ほくろ

文 / 備仲臣道

 長い黒髪の陰から、色白の女がこっちをのぞいているように見えた。額の上できれいに切りそろえた前髪の下に、切れの長い目のくっきりと黒い瞳が光っている。頬骨の上から少し目尻に近い辺りに、大きなほくろがあるのが美しく見えた。こめかみの上にも、もう一つあるらしく、女が顔を動かすたびに、髪の下に見えたり隠れたりする。なにか判らない気のようなものが、私のほうへ迫ってくるように思われた。
「お待ちしていました」
 こっちを見すえて、はっきりとした声で言った。続けて、ずうっと長いこと──と言ったようであったが、それきりあとは黙っている。
 誰だっただろうか、ずい分と昔に会ったことがあるようなと、思い出しかけて、あとが判らない。
 女はつっと立って部屋の隅へゆくと、お茶をくんでもどった。私の前に茶碗を置いたときに、両手の甲と腕にも、いくつかのほくろがあるのが見えた。黒い服を着ているうえに肌の色が白いから、黒い点が少し青みを帯びて、ことさら美しいのだろうと思った。
「数えてみたことがおありでしょ」
 女はそう言って、さっきの席にもどった。こっちを見て、そっと笑ったようである。考えて見ても、どうもよく判らない。少し不気味に思えなくもないけれど、この懐かしいような気持はなんなのだろう。

 それほど高くはない山の頂上に、周囲を雑木林に囲まれて、丸い小さな湖があった。風もなく、湖面は空の色を映して静まっていた。手鏡を置いたようである。湖畔に小さな宿屋が一軒あって、その前から岸へ降りた所がボート乗り場になっている。緩やかではあっても、木々のほかになにも見えない山道を、長いこと登ってきた目には、前が急に開けて、目の下に見える湖に、ほっとする思いであった。
 宿にチェックインしてから外に出てみたら、水の上に出てみたくなった。ボートを自分でこいで湖のまん中へ出るのに、それほどの力はいらなかった。ボートの縁からこわごわ水底を見たけれど、ただ深々と静かな水があって、底のほうは暗くてなんにも見えない。よほど深いのだろうと思ううちに背筋がぞくぞくとしてきて、水中に引き込まれそうに思えた。
 そのとき、急に辺りが暗くなって、空の高みから黒い雲が降り、霧が流れるような小さな粒の雨が降り出した。湖面はにわかにささくれだって、風に吹かれた波が岸へ向かって一筋白く走った。正体の知れないものが湖面を渡ってゆくようで、体の中を冷たいものが通り抜けたと思った。
 岸にもどると、暗い湖面はもう静まって、雨も上がり、そよとの風もなかった。霧が雑木林を包んで、辺りは神々しい気に満ちている。長い黒髪の女が一人で立っていたが、私に気づくと背を向けた。顔は見えないけれど、雨にぬれた肩がふるえているので、泣いているのだろうと思った。
「風邪を引きますよ」
 余計なお世話とは思ったけれど、横を通り過ぎるときに声をかけたのは、放っては置けないような気がしたからだが、なんにも反応はなかった。
 湖上の景色は時とともに移って、いろんな色に変化して見せ、なんとも言いようのない荘厳なものが身に迫るようであった。こうして日が暮れてしまうのかと思うと、わけもなく悲しい気分に襲われて、私は泣いているのかもしれなかった。
 囲炉裏を囲んでの夕食で、ほかに客がなかったのだろう、私の右側に湖畔にいた女が座った。色白の肌で、左目の斜め下に少し大きめのほくろがあった。艶めかしいというのとは違った、気品のある顔を、ほくろが演出しているように見えた。
 酒を飲みはじめて少したったころ、酔いも手伝って軽い気持になったのだと思うが、私は彼女にお銚子をさしてみた。はじめの二つ三つは受けたが、あとは私のほうへ手で押すような仕草をしてから、杯を伏せた。酔った大げさな気持ではなく、魅惑的な雰囲気の人だと思った。ほくろのせいだったかもしれない。
 彼女のほうが先に席を立って部屋に引っ込んだはずであったが、そのあと私の部屋へきたような気がするのは、どうした成り行きだったのだろうか。過ごしたというほどに酔っていたとは思えないのだが、考えてみてもよくは判らない。
 薄明るい電灯の下で、彼女の白い肌の上のほくろが、黒と言うよりも青に近い色をして妖しく艶めかしく、肌の香はかぐわしく匂いたって誘っているように悩ましい。ほくろの一つ一つを指で押して、憑かれたように数えたという記憶が私にはある。けれども、それが私の見た夢だったのか、本当にあったことなのか、いま一つはっきりとしない。朝になって目ざめたとき、私は布団の上に一人であった。別々に部屋をとったのだから当然だが、それより前に、いったい彼女が誰なのかさえも知らないのである。

 それきりだった湖畔の女が、いま私の目の前にいる女なのかどうか、それもはっきりとはしない。黙って座っているほかにないのは、彼女に会うためにきたのではなかったからであるが、目当ての人は出かけていて、いつ帰るとも知れないという。
「思い出しましたか」
 女がそう言ったように思ったけれど、口は少しも動いていなかった。訪ねた人に会えない私は、そのまま帰ることにして女にはその旨を伝えた。私が入り口の扉のほうへ向かって女に背を見せたそのとき、薄情なのね──と言ったように聞こえた。しかし、聞こえたという気がしただけかも知れず、よくは判らなかったけれど、とにかく、私はその部屋を出た。

 何日かして、外から帰ってきたら、家の郵便受けに手紙が届いていた。封筒の裏を見ると、知らない名前と住所だったのに、なぜか、あの女からだと判った。
 湖畔の宿の名入りの便箋が、一枚だけ入っていて、右よりの少し上の辺りに、五ミリほどの黒い点が描いてあるだけで、ほかにはなにもない。それが、あの女のほくろであり、湖の形だということはすぐに判った。黒い点は見つめるほどににじんで大きくなって、深いところまで透き通っているようであった。それがだんだん私に迫って視界を覆いつくし、と思うまもなく、私は湖に引き込まれ、底をめがけて沈んでいくのであった。

備仲臣道 Binnaka Shigemichi 1941~
韓国忠清南道大田生まれ 著述業
甲府第一高等学校卒 山梨時事新聞記者 月刊新山梨編集発行人
2006年、第6回内田百閒文学賞優秀賞受賞
著書 『蘇る朝鮮文化』(明石書店)『高句麗残照』(批評社)『司馬遼太郎と朝鮮』(批評社)『ある在朝日本人の生涯』(社会批評社)『内田百閒文学散歩』(皓星社・2013年8月)ほか5冊。
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