日々の関わりの、濃厚な産物

文 / ごとうなみ

 「真夜中で遊ぶ」というタイトルの油絵を当時グループ展で示して以来、昨年夏に至る22年ものあいだ絵画を発表してこなかった。長い間絵筆を持たなかったのは、他者性との関わりに興が沸いた私の好奇心を、自身の力量では絵画という形態に納めきれなかったのが主な理由だと思う。

 インスタレーションは物質と空間に関わり合う行為だけれど、物質との関わりはその構造や特質を理解して扱うので経験や知識も得ることができ、分かりやすい。私の手許に来たという事実が「出会ってしまいましたか。」という何かしないと離れませんよ的な必然を発しているように感じられることも面白く、私は自分の自意識に従いインスタを手がけてきた。作品を展示する空間はその場へ足を運ぶ能動的な行為だけど、対峙する巡り合わせは人を介してだから人間の味を感じる。制作しているときは視覚と触覚の同時開放中の相互間をどれだけ行き来できるか、が存在のリアルに結びついている。時に遠く自らのヴィジョンを刺し飛ばし、それがどんな意味をもちどんな主張を伝えているのかをまるで他人事にし自分にとって灯台のような作品も気付けばつくってきた。人に限らず他者性との関わりは逃れる事のできない道なのかと最近自分の制作を顧みて考える。
namigoto021414-300 描くという行為はこうした物質的情報量を減少させるから、絵の世界に引きづりこんでいく引力に魅力がなければと、気持ちに重しがかかっていた。コンプレックス。白状するとずっとそれがあったように思う。別段隠してもいなかったがこの急所を昨年夏ふいに突かれた。驚いた。だけどそのひと突きは紛れもなく必然の上に立つ他者性であり、ふくれあがった腔を刺激し一気に放出したい欲求を沸き上がらせた。老廃の濁がドクンドクンと流出し錆びたコンプレックスもいつのまにか流れたので今は清々しく絵を描いている。他力本願でもいいんだよと他者の声が私を奪う。もう少し力を抜いてもいいのかもしれないと気のフレた錯覚に眠りそうになる。日々の感応に振り回される私は、これからも経験という作品の中を生きていくのかもしれない。なーんちって。(鬱間主観展 Depression Intersubjective Installation Meeting 2013を振り返って。交差する点を記す)

ごとうなみ Goto Nami 
1969年生まれ 美術家 長野市在住
http://nami-goto.jimdo.com/
ggごとう画室主宰
長野美術専門学校/ながのこども美術学校専任講師
渋響pH:6(2014年4月12日13日 長野県下高井郡渋温泉郷) でインスタレーション作品出展予定
http://www.onsenchillout.com/