41歳の神童(2)「マーライオンを届ける。彼は死ぬのだろうか?」

文 / 松下幸

 7歳の時からの付き合いである友人が悪性リンパ腫ステージ4の疑いで入院したという知らせを受けたのはつい最近の気がしていたけど、調べてみると去年10月半ば。もう7ヶ月以上経ってしまっている。友人は確か9月後半に入院したはずだから、8ヶ月以上入院しっぱなしということになる。
 知らせを聞いて、現在住んでいるシンガポールから郷里福岡まで直行で帰れる一番早い便で見舞いに行って、確定診断は出てないけどほぼ悪性リンパ腫確定で、3箇所も転移している脊椎は粉砕骨折状態でいつ麻痺が出てもおかしくないなんて信じられない話を、杖をついて歩いている以外特に悪そうなところも見当たらない姿で聞かされて、でも悪性リンパ腫ならばステージ4でも助かることも珍しくないし、化学療法もよく効くらしいから、と「みんな元気出して、諦めないでいこう!」というような雰囲気で他の見舞客も交えて話をした。そしてシンガポールにとんぼ返りしてからきっかり一週間後、いよいよ確定診断が出た。それが出ないと治療が始まらないから友人も周りも首を長くして待っていたのだが、告げられた病名は悪性リンパ腫ではなく「唾液腺ガン」のステージ4。いわゆる「末期がん」だった。
 確定診断の翌日に友人の奥さんからその話を聞かされた時、私は「ふーん」といった、想定の範囲内みたいな反応をしてしまった。奥さんは当然ながらものすごく動転していたので、私の落ち着き払った反応に反感を持ったかもしれない。しかし私はただ、確定診断の直後に連絡がくるはずだったのが翌朝までなかったので「何か悪いことが起こったのだろうな」と判断していて、そういう意味での「想定の範囲内」だったのであって、悪性リンパ腫からガンに診断名が変わったことの意味までははっきり腑に落ちていなかった。そこから数日経ってやっと私も気づいた。あれ、ガンのステージ4ってことは、もう治らないの確定ってことなのかな、と。
 私がシンガポールに戻ってきた数日後、突然友人の両足が完全に麻痺したと連絡を受けた。そうならないための手術をうける矢先だったので、悪性リンパ腫がガンに変わっても麻痺をどうするかが先決だろうというような感覚が自分のなかにはあった。麻痺が出た直後だから、すぐ手術すれば治るのかもしれないと。しかし、診断が出た翌日に予定されていた手術はキャンセルになった。化学療法もしないと聞いた。さすがの私も「ステージ4 脊椎転移」などの言葉で検索してみたら、余命とか緩和ケアとかホスピスとか痛みのコントロールとかいう話しか出て来ない。麻痺した足の感覚を取り戻すとか、そういうレベルの話ではないらしかった。
 しかし普通に考えれば、ステージ4ならいつホスピスに行くかが主要問題だろう。私も最初に知らせを受けた時には、骨転移=死と一瞬で思ってパニックになった。が、まだ望みがあるように一旦気持ちがおちついてしまったのでまた死と言われても実感が持てない。なので改めて冷静に新しい病名で友人の状態について調べ、死という言葉を飲み込んでいくと、パニックになった時以上にずっしりと、診断名の意味が重くのしかかってくる。ショックを受けるというより、暗澹とした気持ちにさせられる。

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 結局友人は放射線治療を受けただけだった。検索して得た知識の範囲内で考えると、放射線治療は手術や化学療法のように完治を目指すものではない。多分友人の場合は、痛みのケアのために骨転移部分を小さくするための治療だろうと予想し、それはつまり、今後は緩和的治療しか受けないという判断をしたのだろうかとか鬱々と考え、しかしそんな踏み込んだことは聞けないし、仮にそういう治療を選択していても私がどうこう言える立場でも状態でもない。
 驚いたのは、友人はそういう判断をする場面にいる可能性が高いという事実だった。2週間前に会った時にわりと元気そうだった人が直後に深刻な病にかかっていることが分ったとして、「積極的治療はやめようと思う」と言われたら普通「もっと頑張ろう」とか言うと思うのだが、彼の場合は内臓転移がないから見た目元気そうだけど、ステージ4ならばどういう風に死ぬかということについて決断を迫られるのは当然であって、そこで決まったことに周囲が反論をできるような時期でもすでにないかもしれないのだ。
 しかし彼の奥さんの行動なんかを遠巻きに見ていると、諦めたという感じでは全くなく、友人もフェイスブックに普通の話題をポストしてたりしてて、なぜ放射線治療以外受けないのか、それがどういう状態なのか気になって仕方がなかった。でも何も聞けなかった。

 何か聞ければいいのにと思った。聞けるのは、
1)すごく親しくて家族同様に友人をサポートする立場にいる人
2)鈍感力の高い人
3)おせっかいな人
のどれかだと思うのだが、私はどれでもなかった。どころか私は4つめの選択肢「野次馬」の範疇の人間で、それを自覚しているからこそ何も聞けなかった。正直自分がどこまで彼を心配しているのかもよく分からなくなっていた。ひどい話だが、死ぬのか死なないのか早くはっきりしてくれとか、ものすごく乱暴にいうと、そういう類のことが心を占めていた。
 なので、やましくてとても「今どういう状況?」とは聞けない。でも気になる。なので、見舞いに行くことにした。行けばその時点での状況までは、分かるからだ。思いつきで、見舞いの時には何らかのマーライオンを持っていくことにした。笑いの種になるし、口実にもなりそうだし、お守り代わりにも、もしかしたらなるかもしれないし。

 そうやって、12月の帰省にあわせて見舞いに行く約束をした直後、突然彼は金沢大学病院への転院を決めた。そこに脊椎ガンの権威である整形外科医の先生がいて、ガンに侵された脊椎をごっそり取って凍らせて砕いてセメントで固めてもとの脊椎の位置に戻すという治療をやっているそうで、これは免疫力を高めて他の小さい転移も殺す力があると。そこで緊急手術を受けられることが決まったからだった。
 私が見舞いに行った日は引っ越しの前日で、慌ただしい準備のなか見舞客も多く来て、私も娘を連れていたので顔だけ見てすぐ帰るという状況だったのだが、その時はじめて彼が本当に車いすに乗っていて、足に全く力が入らないというのをこの目で見て、彼が侵されているのが化学療法が全く効かないガンであることも知った。放射線治療しか受けなかったのは、それしかできることがなかったからだった。なので、金沢大学での治療は最後の頼みの綱で、それも本当に運よく見つけられた綱なのだった。後で調べたら、その治療はかなり有名なものらしく、2014年からは保険適用も始まった、いわばお上のお墨付きの治療であり、ガンの完治だけでなく麻痺の完治も目指すという魔法みたいなすごいものだ。しかし脊椎が原発巣で、侵された脊椎も一箇所だけが治療対象なのだが、教授の判断で転移性のガンが3箇所もある友人も手術を受けられることになった。そしてさらに嘘みたいなことに、私が見舞いに行った5日後にはもう手術を受けていた。成功しました!と奥さんがフェイスブックに投稿していたのをみて、よかったねと思うと同時に、私はそれがどういうことなのかよく理解できずにもいた。どう消化していいか、わからなかった。
 こないだの夏まで脂ぎった顔でエネルギッシュな暮らしをしていた友人が、秋になったら突然ガンだ脊椎転移だ粉砕骨折だという話になり、いきなり下半身麻痺になり、さらに末期がんになり、彼は死ぬのだと9割方納得してしまったところに信じがたい荒業手術の登場、あっという間にそれを受けて、成功したと。彼はそれで死ぬのか死なないのか、成功というのはとりあえず死ななかったということか、とるはずだったガンは全部とれたから余命的な勘定から脱出できたということなのか、まるで「成功」の意味が分からなかったけど、やっぱり自分が好奇心一杯の野次馬な気がするから突っ込んで聞けず、聞く代わりにやっぱり見舞いに行くことにした。今度は金沢までだから、私の野次馬根性も相当なものだ。

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 飛行機のチケットや娘の世話の関係で、週末2日機内2泊という強引すぎる日程を組んで、大雪の金沢大学付属病院にたどりついたのが1月半ば。術後高熱が続き食事もまともにとれない状態だった友人が、やっと熱が下がって食べ物を口にできる状態になった2日後の面会だった。マーライオンの3Dパズルと、絶対着たくないようなマーライオンTシャツを持っていった。

 私は運がいいのか、彼が本当に深刻な状況というのに行きあわせたことがない。最初の見舞いのときは、顔色もよく足腰も立っていた。二度目は車いすだったけど、食事に問題がなかったので逆に少し太っていたぐらいだった。三度目の金沢はでも、半月以上食事をまともにとっていない状況なので、いよいよ深刻なのだろうかと覚悟していたが、行ってみたらまたもやそうでもなかった。ほぼ寝たきり状態で、今まで会ったなかで一番具合が悪そうなのは確かだったが、なにせ大手術という「大きな治療」を初めて受けられた後で、もう二度と取れないしそれが近い生来命を奪うと言われていたガンをごっそり体から取り除いた後なので、具合が悪そうでも友人夫婦は明るかった。初めて友人は、私に「それまでのこと」について話をした。本当にホスピス行きを勧められていたこと、放射線が終わったら「治療終了」で退院しなければならなかったこと、たまたま喫煙所で隣り合わせた患者から、テレビで金沢大学病院の治療について放送していたと聞いたこと、その日の夜中にiPhoneで情報を調べ、翌朝奥さんが来る前に友人自身が病院に連絡して教授と話をしたこと。

 「どういう治療をうけたいかって先生に聞かれて、おれは、せめて足の麻痺がよくなればと思っていますって言ったら、『あなた、うちの治療の対象じゃないね。うちはガンを完治させたい人が来るところだから』って怒られたんやけど、おれそれ聞いたときもう、号泣よ。だってこっちはもう、緩和とか余命とか、そういう世界におったんやから、まさか完治とか、そんなこと思いもせんかったもん」

 バカみたいな話だが、どうして自分はこんなに鈍感なのだろうと不思議で仕方がないのだが、この話を友人の口から聞いてはじめて、友人がどれだけ追い詰められていたか、どのくらい死が近くにあったか、彼がこの転院と手術でどれだけ救われたかを私は知ったのだった。彼が自力で調べた病院だということも、その先生と話をしたときに号泣したというのも、全く想像していなかった。全く想像していなかった自分を含めて、すべてが想定外の出来事だった。
 野次馬根性と下卑た好奇心も、時にはこうして役に立つのだなとその時思った。少なくとも、私は恐ろしいぐらいの鈍感から、僅かながら抜け出すことができた。友人の心境に僅かでも近づくことができた。何より収穫だったのは、友人が生きることを想定してもいいと知ったことだった。少なくとも、彼はいつ死ぬのだろうかと考えなくていいみたいだった。そういう嫌な考えを持っている自分をやましいと思う機会もなくなった。
 やっぱりこの男は持ってるよね何かを、掴んでくるよね運を、さすが生まれながらの神童は違うね、なんて奥さんとはやし立てて、「41歳の神童」で闘病記を出せるように、7月の誕生日までには社会復帰しようねなんて、上辺だけでなく本気でそんな話をして帰路についた。

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 3月になって、ついに彼は生きて福岡に戻ってきた。再入院先の病院はなかなか見つからず、結局ホスピス行きを勧めた病院に戻ることになった。偶然にも、私が見舞い用に買っていた飛行機のチケットは、彼が福岡に戻った数日後のものだった。今回も、心機一転で状態がいい時の見舞いとなった。今度は5歳の娘にマーライオンの絵を描かせて持っていった。かなり不気味な仕上がりで、いい土産になった。
 今までで一番気が楽な見舞いだったので、それまで知らせていなかった共通の友人にも声をかけて連れ立って行った。3月なのに、春の盛りみたいに暖かい日だった。病院の向かいにある公園に皆で移動して話をした。
 友人は、予想していたのとは違ってかなり落ち込んでいた。はじめてはっきり「痩せたな」と思った。
 麻痺はあまり改善せず、この先の人生は車いすで生きていくことは逃れられないようで、それが彼を落ち込ませていた。発病から今までは死の恐怖が目前にあるから緊張状態で、深刻に落ち込む間もなかったのだろうが、いざメインの治療が終わって、あとは僅かに残ったガン病巣をコントロールすることと、麻痺のリハビリが主要な通院目的となると、そこではじめて、今後生きていく道の困難さに気がついたようだった。

 「おれがあと残りどのくらい生きられるか知らんけど、たとえばあと20年生きられたとして、20年ずっと車いすなのかとか、ずっと小便もうんこも普通にできん生活なのかとか、どうやって生きていったらいいのかとか、考えると、もう」

 しかし現金なもので、当人には死と同等の、もしくは死ぬよりも深刻な悩みかもしれないものに対してでも、生きている上での悩みを相手が語っている限りにおいては、いくらでも「アドバイス」的な言葉が湧いて出てくる。そんな、車いすぐらい何よ。死ぬよりずっといいじゃないとか。車いすでも42.195キロ走る人もいるんだからとか。私に唯一示せる誠実さといったら、その手のことは決して言わないことぐらいだった。何故って私にとっては、いつ死ぬかという状態の人を前にするよりやっぱり、一生車いすといって落ち込んでいる人を前にするほうが何万倍も楽だったからだ。死は他人ごとではないけれど、下半身麻痺というのはわりと他人ごとでいられるらしい。

 でもとにかく、その手の生きる悩みというのはいつか慣れるものであり、何より彼は生命力溢れる人で、天から与えられた独特のキャラクターと才能があり、加えて単純で明るい人で、周りで支える人もものすごく多く、会社も大手有名企業なので福利厚生もしっかりしていて、退院にこぎつけさえすればあとは、また彼の人生が始まるのだろうと思っていた。それが何年続くかとか、そういうことは今考えなくてもいいことだと。未来は明るい、と。

 その後、彼がほんの数時間ではあっても入院以来はじめて一時帰宅を許されて、夫婦の愛の巣に戻って一緒にカルボナーラを作って食べたなんて感動的な話も聞いて、さらに明るい気持ちになったのだが、暫くして、高熱が出て食べられないという話が耳に入ってきた。
 直接聞いてみたら、夕方だけでそれ以外は平気だということだった。でも随分長く続いていた。腫瘍熱というのがあるらしく、それじゃないかと内心疑い始めた。またしばらくして、奥さんにチャットで友人の具合を訪ねてみたら、いつもは必ず即レスが来るのに何の返事も帰ってこなかった。かわりにフェイスブックに、何か追い詰められたようなポストが投稿されているのを見た。

 また私の頭のなかで、彼はいつ死ぬか問題が湧きだしてきた。6月末に見舞いにいく予定だったが、それを繰り上げようか考え始めた。
 でも行く余地があるのか、行ってもいいのか、この野次馬根性は野放しにしてもいいものなのか、何のために彼に会いに行こうとしているのか、分からない。具合が本当に悪くなっていたとしたら、そんな姿を人に見せたくないかもしれない。でも、行きたい。行って確かめたい。でも私が確かめたい何かを知るために、押しかけていい状態なのかどうか。
 そもそも、彼は本当に死ぬのだろうか。そういう話なのだろうか。死ぬ死ぬという考えにすっかり慣れてしまって、何の現実味もない。8ヶ月も入院しているなんて、本当だろうか。いまだに信じられない。

松下幸 Koh Matsushita
1972年生まれ
福岡県福岡市出身 / シンガポール在住
コピーライターのようなもの
大学中退➝フリーター➝主婦➝フリーター➝会社員➝フリーランス