アートと思考⑨ 『芸術・フォア・反芸術・アンチ・どっちも・どっちでも』

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『雪とアナの女王~ありのままで~』2014

文・画像 / 服部洋介

 震災の年、とある会合で都内某企業の相談役から意見を求められたことがあった。この人は東電の清水前社長を慶應時代からよく知る人で、原発事故直後、自殺説まで出ていた前社長について「そんなタマじゃない」と否定、さらに東日本大震災は米国の気象兵器によって引き起こされた人工地震だと発言、私は同席していた信州大学の中村八束名誉教授と顔を見合わせたものだった。この年7月の復興特別委員会(衆院)で柿澤未途議員が、総務省の浜田和幸政務官(復興担当)の過去の論文を引用して「スマトラ沖地震はアメリカの地震津波兵器の仕業だ、なんて書いてる政務官を登用したらアメリカさんはどう思うんでしょうね」と突っ込んだところ、当の浜田政務官は「地震兵器は常識。そういう可能性が十分あるという可能性を踏まえて国際政治の現実を捉える必要がある。だからといってアメリカ政府や米軍が支援してくれないということはない」(1)と柿澤議員の指摘をあっさり肯定、一部で騒ぎになった。浜田氏は、日本政財界に太いパイプをもち、安全保障分野では世界最高といわれる米国のシンクタンクCSISの出身、件の気象兵器の正体とされる高周波活性オーロラ調査プログラム(HAARP)の理論上の生みの親といわれるニコラ・テスラとは犬猿の仲だったエジソンの大ファンでもある。
 さて、HAARPが地震兵器として使われたか否かは論理命題であるか否か? これはY/N型の問いであるから、当然、事実の成立/不成立、つまり命題の真偽について答えることが可能な論理命題といえるだろう。ところが、実際に事の真偽を確かめること自体が可能かという話になると、これは米国政府高官にでもならない限り不可能というほかない。よしや高官になった私が「HAARPは地震兵器ではございません」と言明したところで、客観的に通用する証明とならないことはいうまでもない。私は嘘をついているのかも知れない。人の本心に属するような事柄は、直接には論理命題ではない。ここでは「私が、HAARPは地震兵器でないと言明している」か否か自体の事実確認しかできない。その限りにおいて、この命題は「真」である。この事態をヴィトゲンシュタインは、『論考』5.542において「「Aはpということを信じる」「Aはpと考える」「Aはpという」は「‘p’はpという」という形をしていることは明らかである。そしてここで問題となっているのは、ある事実とある対象との対応関係ではなく、対象の対応関係を通じてえられた事実相互の対応関係なのだ」(2)と表現している。
 このように、常識的には反証可能性を有していると考えられる命題の中にも、確認の手続きを欠くものは数多く存する。そうは言ったって、あらゆる事実は成立しているか否かのいずれか、あるいは成立していたか否かであり、他人が見ていないからって「真実はいつもひとつ!」とコナン君なら言うであろう。ンなもの確認の手続きが与えられりゃの話だけどね。科学ならば、再現性の基準、つまり統計学的仮説検定をクリアできない局所的現象は「科学的事実としては存在しない」とされるわけだが、このコンセプトは科学独特のものである。いつどこでも追試で再現できるようなシロモノ、つまり誰もが今ここで目にすることができるようなブツを出せなければ、どんなに劇的な事件が起きたところで、取り合ってはもらえない。かつてジョセフソンは「統計平均の手法は有意味を無意味に転換する」(3)と嘆き、今日おぼちゃんは「STAP細胞はありまぁす」と訴えているわけであるが、よしやPKやSTAPが実在するとしても、科学の範疇では扱えない。ヴィトゲンシュタイン論理学においては、神とかサンタさんとか、倫理とか美みたいな「おまえには見えても俺には見えん!」的な形而上学はまとめて論理空間の外側に放逐される。「論理命題ではない命題の真偽は、その命題だけからは知りえない」(6・113)からだ。よって、自分に見えないものが、他人には見えちゃってる云々については、論理的には真偽の判別を下すことができないのである。
 くりかえしになるが、アートという語を含む命題はどうであろうか? 「一つの点の白黒を語りうるためには、一般にある点はいかなる時に黒と呼ばれ、いかなる時に白と呼ばれるかを、あらかじめ知っておく必要がある。‘p’が真(ないし偽)である、と語りうるには、わたくしは、いかなる事情のもとに‘p’を真と呼ぶか規定してかからねばならぬ。それによって当の命題の意味も定まるのである」(4・063)。そこで、中村博士はアートの公理化を試みたわけであるが、このほど、「無理じゃないのかなあ」と断念した。ある作品を指して「アートか否か」を普遍的に判別する基準を立てることは可能であろうか? 以前にも挙げたデュシャンの「アフリカの真ん中で傑作を描いた天才」の例を見てみよう。彼は誰にも見いだされなかったがために、そんな天才はいなかったことにされてしまうわけだが、ニューヨークで同じことをしたならば、天才として歴史に残ったであろう、というわけだ。パスカルの指摘する「真理の地理学」と呼ばれる事態である。どこぞの修道院のキリストをゴリラに変えてしまったセリア・ヒメネスに至っては、中世とかだったら袋叩きにされていただろう(笑) いや、あれは超傑作だった。修復という名辞の意義については脱構築しまくっていたけどもね。
 同じことをしても場所や時代によって同等の評価が得られないのでは、芸術の定義とは何ぞやには答えられない。こんな話がある。法然の弟子に阿波介といふ陰陽師がいた。ある時、法然は後に鎮西流の祖となる聖光に「わしの念仏と阿波介の念仏はどちらが勝っておるか」と尋ねた。聖光は(わかっちゃいたけど)「そりゃもちろん法然上人です」と答えた。案の定、法然に「誰が唱えても念仏に優劣はない」と怒られた(笑)(4) 中村博士は念仏嫌いで通っていたが、その話をすると、そこだけはウケて「誰が行っても同じ行為には同じ価値がある。教師と学生は議論の上では対等でなくてはならない」と、いわゆる「権威による論証」に警鐘を鳴らしていた。例えば、どこぞの美術館に展示されているような同じ箱をいくつも並べただけの作品を作るのはさほどむずかしいことではないだろう。その気になれば家でもできる。しかし、なぜそれではアートとはいえないのか? どうして作家の作った作品だけがアートなのか? この問題について、このほどアムステルダムのレジデンスの最終面接で「あんたのノマドな生き方はわからん!」(5)と不条理な言いぐさをつきつけられて帰国した松田朕佳は、かつて面白いことを言っていた。同じ行為に異なった評価が求められるのは「ミニマル系の作品をポンと置いて、『こんなの誰にでもできる』と言うだけなのか、それを実際に会場を借りて『これはアートなんだ』と命をかけて信じられるかという差」(6)なのだという。人前でやらないことには、アートとは呼べないというわけだ。「作品を真に完成させるのは後世の観客である」(デュシャン)といわれるが、ほとんどパブリシティの問題だ。「家でやっとるで?」でもいいんだが、人に知らせて見に来てもらわんと。実際、来るかは知らんケドね。
 さて、作品を観測可能なものとして現前させるパワーが何であるかについては、これまでにも縷々述べてきた。その中で、金をかけずにできそうなのは、なんだかわからんモノについて「これはアートです」と言い張って相手を説得する知の枠組みを習得することくらいだろう。そんなことを、スーパー・グローバル・ハイスクールに指定され、「長野のグローバル戦略を探る」と題する科目を新設した母校からの要請もあって、授業の中で講義した次第ですが、良かれ悪しかれ、アートとかブランドといった、モノとしての実用性を逸脱したシミュラクルというのは、計測可能な経済的価値の背後に、形而上学的な観念の集積をストーリーとしてもっているわけで、それを効果的に表現するための語彙、イメージといったものを操作する能力が、アーティストにもグローバル・リーダーにも必要といえるだろう。価値とは見なされてこなかったものに新しい価値を与えること――それが「ただの便器」と『泉』の違いであるが、そこんとこの「価値」の実体を絶対的に説明することはできない。どう見ても便器は便器だからねえ。そこをどういう口実でアートにもっていくか。もちろん、内実の立派なものを世に出していく場合も事情は同じだ。このシミュラクル性というべき現代ブランドの基礎的な特性を理解し、シミュラクルのシミュラクル、ハイパー・シミュラクルというべき事態に対処できなければ、いわゆる古き良き「オリジナル」は生き残ってはいけないだろう。
 だが、「オリジナルなきコピー」であるはずのシミュラクルには、オリジナルを不当に参照することで、官製の形而上学的観念を創出し、人々の上にあたかも正統なオリジナルとして君臨した過去がある。人々は「オリジナル」が大好きだからね。「日本古来」とか、「日本の伝統」とかいうものは、それが現代版のシミュラクルである場合に限り、ソフトパワーとしても転用可能な文化資本である。世界遺産としての「和食」も、戦国時代に来日した宣教師には不評だった。あの前後に和食の基礎が築かれたにも関わらず、一般にはまずかったわけだね。それと同じように、敗戦まで日本的エスプリの精華とされたわが国体をさして日本の「伝統」とか「本質」とかいわれても、よしやそれが真実でも、現代的には何のソフトパワーにもなりえない。GHQは国体観念を「国体のカルト」「国民道徳と愛国主義のカルト」(7)と呼び、オリジナルの神道の戦前版シミュラクルと結論づけた。デリダは、合衆国の独立宣言を取り上げて同様の事情を指摘している。問題は「appealing to the Supreme Judge of the World for the Rectitude of our Intentions, do, in the Name, and by the Authority of the good People of these Colonies, solemnly Publish and Declare, That these United Colonies are, and of Right ought to be, Free and Independent States;」の箇所に凝縮されている。「神」「善良なる人民」「植民地は自由にして独立、かつまさにそうあるべき」――形而上学のオンパレードである。まだ自由でも独立でもないからこそ独立宣言なんだろうに、すごい言いぐさである。おまけに誰のことを言っているのか、「善良なる人民」の名によって宣せられている。国家や権力にはこうした暴力的起源が存する。つまり、重要なのはコンセプトだ。そして、それは観測可能な歴史的事実ではない。シミュラクルとしての歴史なのである。ポストモダン保守の標的となっている憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して」も同様である。これはコンセプトであって事実の確認ではない。コンセプトとは、単なる「概念」ではなく、同時進行する「理念=事実」の「宣言」であり、世界をかくあるべき「リアル」として確定する言語、表象、その総体としての「記号」なのだ。
 さて、国体というコンセプトを掲げた旧日本帝国。とりあえず過去の朝廷が国策で作った記紀などをオリジナルの歴史に擬して、その事実性を確認することを抑圧、反知性主義に突っ走ったわけだが、こうした日本主義に相対するものが近代ヨーロッパ文明の根幹をなすユダヤ思想だという主張があった。英米は科学的・合理的な智力を主体にしないと「いかなる事実であつてもそれを其の儘に認識し享け容れるの本能的能力を喪つてしまつて」おり、対する日本は「即ち「言挙げせぬ國」であるが故に「言霊の幸はふ國」であつた。道義を規格化する必要のなかつたほど実践的であつたわけである」と井澤弘は『ユダヤ論攷』で力説している。真理たる「まことの道」は科学的には解明できない根源に由来し、日々の生活における実践によって日本にのみひとり正しく継承されてきたというわけだ(8)。近代西欧人にはどれだけ考えてもわからんものが、日本人なら直感でわかる――なんとアートな感覚であろうか。まさに「アートは、わかる人が見ればわかる」の世界である。デュシャンもまたアートの秘教性に言及している。アートは秘教であり、秘儀伝授されていない大衆に、この秘教を理解することはできないとまで言っている(9)。そういえば、アヴァンギャルドとキッチュをどう区別するのか――松田さんとそんな話をしたことがある。結論「まあ、グリーンバーグともなれば、見たらわかる」(笑) まあ、そういうもんだよなあ。一方の中村教授は「前に現代アート展の後片付けに行ったことがあったんですよ。そしたら片づけ方がわからなくて、上か下かわからんままに作品を梱包したんだよ。作者に聞いてもわからんようだった」と証言している。実際のところ、作品以前に上か下かもわからんのである。これでは、画廊のゴミと間違えられて捨てられたハーストである! まあ、そういうモンのほうが好きだけどね。
 グリーンバーグが「これは芸術だよ」と言ったらその作品が事実、芸術となるのでは自己成就予言である。奴のポスト・ペインタリー・アブストラクションなるコンセプトがリアル化しただけのことである。だとしたら、かなり一方的な奴である! しかし、逆に「こりゃキッチュだな」と酷評されたおかげで注目を浴びてしまう場合もあるだろう。そういえば、確かあれは越ちひろの手帳だったかと思うが、「一流はけなす、二流はほめる、三流は無視する」と書かれていた。「なるほど、一流の人は簡単に作品を誉めたりしないのかあ」なんて思っていたら、実はこれはノムさんの格言で「一流選手はほめると図に乗るから、けなして育てる」という意味だった。めんどうな上司だなあ。それはそうと、批評家にけなされるくらいのほうが話題になってプラスだと言っているのがポストモダン・マーケティングの提唱者スティーブン・ブラウン教授だ。曰く「注目を集めるには、乱暴で無法な行動をとるのが一番です。それは、わずかな広告費で、膨大な予算でしか実現できないマーケティング効果を獲得できます」(10)。便器を出展して怒られたデュシャンも後年言っている。「批評家の一番の武器は沈黙だ」と。無視されたら何にもならないわけです。なるほど、「一流」ともなれば、けなすことでアーティストを売ってくれるわけである。こうなりゃアートもアンチ・アートも同じだ。「アンチ・アートという言葉にはいささか悩まされる。というのは、あなたが反対(アンチ)か賛成(フォア)かという時、それは同じものの二つの面であるからだ」(デュシャン)(11)。アンチ・アートが存在できるのはアートが存在するためだ。アートに依拠しなければアンチ・アートが存立できないとしたら、アンチ・アートにとってアートは必要不可欠な対概念なのだ。なにしろ、アートに反しなければならないので、アートとは何ぞやの前了解を包含しておかなくてはならない。アートがなかったら、反アートはただのゴミだろうからね。このあたりを『論考』は「否定命題は間接的に肯定命題によって構成されていたのである。肯定命題は否定命題の存在を前提せざるをえず、またその逆もなりたつ」(5.5151)、「記号‘p’と、記号‘~p’とが同じことを語りうるという事実は重要である。なぜなら、実在において記号‘~’に対応するものは何もないからである。命題の中に否定が現れたところで、それは、命題の意味を特徴づけはしない。(~~p=p)。命題‘p’と‘~p’とは、逆方向の意味を有する。しかしそれらには、唯一無二の実在が対応する」(4.0621)といっている。「こんなのアートとちゃうやろ」とけなされようと、対象がアートという言葉と一緒に使われた時、対象がアートに関わる何かであることが、却って浮き上がってしまうのである。ネットなんかで検索されたらもう、ヒットしちゃうね。なお、この「フォアとアンチ、どっちでも」問題は、もう一点、論理包含(条件文)と関係を有しているが、詳しくは「アートと思考⑤」を参照のこと。「どっちでも」を「どっちか」に特権化しようとする権力側の試みについてメディア論の立場から書いた。なお、余談ですが、「どっちでも」といえば、最近、日本でも「アナ雪『ありのまま』事件」というのが出来したのは記憶に新しい。『Let It Go~ありのままで~』を超ポジティヴな歌かと思って「ありのままの自分でいいんだ」と熱唱する人が続出、大ヒットした。その後、実は「もうどっちでもいいや」的な放置ソングだということが発覚、女王が開き直って氷のお城に引きこもってしまう歌だったのである! それはそれで人生の選択としては別段異論はないが(アレンデールさえ夏に戻してくれれば)、受け手は、すっかり歌だけを映画から脱構築して捉えていたのである。誤訳とも名訳ともいわれるゆえんである。これが『Let It Go~それでいいや~』とかだったら売れないよなあ。
 以上、アートの行為遂行的な性格について述べてきたわけだが、コンセプトをぶちあげるということは、そこで述べられていることが事実かどうかはおき、あたかもそうであるかのように装うことで、最終的に言明自体を事実にしてしまうという発語媒介行為だといいたいわけである。「大きな物語」の終焉後、メディアを通じて現実のシミュラクルを作りだし、事実を望む方向へと変化させ、通約可能なものに仕立てる技術自体がシミュラクル化し、「小さな物語」の構築へとアートを駆り立てた。インプライベートのような新手の「現実もどき」をはじめとする通約不可能性自体を「物語化」した「通約不可能性のシミュラクル」がアーティストの関心を捉えている(12)。これは、「一元化された物語」に対し、「私的で断片的な現実」を復権させることで、通約不可能な状況をつまるところ通約的にしてしまうという新たな「物語」のすり替えにすぎない。およそ「現実」の名で呼ばれるシミュラクルは、既存のゲートキーパーが取り上げるハイパーリアルであれ、アーティストが切り取るプライベートなリアルであれ、人が見せたいと願う「現実」を他者の目につく場所に展示してみせる「三面記事化」の過程にすぎない。ラディカルに必要なのは「リアル」という制度自体の解体なのだ。
 では、「通約の手続きを欠いていること自体」をアートにおいて成就することは不可能なのだろうか? 「物語化された通約不可能性」に依拠することのない形而上学的な「NULL」を作りだした稀有の作家がいる。また次回。

(*1)発言は要旨。答弁の全体は衆院会議録『第177回国会 東日本大震災復興特別委員会 第10号(平成23年7月11日(月曜日))』(web)参照。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/024217720110711010.htm#p_honbun
(*2)以下、『論考』の引用は、叢書・ウニベルシタス6『論理哲学論考』(L. J. J. Wittgenstein〔著〕,藤本隆志,坂井秀寿〔訳〕,法政大学出版会,1968)による。
(*3) 『科学は心霊現象をいかにとらえるか』Brian David Josephson〔著〕,竹内薫〔訳〕,徳間書店,1997,p.94
(*4)舜昌撰『法然上人行状画図』巻19巻を見よ。
(*5)facebook, Chika Matsuda 2014年7月2日記事「アムステルダムレジデンスの最終面接まで残ったので、もしかしたらと期待したけど落っこちました。面接に呼んでもらえたこと自体がとても励みになったのですが。理由は、どこに向かっていくのか自覚していないのでは、とのこと。確かに。どこに向かおうか」(web)
(*6)2013年6月18日。筆者との対話。アトリエ「Tiny Studio」(長野市南県町「栄心堂ビル」2F)にて。以下同。
(*7) 『天皇と神道 GHQの宗教政策』William P. Woodard〔著〕,阿部美哉〔訳〕,サイマル出版会,1988,p.8-9
(*8) 『ユダヤ論攷』井澤弘〔著〕,旺文社,1944,p.258-260
(*9) 『デュシャンとの対話』Georges Charbonnier〔著〕 1961 / 北山研二〔訳〕,みすず書房,1997,p.11-13
(*10) 『ポストモダン・マーケティング――「顧客志向」は捨ててしまえ!』Stephen Broun〔著〕,ルディー和子〔訳〕,ダイヤモンド社,2005,p.154
(*11) 『デュシャンの世界』Marcel Duchamp,Pierre Cabanne〔著〕,岩佐鉄男・小林康夫〔訳〕,朝日出版社,1978,p.147
(*12)吉井仁実『現代アートバブル』p26-30を参照せよ。なお、吉井の指摘するリアルに対する複数性の視点について、知覚、記憶、運動、空間などを異なる審級から捉え、その相対性に触れようとする齋藤春佳といふ人を挙げておきましょう。私にとっては高校の後輩なんですけど、だからってわけじゃないけど面白いよ?

服部洋介 Yousuke Hattori
1976年 愛知県生まれ 長野市在住
文学学士(歴史学)
yhattori@helen.ocn.ne.jp
http://www.facebook.com/yousuke.hattori.14