塩尻の石橋をたたいて渡るプロジェクト
2012・September・8 〜September・9
企画/設置:北澤一伯
シオジリング アートフェスタ2012 塩尻市市民交流センターえんぱーく
文・画像 / 北澤一伯
『「地域」には少なからず問題があります。それと同時にどんな地域であっても、何かしらの特徴を持っています。それはふたつとして同じものはありません』。2年前に参加したシオジリングという企画の主旨の書き出しです。そのため問題解決の方法を「行動に移す」ことになった時、やはり慎重に物事をすすめようと考えます。
石橋を叩いて渡るという諺があります。
「石橋を叩いて渡る」の意味は、用心を重ねて慎重に物事を行うことのたとえのこと。こわれるはずのない堅固な石の橋を、叩いて安全を確かめて渡る意から、あまりにも臆病な人や慎重すぎて決断の遅い人に対する皮肉としても用いられます。
さらに「石橋を叩いて壊す」 <続・ことわざ辞典>の意味。【読み】 いしばしをたたいてこわす 【語源】 心配の余り、丈夫な石橋をわざわざ叩いてしまったばかりに壊してしまって渡れなくなってしまう。 【意味】 なにもしなければ良いものを、わざわざ騒ぎ立てて問題にしてしまう。
問題はここにあるのではないかと私は考えています。何もしなければ問題解決というものも起こらないにもかかわらず、何かしようとする行動に対して「石橋を叩いて壊す」という言い方で行動意欲の芽を摘んでしまう積み木くずし名人は、どこの「地域」にも「組織」にも、確かな地位を堅持しつつ存在します。私たちは「なにかしたい」にもかかわらず、「なにもできない」状況を何度も体験しています。
近代以降の法律の概念では、悪には悪の為し手が、悪の為し手には悪の意図があるということが前提になっているそうです。しかし現代は悪の為し手に悪の意識がない、と私は思えるのです。
悪の意識のないものの悪を正そうとすることは難しい。
そのため私は、それでは納得できないと考える技法の訓練が必要であると考えています。なにもしなければ何も起こらないけれども、美術という姿を意志するなら、問題解決の技法だけでなく美術=ARTの技法に触れ、ビジョンを組立てる思考を実践できるからです。
では、叩いてみよう。叩いて、叩いてて壊してしまおう。壊した物をもう一度あたらしくつくり直そう。
気に入らなければ、再度つくり直せばいいんだぜ。
本当の石橋なら叩けば火花がきれいかも。叩いた音は音楽になるかも。
そして、記録写真は絵画になり、叩いた金槌にはオブジェになり、録音された叩いた音は空間に再生され、石の破片は問題解決の事務机の上に静謐に満たされる。
さびしい山裾の現代美術など知らない地方の町で、その場に立った観客の各々が持っている問題が解決されて、もしくは問題が解決できる課題に変容されて、大切なものをとりもどす、としたら・・・。
北澤一伯(きたざわ かずのり)Kazunori Kitazawa
1971年から作品発表。794年以後、廃屋と旧家の内部を「こころの内部」に見立てて美術空間に変える『「丘」をめぐって』連作を現場制作。その他、彫刻制作の手法と理論による「脱構築」連作。2008年12月、約14年間長野県安曇市穂高にある民家に住みながら、その家の内部を「こころ内部」の動きに従って改修することで、「こころの闇」をトランスフォームする『「丘」をめぐって』連作「残侠の家」の制作を終了した。また、生家で体験した山林の境界や土地の権利をめぐる問題を、「境(さかい)論」として把握し、口伝と物質化を試みて、レコンキスタ(失地奪還/全てを失った場所で、もう一度たいせつなものをとりもどす)プロジェクトを持続しつつ、95年NIPAF’95に参加したセルジ.ペイ(仏)のパフォーマンスから受けた印象を展開し、03年より「セルジ.ペイ頌歌シリーズ 」を発表している。
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