文 / ムシャ カズタカ
1993年、世田谷美術館が企画した『パラレル・ヴィジョン』展は日本における「アウトサイダー・アート」を本格的に「美術」の枠組みの中で紹介した初めての企画展でした。約20年前の、当時の美術関係者やその時代の雰囲気はぼくには想像するしかありません。しかし、今ぼく自身が関わる「障害者」のアートや表現が、アウトサイダー・アートやアール・ブリュットと言った枠組みの中で受け入れ(られ)ようとしている時代性をつくったのは、90年代、日本で美術的な文脈の中で評価されたそれらの作品群だったことは断言できます。むしろ、ABC(アール・ブリュット・コレクション)やアウトサイダー・アートと言われる作品群の多くが精神障害や知的障害・発達障害と共に生きている/生きていただろう作家の作品が多かったことは、「表現する」ことそれ自体の根源的な意味を積極的に鑑賞者に訴えたのだと思います。それ以前から京都府亀岡市みずのき寮で絵画教室を開いていた日本画家の西垣籌をはじめ千葉県立千葉盲学校に図工担当教諭として粘土造形を行った西村陽平、滋賀県の信楽青年寮に関わった美術家・絵本作家の田島征三と、個人で障害者の生活する入所施設や通所する施設に関わっている美術関係者もいました。また現代陶芸の基礎つくった陶芸家の八木一夫が仲間と共に知的障害者へ造形活動に取り組んだのは、戦後直ぐでした。
『アウトサイダー・アート』(服部,光文社,2003)から2000年代に入り取り上げはじめられたように、日本でも「評価」する言葉や文脈を探し出すことが始まっています。そして、その導火線の役割を担ったのが96年代から続いている「エイブル・アート・ムーブメント」です。現在、その運動はアートという可能性の拡張性をコンテポラリーな時間や空間の表現、ダンスや音楽、コミュニティの中にも見出す取り組みをしています。(『生きるための試行』フィルムアート社,2010)または、積極的なかたちで資本の仕組みとして施設と社会を繋ぐ仲介組織「エイブルアート・カンパニー」の設立へと至っています。そして現在進行形として、「正規美術教育や伝統的な訓練を受けていない」「地位や名声の為ではない」「流行やモードに依らず自分の表現欲求に純粋」なアートとの親和性をもつ「障害者」の表現は「日本のアウトサイダー・アート」や「日本のアール・ブリュット/アール・ブリュットジャポネ」として海外に輸出されたことで、逆輸入するかたちで、何人かの作家や作品が注目されて始めました。日本における障害者や入所施設、精神病棟の中で生まれた作品は、その社会構造的にも閉鎖的・抑圧的な環境に置かれながらも多様な価値観を、作家以外の支援者や鑑賞者、関係者が積極的に見出していく過程を、通過していくのでしょう。それが2010年代、日本のおける「アウトサイダー・アート」の大きな動きになっていくでしょう。
しかし今回、この連載の中で考えていきたい―私個人が着目している―のは、アウトサイダー・アートの中でも特に障害者の「表現」と、そこに関わる支援者との「関係性」です。「障害者アート」と「共同性」について(岸中,2007)を改めて、作家・作品・現場・支援者との関係と創作の過程を通じて積極的かつ肯定的な意味を作品に提示してみたいのです。それは決して作家の受動的な「描かされている」「教えられている」「守られている」という被支援者の姿ではなく、もっと多様でユーモアがありもっと確かな「アウトサイダー・アート」の像のはずです。ぼく(ら)が、現場で立ち会う表現の生まれる瞬間―その時、作品はキラキラと輝いている!―をその傍らにいる眼差しで語ること、まずはそこから始めてみます。
ムシャ カズタカ Kazutaka Musya
1982年長野県生まれ。福祉施設職員
障害者福祉施設で表現活動とサポートの仕事に就き、展示会や現場のプログラムづくりの中心を担う。障害のある方の表現活動の現場の表現と支援者関わりについての短い発表など研究中。
http://mshkz.tk
kaheru304@gmail.com
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