文 / 松下幸
3月に陽光の公園で別れた後、夕方に骨転移の痛みだけでなく高熱にも苛まれるようになった友人と再会したのは、6月も終わりに差し掛かった頃だった。娘が夏休みに入ったので2週間ほどの長丁場で福岡に滞在したのだが、見舞いに行ったら3月とはうって変わってすっかりやられた顔をしていた。憔悴して、口から出るのは愚痴ばかり。随分と痩せてしまっていた。まだまだ治療を続けたいのに治療終了だからと病室を空けさせたい病院との攻防に疲れ果て、その疲労がさらに痛みを増幅させるようで、とにかく精神状態が荒れているようだった。結局病院から突然強引に退院させられる形で、海が見える高台にあるホスピスに移った。
しかし彼らが頑なに拒絶していたホスピスは、蓋を開けてみれば、たまたま空いていた個室に入る事ができ、温かいスタッフと親身になってくれる主治医に囲まれて、自分が受けたい治療を継続することもできる、今の彼らにはベストの場所だった。友人の精神状態は大きく改善された。痛みまで軽くなったようだった。
7月2日。彼は「42歳の神童」になった。奥さんが肝入りで企画した、一流寿司屋を貸し切ってのパーティーが開かれた。彼も3時間だけだが外出して久々にうまい寿司に舌鼓を打ち、親しい親族と友人に囲まれて、とても嬉しそうだった。痩せた体にみなぎった生気は、まだまだやれると皆が確信するほどだった。結局6月から7月にかけての日本滞在で、計6回彼を見舞った。
そして次が11月1日、11回目の見舞いである。入院から1年が過ぎたあたりだった。なんだかこれはおかしいと思うような、不安を感じる連絡を奥さんから受け取り、暮れに帰るまで見舞いを待つつもりだったのを早めに繰り上げての訪問だった。
私達の同級生に、パチンコ店の経営者がいる。もちろん通常の人では考えられないくらい、一流俳優並みの収入を永続的に確保している大金持ちで、その同級生が彼に無利子で底なしのお金を貸したため、彼は自分が一番受けたかった「一回400万かかる免疫治療」を何度も受けることができていたが、とにかく骨転移の広がりが早い。その分痛みも強くなって、緩和治療のひとつである放射線照射を受けるためだけに自分を追い出した病院へ帰らなくてはならいほどで、その上左顔面の麻痺が出たという話で、見舞いの時期を早めたのは、これはついに骨以外の場所への転移が始まったのかもと、そういう陰鬱な推測をしたからだった。
彼はなぜだかそれまで、骨ではない部分は全くの無傷だった。原発巣である唾液腺のガンがわずかに残っている以外はひたすら骨ばかり。問題は下半身麻痺のため寝たきり状態であることと、骨転移の激しい痛みからくる衰弱であって、骨転移そのものは命を脅かすものではないから、骨に増え続ける転移さえ抑えられればまだ何か可能性があるような希望を持っていた。だが顔面麻痺ということは、ついに神経か脳かに転移したということなのだろう。友人は麻痺がひどくて、食べるときに口の端からこぼれるほどだという話だった。想像するに、放射線治療をもう一度受けにいくほどの痛みがあるということは7月よりもさらに痩せているのだろう。
果たして、私はそんな彼と対面して、動揺せずにいられるだろうか?
これまでは、どんな変化が起こっていようと、彼を見て動揺したり言葉に詰まったりということは回避できてきた。先に話を聞いておいて、そこで一旦覚悟を決めてしまえば簡単に乗り越えられる程度の変化だった。しかし顔面麻痺が起こったということは、友人夫婦もついに「命の終わり」という断絶から逃げられなくなっているかもしれない。今までみたいに「まだ頑張れる」とか「内臓はピンピンだね」とか、そういう小手先の言葉じゃもうダメかもしれない。つまり、私の内に常にある「やましさ」がついに露呈するかもしれない。
何を話せばいいのか、どんな顔をしてればいいのか、それ以前に、顔に動揺を出さずにいられるのかどうか、全くわからないし自信もなかった。なのに会いに行こうとしている。何のために?私が行くことで、友人夫婦をひどく嫌な気持ちにさせるかもしれない。何のために私は行くのだろうか。チケットを取ってからそのことを自問し続け、どうすれば彼らを傷つけずに面会という大きな壁を乗り越えられるか、そのことばかり考えながら福岡への旅路についた。
正直、恐ろしかった。野次馬根性だけではもう乗り越えられない域に来ていた。恐ろしかった。彼が死に向かう影を本当に見てしまうことが。彼を飲み込むグロテスクな何かを感じ取ってしまうことが。恐ろしすぎて、げんなりした。
しかし実際に会ってみると、拍子抜けするくらい彼は「普通」だった。最後に会った7月よりも覇気が感じられるくらいで、確かに痩せていたけど覚悟を決めていれば動揺するほどでもなく、顔面麻痺も大きく容貌を崩すほどではなかった。私はいつもどおり、シンガポールから持ってきたバカなTシャツと迷惑なぐらい大きなマーライオンを渡し、バカな世間話をして、正直今までで一番というぐらいの密度の濃い時間を過ごした。とても安心したし、楽しかったし、壁を軽々と超えられたことが嬉しかった。野次馬である自分のやましさも忘れ、充実感だけが残り、その夜奥さんに夕飯に誘われた時はなおさら、7月以来久々に2人でグラスを交わせることが純粋に嬉しかった。
が、その後驚くべき事件が起こった。奥さんから、8月に起こったという友人の元カノを巡るある「事件」の話を聞かされたのだ。彼女はそのことで激しく傷ついて、離婚を考えるほど怒っており、一度はそのことを腹に収めたのに、3ヶ月経って私に会って話したことがきっかけで怒りが再燃し、前よりひどく爆発してそのまま実家へ帰ってしまった。
奥さんの怒りようというのは凄まじく、今までのどこか控えめだった態度が一変して、滑稽にも見える妄言を吐くレベルにまで達していた。そして、この事件の原因となったのが「友人の嘘」で、奥さんの怒りに動揺して下手な嘘をついたことが完全に墓穴となってしまったのだった。ほんとにしょうもない、バカなミスだ。こんなアホすぎる事件を末期も末期と思える時期に勃発させる友人の間抜けさがおかしくて、私は見舞いを続けて以降初めて、昔の彼の面影を見たのだった。私の知っているころの、どうしようもなくバカだけど憎めない男。今の彼は私の友達だった。この事件のことを考えると、おおごとになったという心配と同時におかしくて、笑いが止まらなくなったり心が温かくなったりしたのだった。
結局奥さんは、8日後の夜に友人の元へ帰った。結婚後初めてのビッグファイトを経験し、仲直りした2人は、今までにない強い絆を感じて、とても幸せな一夜を過ごしたそうだ。
という話を私は、友人の病室で聞かされた。シンガポールへ帰国した、たった10日後のことだった。前夜、私は奥さんからの連絡で、友人が突然危篤に陥ったことを知り、慌てて飛行機を取って福岡へ戻ってきていた。奥さんは電話で泣いていた。私もあまりの不意打ちに動揺してやっぱり泣いた。この不意打ち感は、最初に病気について告白された時の動揺に似ていて、正体の分からない、すっかり持て余すような感情で、やっぱり私は自分が信じられない。動揺して泣いていることにほっとしているような、早くこの状態を脱したいと思うような。信用ならない涙だった。
この1年、彼が死ぬかもという状態を見慣れすぎていて、病室で寝たきりの彼を見てもそれが常態であると感じ、何の共感もできないというか、野次馬根性を見破られず「また来てね」という言葉をもらった安堵感と、まだ自分は彼の友達枠にいるのだなと確認できた満足感で、それだけを抱えて病室とシンガポールを行き来していた気がする。彼のことなんて、本気で考えたことはなかった気がする。なので、一番の不安は彼が死んだ時にちゃんと悲しめるかどうかだった。それを最近ずっと、心配していた。そして、ついにその時が来たというわけだ。何はともあれ、動揺して泣いた。本物の悲しさよりも、悲しみが湧いてきたということへの安心のほうが、残念ながら、優っていた。本当に、残念ながら。
私が病室についた時には、意識レベルが上がるとあまりに激しい痛みにのたうち回るということで、強力なモルヒネが投与され始めたところで、彼の姿は変わり果てていた。大きく口が飽き、目は開いたままよどみ、肩で息をする以外には何の反応もなかった。それを見た時に、ああ彼は死んだのだな、もう戻ってこないのだと、自分のなかで早々にケリがついてしまった。前夜飛行機に乗る頃、直前に彼と奥さんが起こした珍妙な事件を思い出し、最後に彼から笑える思い出を貰って、もう思い残すことはないなと心の整理がつき、今もう半分以上死んでいるように見える体を確認したら、なおさら死にゆく彼の状態に納得してしまったのだった。なのであとは、奥さんをサポートし、最後は笑って送ろうと進言し、自分が気落ちした顔で病院にいなくてもいい環境が整ったことで気が楽になって、時間もあるし野次馬なもので病院へ日参し、親しい親族や友人とも仲良くなり、おまけに私は一人だけ勢いがいいものでまるで「場の空気を和やかにするため努力している」ように見え、なおさら信頼を得て、少々得意になったりして、毎日帰るタイミングを逃し、病室に長居して、そこにいることが当然みたいになった頃、私が半分死んだ彼に会った3日後、いよいよ今日が最後だろうということになった。
さすがに私はその時、真剣に気まずくなった。流れで私が彼の最後に立ち会う形になりそうなことに一番動揺した。私はよこしまな気持ちでここにいるのである。純粋に彼が心配で心配で来ていたわけではない。そんな私が家族同様に彼を見とるのは、いくら私が厚顔無恥でも気が引けた。しかしそれすら「他の人も何人か来るから是非」と言われたら「そう?」なんて一瞬で気持ちを翻して立ち会ってしまった。彼が逝ってから十数分、病室にすすり泣きの音だけが響いていたときは、もういたたまれなくてどうしていいか分からなかった。「最後のお別れ」をした時に、ふいに「私の人生に友達として現れてくれてありがとう」という言葉が出てきた途端に嗚咽が漏れてしまったのも、目の前にいた親友たちにアピールしているようで、そんな自分が薄気味悪かった。
そのまま彼を家へ連れて帰るまで同行し、私が率先してはしゃぐもので場はとても和やかに、賑やかに過ぎ、翌日も家が近いもので用もないのに行って集まった親族とだべって、結局夜中まで居座ってご家族や奥さんと泥酔するまで飲んで、通夜ではカメラを持っていって写真を撮りまくり、「あなたはもう親族だから」と言われながら他人なのに一人だけ通夜合宿に参加し、そのまま親族と一緒に本葬のカトリック教会へ出向き、親族席のそれも最前列に座って、親族だけができる、お棺の彼を花で埋める作業も、出棺の挨拶に並ぶのも、焼き場へ行くのも、お骨を拾うのも、その後の会食も全て参加して、あなたはもう家族だから、次に帰省するときは必ず連絡してねと奥さんのお母さんにまで言われながら福岡を後にした。
今はまるで、福岡でまだ続いている宴から自分だけが取り残されているような疎外感のなかにいる。たまに、あいつはもう寝たかななんてふっと思って、ああもういないんだったと、そんなことを繰り返すこともあるけれど、彼を送った親しい仲間うちにいた男性の一人がすごくイケメンで、その人からフェイスブックの友達申請を受けたことに舞い上がる気持ちのほうが強い。帰宅後ずっと続いている下痢と強い眠気のせいで何も手に付かないけれど、多分これは、彼との別れに打ちひしがれているせいではない。残念ながら、本当にそうではない。
親族席に座りながら、親族のような顔をして、親族だけが許される笑い声を漏らしながら、私は自分が目立っていることに舞い上がっていた。自分がそこにそぐわない人間であることを、家族の痛みに寄り添っているようで全然そうではないことを、自分が一番よく知っている。そもそも私と彼との関係は、とっくの昔に「過去の友」になっていて、確かに私は最古で実家が一番近い友人ではあるけども、もし彼が生きていれば、1年か2年に一度会うくらいで、たまに大きな事件を報告される程度の付き合いだったと思う。お互いそれでよかった。「一番古い友達が、わざわざシンガポールから通ってくる」という大げさなことになったのもたまたまであって、幸いにして経済的に恵まれた状態にある我が家にとっては大した出費でもなかった。別に、周囲が思うほど、大変な苦労をして通っていたわけではない。
きっと彼も、そう思っていた。会っても私達には今現在をわかちあう話なんか何もなくて、こんなにたくさん会いにこなくてもいいのにと思っていたはずだ。時には見舞いであることを忘れて自分の話ばかりしてしまい、彼を疲れさせたこともあった。正直こんなの、見舞いでもなんでもなかった。もし彼が病気にならなければ、死ななければ、こんな大げさなことにはならず、身の程に収まる、「古い友人」枠にじっとしていることができたのだ。もしも彼が、いきなり末期がんなんてことにならなければ。
私は今、毎日びくびくしながら暮らしている。すでにもう奥さんには、私の汚らしい内面が見透かされてしまったのではないか?彼と奥さんの珍妙な大喧嘩を半笑いで見ていた私の冷たさに彼は反感を抱きつつ逝ったのではないか?葬儀のポイントポイントで私が泣いていたのは周りにつられてであることを、白々しく眺めていた誰かがあの場にいたのではないか?
彼を送るというのは、人生で耐えられないことの一つであるような気がしていたのに。一体私は今回の事態に、どういう顔で、どういう対応をしていれば、こんな失礼なことにならずに済んだのか。
彼を、自分の身の丈にあった形で送り出すように、自分の野次馬根性や虚栄心を、どうやって抑えればよかったのだろうか。
そういう虚構が誰かにバレることが一番の問題なのではない。自分自身が、これから生きていくなかでずっと、「一番好きな友人の一人」をそんな風に送り出した重石を背負いながら生きていかなければならない。そんな重石を持つにふさわしい人間であることを痛感したのが一番の問題なのだった。うっすら気づいてはいたが、こうもしっかりと刻み込まれたくはなかった。うまくすれば、一生いい人の顔をして生きていられる可能性もあったのに。
どうしてこんなことに。
何故私は、彼を心から愛する人々と一緒に、さよならを言ってしまったのだろうか。(終)
松下幸 Koh Matsushita
1972年福岡県福岡市生まれ
シンガポール在住
職業 / コピーライターのようなもの
略歴(概略)/ 大学中退➝フリーター➝主婦➝フリーター➝会社員➝フリーランス
catpaw@gmail.com
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