしらしいその女は髪を振り乱し、胸の前に合わせた手は一本一本の指を組み合わせて、両方の人差し指だけをまっすぐに伸ばしていた。すれ違ったあとも正面を向いたままで、わき目もふらずに門の闇の方へ向かっていった。
 拝殿の前にたどり着いたころには目がはっきりとしてきて、賽銭箱の格子の一本一本が見分けられるほどになった。ポケットから出した千円札を一枚、その間に滑り込ませた。そうして、気づいたのは、深夜の宮参りの作法を知らないということであった。人目を忍ぶとは言え、音のしないように柏手を打つのは不吉に思える。それは葬儀のときのやり方だからである。しかたなく、ただ手を合わせて全快を祈るだけにした。
 そうして頭を垂れているところへ、背後からひたひたと迫ってきた足音が、賽銭箱の前まできて並んだ。さきほどの女がもどってきたのであるが、彼女は指を組んだ両手を胸の前でしきりに上下させては、口の中でもそもそとなにかを唱えていた。上半身全体がかすかに震動している。やがて両手の間にはさんだものを賽銭箱の上に置いた。伸ばした人差し指と思ったものは何本もの竹の串であることが、すっかりなれた目に確かに見えた。見ると賽銭箱の上にはすでに何十本はあろうかという串が並べてあった。
 再び胸の前で両手を上下させて口をうごめかせていた女は、やがて拝殿へ背を向けて、ひたひたという音とともに門の闇のほうへ消えていった。はじめて見たのであるが、これがお百度参りなのであろうと思った。そのときまた、後頭部と背筋を冷たいものが突き抜けて、立っているのがやっとの思いであった。体の芯からなにかが抜けていくような気がした。
 それからどうやって家まで帰ってきたのかを、まるで憶えてはいない。気づくと雨戸の隙間が白々としていた。一つだけ記憶しているのは、八幡宮を出ようとしたとき、闇の中にいた男に焼けつくような目でにらみつけられたことである。その瞳は火を放ったように金色をしていた気もするけれども、まさかそんなことはなかったのだろう。

 それから三日たった明け方、息子は病室のベッドの上で、力尽きたボクサーのように四肢を投げ出して動かなくなってしまった。敗血症を起こして呼吸ができないまでに、病魔は彼を苦しめたあげく、現代医学の手の届かない向こうへ連れていってしまったのである。苦痛がくっきり刻まれた彼の顔は、見知らぬ若者に見えた。
 葬儀を終え、気の滅入るようなあれこれをこなして、ぐったりとした身を呆けたように夏の気の中に過ごした。それが何日間であったか、考えるのも億劫であった。
 そんなある日、よんどころない用事があり一人で出たあと、帰り道の都合で八幡宮の前にさしかかった。境内の石畳の上を、一組の夫婦が息子さんと思われる若者を中にはさんで、拝殿へ進んでいるところであった。その夫婦が、あのお百度参りの人たちだとは、なぜか知らないがすぐに判った。察するにあの夜のことは、いま抱きかかえるようにしている、この若者の病気回復を願ってのことだったのかと、一人で合点した。そうすると、あの息子さんは、お母さんの無心の祈りの力で助かったのに違いなかった。
「よかった」
 そう思うと、自分の祈りの至らなさが身を苛んで、その場に立ちすくんでしまいそうに体中の力が抜けた。
 そのとき、若者がこちらを振り返った。わが息子の顔であった。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
kazenonagune@yahoo.co.jp